松尾さんからの書き込み
この掲示板で向井先生に度々紹介していただいている松尾です。
過去を学ばずして明日の展望なし と私は常々考えておます。例えば数年前、米映画の硫黄島からの手紙の公開によって 大平洋戦争における硫黄島の激戦が人々に知らしめられる、という胸を締めつけるような出来事がありました。私は歴史好きであるためか、栗林中将の卓越した統率力、バロン西の奮闘、米軍の死傷者が日本軍を上回る死闘であったこと、沖縄防衛の為に第二御楯隊と呼ばれる三十数機の特攻部隊しか援軍がなかったことなどの事実を知っていた。しかし教科書はそれを伝えない。個人の葛藤や感情はそれぞれであったにせよ、日本軍死者二万八千名が国の為に尽くしたことに変わりはないはず。それをあろうことかハリウッド映画によって再認識させられるとは・・・胸が痛い。
大平洋戦争は軍部の独走によって引き起こされたと教科書は書き記す。しかし、その独走を許したのは果たして誰か?争いを恐れて軍部に迎合し、財界と癒着していった政治家の腐敗こそが根本ではなかったか。
悲しいことに、金と政治、官僚政治の文字ばかりが浮かぶ現代とあまり変わらないように思えたりもする。切ないことである。
明治維新以来、名もなき漢(おとこ)達の死によって成り立ってきたこの国は、いつしか政治に何ら期待せず、関心すら示さないようになってしまった。
漢がいない。きらめく人物がいない。
さて、忘れもしない昨年の四月十日、私はロッククラフトに出会った。以来、一時間半かけて週二回以上は通っている。ガソリンが異常な値上げを続ける中、何の為に小山に向かっているのか、を自問自答する日々もあった。
だが、ロッククラフトには漢がいる。年齢、性別にかかわらず、きらめく人物がひしめいている。それは目にした者でなければわからない。
まさに愉快、痛快。きらめく人間のオーラは周囲の人々をも感化する。
事実、拙書『士道に背く者あり』を出版するという無謀なる勇気は、ロッククラフトとの出会いから生まれたのだ。
恐るべきはロック先生、なのである。
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そんなことはないけれど・・ muklai
確かに、歴史はいろんなことを教えてくれますよね。
僕は確かに大学で歴史学を学んだのですが、最初の先生は「過去の教科書に書かれている歴史を捨てて、心に感じるものを、新たに検証してみないか?」というようなことをいわれました。
過去の歴史的事実といわれているものは学習によって知識として脳に刻み込んだものでしたが、それを捨てる、あるいはリセットして検証しなおすまでには、長い自分史が必要でした。
登山とであったのも、その登山行為の究極といわれるアルピニズム(あるいは岩、雪、氷からの登攀と、その思想)に疑問を抱かせたのは、大学で出会った二人の先生との出会いでした。一人は一昨年大学を引退した、Y浅先生で法人類学の立場から私をヒマラヤ、それも未踏の山岳へ導いてくれました。彼の考え方、あるいは思想はわたしの中で悶々としていた歴史真理の究明への、さまざまな思考的方向性を示唆していただきました。
毎日毎日、殴られるために先生の研究室た自宅への訪問の日々は今でも新鮮に、しかも鮮やかにわたしの心層に深く根ざしている重要な時間の積み重ねであり、わたしの思考を支配する重要な自分史であったと考えます。
また、同時期に文化人類学者で登山家であったK野先生(現、金沢大学副学長)との出会いも、わたしの脳の思考を大きく変換させたすばらしい先生でした。
ネパールヒマラヤ、ロルワーリングヒマールでのフイールドを何十時間もK野先生から伺いました。
歴史学に文化人類学意的思考の重要性を示唆してくれたのは、k先生にほかなりません。
この二人の先生は会議の席では議論を繰り返し、はらはらするような過激な言論による闘争を繰り返しているのですが、あるとき3人で御在所岳(鈴鹿山脈)へ岩登りにいくことになり、岩の上で語り明かした時間は、今でも、とても鮮明に
覚えています。
「議論することは必ずしも敵対することではない」ということを学んだようにも思えます。
歴史とは、あるいは政治的対立、思想的対立、宗教や経済的対立を生み、それらの対立からの回避行動が国家の形成を生み・・しかし、国家の概念の未成熟な人類の2000年(あるいは4000年)の歴史自体が国際紛争の源となっているのも歴史的事実でありましょう。
概念だけでは何も生まれない?
しかし、概念が無ければ哲学は存在せず、今日の科学的発展も無かったのではないでしょうか?
人類にとって、果たして「宗教は必要か」といったのはB・ラッセルの言葉でもありますが、今日の国際情勢を鑑みますと、人間のエゴを感じてしまいます。
こんな時こそ動物行動学者K・ローレンツがいった伝説の「ソロモンの指輪」が必要なのかもしれませんね。
おそらく人間以外の生物には、利害も打算も金銭欲もなく、ただ在るがままに生きる理性がそんな辞しているような気がしてなりません。
脳科学によると理性と学習は人間に与えられた特権のように提起されていますが、理性とは自然の摂理に従うこと・・ではないか?・・と、ふと、思うことも多くなってきました。
地球の歴史(おそらく46億年)においても、宇宙の始まり(ビックバン)の存在においても、真実よりも人間の論理的思考のほうが優先されていると思われる人類の錯覚からの脱出こそがこれか他の地球秩序回復へ向けての大きな課題であるような気がします。
人間の歴史など、地球の歴史から比べれば「風前の灯火」にしか過ぎないのです。
もう少し「真実を真実として純粋に見極められる」人間を育てる必要性を感じますね。
開口腱の「裸の王様」が懐かしく思われます。
「士道」とは日本人の古い概念ににしか過ぎませんが、スターウォーズではありませんが、理力をもったナイトの出現のために、わたしたちは日常を信じて生きてゆこうではありませんか。
日本はとても恵まれた国です。この国には理性が存在します。
そのすばらしい文化をもっと新たな世界秩序確立にむけて、貢献できる日本人の育成こそが、政治や教育にもっとも求められることでは在りませんか?
日本人には士道は存在するのです。
そんな素敵な日本人であることに、多くの日本人が気がつくとき・・世界は少し、変わるかもしれないと・・僕は考えます。
相変わらず支離滅裂?な文章ですね、察してください。