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骨格の可能性と限界

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筋肉の質量を考える前に、自信の骨格がどのように生成されているのかを考えなくてはいけない。そもそも骨格とは身体を支える屋台(骨)なのであるが、理科の実験室にあった骨格標本のように骨格は自らの力で自立することはできない。だから筋肉を鍛えて自立できるようにすることが重要なのだが、骨格には運動の可能性と限界がある。骨事態の強度も問題であるが、運動とは骨自体の強さではなく、関節がいかに駆動するのか・・と言うことである。骨格したいの駆動域は柔軟体操などで解決はできない、と考えたほうが良いと思う。骨格の可動域があるのに関節がそれ以上曲がらないのは鍵やじん帯、筋肉などの柔軟性がたりないことが原因であり、それは解決できる問題でもある。

例えば、左足を軽く捻挫してすこし内側に内半側している事に気づかずに、今までの同じような、左軸足運動をしていると、右軸足に運動を制限された場合、思わぬトラブルを巻き起こすことがある。

おおむね捻挫を軽く考えて何時人が多いが

足首と脛の関係を改善しながら練習しないと、膝のじん帯を損傷してしまうケースも多い。特にスノーボードのような足の角度や幅を制限競れて運動するスポーツはなおさら注意が必要である。

足首にあまり負担のかからないスポーツなら、それほど気にする事はないのかもしれないが、足首の捻挫は体のバランスを著しく崩す事があるので要注意である。

筋肉の質量と成分

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タイトルから考えると、これは生理学的な筋肉の事を考える事かな・・と思ってしまうが、実は思考の質量と成分の話である。さまざまな実例からこの問題を考えてみたい

その1、

A田さんがフイギアスケーとの大会で合計8回のジャンプの内、6回を失敗した。彼女は4年後のソチオリンピックを目指して今年の4月頃から肉体改造を行っている。彼女曰く「筋肉量が足りないので、その質量を増やす」と言うのだが、その結果が今大会で如実の出てしまったようだ。彼女はバーベルを持ってトレーニングをしていた。「筋肉の量を増やす練習の一部」と僕は考えたい。しかし、そこには大きな落とし穴もある。自分の意識が「量を増やす事」と考えてしまったら、筋肉の量は増えても、ジャンプに必要な質の向上にはなりにくい場合がある。言い方を変えるなら、車のパワーが足りないので、エンジンの排気量を1000CCから1600CCへあげる事によって、車の走力が変わるのか・・と言う問題である。力学において加速力を上げるとは、弾性エネルギーの量を増やす事ではない。車にたとえれば、適切なギアチエンジが行われなくては、エネルギー変換は行われず、位置エネルギーが運動エネルギーに変換できず。すなわち、仕事量としての運動量は増えないという事である。

もっと解りやすくいえば、エンジンの回転数は上がってもタイヤが熱を持ちすぎて、焼け焦げてしまうのだ。

彼女の肉体改造が筋力アップを促す事によって安定したジャンプやスピン、ステップ力を向上させるにはシャーシの豪勢の向上とギアを組み替える必要があるのだ。単なる筋肉の量がアップした事は蛇体重量が筋肉量のアップによって増えてしまって、運動効果が上がらない・・という現象に陥って何時ように思われてならない。

しかし、4年後への第一段階であって、今回の大会の結果は求めてはいけないとも思う。よいコーチが付いているのだからそんな結果にはつながるはずはない。マスコミや観客はこんな事で一喜一憂してはいけないと・・思う。

その2

「靴が脱げるんです。ヒールフックをした時に、かかとが脱げない靴がほしい」とか「あの靴は踵が脱げ安いからよくない」という話があるが、靴が脱げる・・と言う事は靴が悪いからなのだろうか・・と言う事を考えてみたい。

一般的に脱ぎやすい靴は、履きやすいのである。脱ぎにくい靴は履くにくく、足においては窮屈なのである。僕は幼稚園の頃から中学3年生まで冬はスピードスケートを毎日練習していた。古い話だが札幌オリンピックに出場したいという大きな夢を抱いていたのである。「エッジを寝かさない」「横に押し出す事で進むんだ」「腰は落とせ、上体はリンクと平行にならないと、スピードは生まれない」など小学生の自分には意味不明なことを毎日言われるのだが、理解していないのに「はい」と元気よく?返事をしていた。

何故、前は進むのに、スケート靴のエッジを横に押すのか

腰を落とすと窮屈になり。腰が痛くなるのに、これ以上腰を落とさないといけないのか

など、理解不能な状態が6年以上続いていたが、楽しかったので続けた。ぼくが注目したのはコーチが靴紐を緩めたままで滑る姿であった。コーチ曰く「エッジをしっかりと足で踏んでいたら靴など脱げない」という話と、音もなくスケートリンクを滑る姿に芸術性を見出したのであった。「エッジを足裏でつかめれば、靴紐などいらない」・・・それができたのは中学2~3年の事だったと思う。

クライミングに置き換えれば、ヒールフックにおいて靴が脱げる・・脱げる靴が悪いのではなく、靴を脱ぎ動作とヒールフックと言う技術は違うのだ、と言う事を考えてほしいのである。

今日はこのくらいにする(笑)

熱すぎますね(笑)

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熱すぎて考える事もできないような毎日が続いている。昨日は熱中症というか脱水症状の体験者が現れた。5歳の子供だったが運動不足の典型のような感じでもあった。「ほどほどにして帰らないと、熱中症になるかもしれないよ」と母親に諭してはいたのだが「普段は運動をしたがらないのに、今日は楽しそうにしているから」となかなかやめなかった「水分を取らせて上げてください」と何度もお願いしたが「大丈夫です」と軽く考えている・・で「もうおしまいです」と強制的にやめさせたすぐ後に胃の内容物を吐き出してしまった。母親は動転していたが、脇や首筋が厚くないし、顔がすこし青いだけだったので軽い貧血だったのかもしれない。運動不足は暑さの中での急激な運動でも危険な状態を招くのだ。スポーツ飲料をすこし飲ませたら、意識も回復したが、親が運動させようとしても、子供に土台がなければ無理強いである。よい教訓になったと思う。母親も低姿勢で感謝してくれたが、運動とか熱さ対策を知らないと、いろいろと危険な事もあることを改めて学習した1日でもあった。

飲み物くらい・・とか、塩分なんて・・って軽く考えないほうがよい。ビタミンも大切だし、運動後の糖分必要である。運動後の過激な冷却も運動効果を低減させるし、運動後のサウナで更に汗を流したい・・という考え方もこの暑さでは体を壊す事にしかならない。注意を促したい。・・・といっても、ほとんどのお客さんや生徒には「だら~」とした練習をお勧めしているのだが、これからはもっと注意して見守らないと、大変な事になりそうだ・・・。

しかし、熱いからといって完全に運動をやめてしまうと、違う感じで体がだるくなる。基礎代謝が悪い時もそれなりの運動は必要である

「熱いから1ヶ月スクールを休みます」と子供の運動をやめさせた親もいるが、子供のストレスは最高潮に達している場合もあった。熱くても、寒くても季節に関係なく地道に運動する事は大切な事だ。

僕の娘も先週の金曜日に、サッカー部のマネージャーから部員に昇格した。まぐれあたりで、顧問の先生(男子)よりゴールキックを蹴れる力を持っていても、それが練習となるとなかなか上手くは行かない。まして初めてのリーグ戦では、まともにボールが足に当たらない。やはりウサギの心臓なのである。それは中学時代のソフトボールでも言えたことだ。バッテイングセンターやトスバッテイングなどの練習ではホームランを連発しても、いざ試合では呆然自失が娘の得意技である。しかし、昨日はサッカースパイクなどの用具を購入したが・・・マネージャーのままのほうがよかったのかもしれない・・と父は思うのだが、戦時的な筋力があるだけに期待されてしまうのである。

我流(師を持たないこと)

練習で大切な事は自分の全てを受け容れる事である。できないことを見つけては「おごらず、ひるまず、継続する」その繰り返しに中に見えてくる自分。不得意を覆いかくす事より、不得意を見つけ出し自分流に取り組む事、その姿勢が結果をもたらすのだ。

難易度を追求する事がクライミングの目的ではないし優劣の物差しでもない。僕にできる指導とは、宮本武蔵の沢庵和尚見たいな事なのかもしれない。

「強いから頂点に立てたのか」「天下無双とは、強いだけでよいのか」「強さとは恐怖を感じないことなのか」「人間らしい自然な煩悩とはいけないものなのか」などなどさまざまな事がが僕の脳裏を横切ってゆく。

「勝つためにたりないものは何ですか」と言う問に沢庵は簡単に答える「それは己しか知らない事だ」と「練習って人生と同じ事」

勝つために死を選択することは強くはなれないこと。23歳の武蔵に沢庵はさまざまな教訓を残したのだが、その頃の武蔵には理解できなくとも晩年には思うとことを見つけたようでもあった。僕が「五輪の書」を読んだのは中学2年の事だったと思う。ちょうど剣道に挫折した時だったと思う。

何を書いてあったのか・・僕の脳裏には何も沸いてはこない。しかし、我流が間違った考え方ではなく、自然の中で我として生きることが人生の流れであるのなら、誰かの教えを貫いてみても、自分のものにはなりはしない。我流をルら抜き通す事こそ、大切な生き方であるのかもしれない・・と、ふと思った。

自分の汚さ、醜さ、弱さなどを否定する事ではなく、自分の全てを受けれることができたとき、自分にオ本当の強さ(天下無双)がおとすれるものだ。剣術とは死をかけて勝ち取れるものではない。現実で生き延び、死から逃げてこそ成しえる境地なのかもしれない・・と沢庵が言ったかどうかは定かではないが、なんとなくそんな声を聞いたような気がする。

腕白小僧に育てたい

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最近、草食男子問い言葉を聞くが、なんとなく歯がゆい。「おとなしい」「きれい」「礼儀正しい」とか肉欲があるにもかかわらず積極性がないなどの傾向を持つ、主に20~30代の男子の事を指しての総称のようだ。アンケート調査によると74%くらいの男子が「自分は草食系」と自己判断しているらしいが、なんと言ったらよいのかわからない。

一方、結婚相手を選ぶのは女性側に主導権がある・・と言う話も聞く。自分の彼氏を自分流に教え込んで「こんな感じななら結婚してあげるか」ってな感じで彼氏を教育する?と言う話も聞く。その傾向は意外と以前から進行していたようだが、マスコミなどが取り上げだしたのは最近のように思う。

肉食とか草食と言う話は単に食事の好みの問題だと考えていた私の読みは相当外れていたのである。

10年位前、30代後半のアメリカの証券会社勤務の女性が「ねえ、アメリカではクライミングジムはミートって言われていて出会い系って言われているの知っている」と教えられて????ってなった事があった。要するに

クライミングジムは素の自分がでる。それを後ろから観察していると相手の性格が浮き彫りになるから面白い、と言うことのようだ。すなわちせっかちな人は冷静な人、粘り強い人、ヒーローのなりたがる人など、クライミングする姿を観察しているとドレスアップできない自分をさらけ出してしまう・・というのである。

確かにそのような傾向はあるのかもしれない。意外と人間は自分を装飾してしまう。恋愛においても自分ではない自分で相手と対応してしまうのである。だかた、素直になれない自分に歯がゆさを感じたりするのである。

良い相手・・と直感して相手の気持ちを引き止めるために、いつも以上の自分を演出してしまい、かえって疲れてしまうのである。

それは幼い時から生活習慣に根ざしている無意識の対応策なのかもしれない。

しかし、隠しきれない自分を装っていても限界はある。自分が自分らしくない事を承知で相手に合わせていると、必ず破局がくるのである。それは単に恋愛感情の終焉を指しているのではない。

素直な自分を受け入れるって事は相手が自分の親(あるいは子供)であっても難しいのである。「仮面夫婦」なる言葉もそんな現実の表れでもあろうか?

子供たちは意外と親を冷静に見ている。しかし親は見られている事をあまり実感してはいない。むしろ子供のことを「よく見ているつもり」なのだが「実は子供のことがわからない」と言うのが本音なのであろう。

これらの対角軸は間違いなく存在する。良い親でありたい。良い夫でありたい、良い子供でありたい・・と自分を装うことで、自分自身を追い込んでしまっているのである。それは社会が豊かになるとおきる社会現象でもある・・とどこかの社会心理学系の本で読んだ事がある。

無理を強いた自分は、本来の自分ではない。無理をしない自分を発見して築き上げる事も、教育する側の責任ではないのだろうかと、ふと、考えてしまった。

では、何がいけないのか?と考えてみると、表面上は「良い子」が多い。もっと子供の頃に「悪い子」になって何が普通で何がよい事なのかを多角的に体験して学習する時間が、子供たちから奪われているような気がしてならない。僕にとって「このくそガキは、言う事を聞かない」と言うステ台詞は粗子供に対する最大の賛辞である。

だから、僕はここで「腕白小僧を育てたいと思う」

子供は元来、腕白でいたずら好きなものだ。そんな子供たちの成長過程に必要な事を、あるいは放置したり、あえて見ないふり」して見守り、あるいは育む。そんな学校があっても良いのではないかとおもうのである。最近は喧嘩する子供たちが減った。最近といっても10年以内のことである。「喧嘩する事は悪い事」でるという教育が浸透したのであろうか、普通を装う子供たちが多い。まさにそんな小学生の生き様には「草食系少年」が見え隠れする。

今日、草食系青年が20~30代の74%を閉める、と言う背景を生んだのは、10年~20年前の社会環境に大きな要因が隠されている、といわざるを得ない。

朝青龍は29歳である今日でも腕白である。こんな青年を見ていると痛快で楽しい。それを非難する相撲審議会の役員様も、実は腕白である事を促しているのではないかと、ふと考えてしまったのである。

今でも小学校の廊下には「廊下は走らない」と横断幕が張られているのであろうか?少なくとも僕は小学時代「廊下を歩いた」記憶がない。

ルールを守る事が優先ではなく、ルールはどうして成立してきたのかを学習する事のほうが、むしろ大切な教育であろう。

もし僕が小学校の先生だったら「廊下を歩くな」と叱りたい。

もし僕が横綱審議委員なら「ガッツポーズ素敵だったわよ」と本人の耳元でささやいた後「日本文化を理解できない人は横綱でなない、もっと品位を持ちなさい」とマイク片手に熱弁を奮うだろう。

腕白小僧「朝青龍」は危険な感じがしてとても素敵だと思う。

イチローだっていまだに腕白ではないか、少し「生意気位がちょうどいい」

大リーグにだって、一人くらいは反イチローな審判がいたほうが楽しいではないか・・と考えてしまう僕は、果たして知性を持った大人なのか腕白なまま50歳を過ぎた未熟な中年なのか?

判断は皆さんにお任せしたいと思うのである。

子供の頃の夢(そのうち加筆)?

才能を信じる事

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自分に才能があることを信じて毎日の練習を積み重ねる事は、決して生易しい事ではない。誰もが目指し、あるいは憧れ、夢に描いて現実を知る。

それは富士登山においても同じ事が言える。見ていると美しいが、いざ登って見ると、そこにはさまざまな現実がある。

「こんなに苦しいとは思わなかった」「こんなにたくさんの人が登っているとは思わなかった」「こんなに汚れているとは思わなかった」

一方「こんなに美しい夜明けがあるなんて、素敵だった」「何かをやり遂げた気がした」「一度は家族と登ってみたかった」

などなど、さまざまな思いが心によぎった事だろう。

あるいは、クライミングで世界を目指す事も、ヒマラヤの高峰を目指すのと同じくらい・・あるいはそれ以上に厳しい現実がそこにある。

多くのライバルとともに戦いながら、休み無く練習に培われ、自分を鍛えあげても、その頂点は一瞬であり、永遠ではない。

山に登る事とクライミングの大会で頂点を目指すことは、少し意味合いが違うような気もする。そんな話を、昨日、ほぼ半世紀に亘りアルプスの6級以上のルートを登り続けてこの夏フランス、シャモニーガイド組合からシカドール賞を日本人として始めて受賞し、表彰されたT安さんと話しあった。フランスのシャモニーでは盛大な式典が行われて彼の業績をたたえたのであるが、日本では何にもない。それを彼は憂いでいるわけではない。日本人の山登りにおける思想(あるいは哲学)の無さに、一抹の不安を抱いているようでもあった。

「決して人から評価されようと思ってアルピニズムを追求したわけではない」

「それはあくまで個人的な欲求によってここまでたどり着いたにしか過ぎない」

「Ism(精神)をもってクライミングを行うことは、自分への評価になる」

など、話していると、彼の人柄と人生観が伝わってくる。

最近はそんな人物をなかなか見かけなくなった。彼はある女性クライマーを育てている。僕も彼女を育てたいと思っていたが、途中で彼にバトンをタッチした。彼女は、僕の手が届かないところに行ってしまったからだ。彼女の功績は近年のアルプス登山しには画期的な功績を残しているのだが、T安氏も彼女もその功績を日本では発表してはいない。今年の夏の彼女のアルプスでのクライミングはスイスやフランスのガイドたちも驚くべき成果を挙げている。数年前よりモンブラン、マッターホルン、ドロミテなどの高難易度のルートを次々に落とし「次は、アイガーを目指したい・・」と彼女は言う。

時間をかけてここまで育てて、これからの方向性を考えながら、アルピニズムの精神を教えながら、彼女の育成に励む。

T安氏と僕は「もう、アルピニズムの精神をもったクライマーは育たないのではないか」と考えていたが、30歳まで普通のOLだった彼女にその幻影を見る思いがする。

「なんか変な気がするね、彼女がここまで上達するなんて考えても見なかったが・・・今は彼女に憧れを持ちながら教えているような気がするね」と二人で顔を見合わせて笑った。

彼女に本格的なアルパインクライミングを教え始めたのは、8年前に遡る。はじめは決して才能がるとは思えなかった。しかし、彼女の真剣なまなざしに僕たちは触発され、今日に至った。

自分の才能を信じて、耐えざる練習の繰り返しの中に、彼女の求めるアルピニズムという思考を伴ったクライミングが開花していったのである。

才能を信じる事。それは簡単なようで容易なことではない。むしろ彼女は、ただ自分の欲求の思うが侭、岩に魅せられたのかもしれない・・と、ふと思った。素敵なクライマーである。

できない約束

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「さあ!がんばって康介もオリンピックを目指すか!」とは中学生のときの北島康介に平井コーチが行った言葉である。さらに「世界新記録を出してさ」とも付け加えたとか・・・。言われた本人は「え、俺が???馬鹿じゃない」と言うよに思ったそうである。中学生の頃の康介には、そんな自信は無かったがそんな夢は描いていたようである。

それから2年後、康介は急激に記録を伸ばした。平井コーチには確信があったようである。無名時代からじっと彼の練習姿勢と方向性に確信を抱いていたという。さらに平井氏の持論を活かせる、要素を持ち優れた素材であったことを、既に見抜いていたのであろう。そんな眼力は、なかなか普通ではありえない事である。素材を見抜く力と、自分の素質を研ぎ澄まし、練習を重ねる姿勢が積み重なってなしえた偉業であると、僕は考える。

しかし、コーチの資質が選手の育成にどの程度貢献しているのかはなんともいえない。いいやむしろ選手の努力に勝る才能はないと、僕は考える。コーチの直感とアドバイスは1%にも満たないと思う。

選手の側がどのように考えているのかは、コーチにとっては未知数である。ただ、ひたすら、繰り返す事、あきらめない事、継続する事を伝える。

選手が前向きに取り組んでいるのか否かは、直感でわかる。そんなとこは距離を置く。あるいは突き放してみる。それは決行つらい事でもあるが、コーチに依存しすぎても良くないのである。コーチは技術的支柱であり、苦境における精神的な支柱である。

支柱とは柱の一つに過ぎないが主柱ではない。本柱は本人心と体の中にある。

才能のある子供はたくさんいた。そして今もたくさん居る。

主に、才能のある子供には何もアドバイスはしない。素直にすくすく登ればよいと思う。しかし、単に勝ちたいとか、難易度ばかりを追いかける子供には、力を抜くように仕掛ける。のぼり調子のときは良いのだが、壁は必ず立ちはだかる。その壁は常に自分の努力と不断の練習で超えてゆかなければならないのだが、悪い壁を無駄な努力で越えようとすると、故障を招く。故障は必ず傍らに控えている魔物でもアル。

しかし、魔物の居ない構造はないし、魔物を超えなければ向上もない。しかし、故障を抱えながら若くして壁を越えるのは、更なる試練と戦う羽目になる。

いつも繰り返すが、17歳までは故障をしない体つくりがクライミングの主な指導である。しっかりした体と心の適切な成長を促し、クライマーとしてではなく、むしろ身体の健全なバランスの育成を目指している。生徒にある持続可能性を見極める・・といったほうが適切かもしれない。

可能性のない夢よりも、可能性のある夢をおくことのほうが、人生は豊かであり、振り返って見ると楽しいかもしれないのだ。

いずれにしても、かも知れに・・に尽きるが。

可能背のあるある方向に導く練習をほどこしたいと考えている。

すなわち、できない約束はしない。できそうだから「世界を目指してみないか」と子供達の耳元でささやくのだ。

1973年10月22日、イチローは愛知県西春日井郡で生まれた。小学校では既に120Kの速球を打ち込んでいたという。

ほぼ4歳ころから、プロ野球の選手になると自分で思っていたらしい。彼の才能をプロで通用すると考えたのは、オリックスの三輪田勝利というスカウトだった。彼以外にイチローのセンスや才能を感じたスカウトは居なかったようで、彼は伝説のスカウトと呼ばれている(なくなられたが・・)

センスは練習によって培われるものであるが、センスはもって生まれた才能でもアル。これはいかなる努力を積み重ねても勝ち取る事のできるものではない。

しかし、多くの優れたセンスを持っている人は、その才能を生かすことなく普通になってしまう。それは誰よりも練習するという努力を怠るからである。

以前4000時間のルーチンについて書いた事があったが、基本練習は技術が上がっても怠ってはいけないものだ。

ロッククライミングというスポーツは、さまざまな側面を持っている。

1)たった一歩足を進める事に、どうしてこんなに多くの思考を伴わなければならないのだろうか・・とか

2)一見、思いつきのような軽い感覚的な動作が、意外とセオリーだったり・・とか

3)強く、指の力でつかむ事だけでは問題を解決できない・・とか

4)一見、ゆっくり動いて見える人のほうが、頂上に速く着くように見える・・とか

さらに

1)目の見えない人が登れる・・とか

2)筋肉隆々の人より、運動音痴を自称する人のほうが、高く登れる・・とか

3)天井を移動するような壁を、小学生が悠々と登れるのを見て驚愕する・・とか

4)70歳くらいの老人が登っているので・・しかし、まったく登れない不思議・・とか

見方を変えるなら

1)力を抜かなければ登れないんだよ・・とか

2)足の指で石をつかむから、登れるんだよ・・とか

3)生卵をつかむくらいの握力で登るんだよ・・とか

4)筋力ではなく、バランスで歩いて登るんだよ・・とか

目から鱗の話になるんだけど

1)ダンベルやバーベル、鉄アレイではクライミングの筋肉は育成できない・・とか

2)腹筋が6つに割れるのは、トレーニングの成果ではないんだよ・・とか

3)目では見えない筋肉を鍛えるんだよ・・とか

4)右でも左でも、ボールが投げられるようになるんだよ・・とか

訳のわからないことが目の前で起きるのが、くらいみんぐ・・というスポーツなんだよ。そしてこんな話も、飛びさしてくる。

1)やせないよ?(体重は練らないよ)。でも、細くなるんだよ

2)筋肉を大きくする事はできないんだよ・・?

3)ナンバ歩きのような?そんな走り方もできるんだよ?

4)学力が上がるって、オーストリアでは言ってたよ!

5)ピアノを弾くことと同じ効果があるって、フランスでは言ってたよ!

6)洞察力を磨くスポーツって、オランダでは言ってたよ!

・・・とか、不思議な話がたくさん飛び出します。

さらに

1)オリンピックを目指している選手が、結構、取り組んでいるんだ・・とか

2)プロバスケットや大リーガー、格闘家などが基本練習に取り入れているんだよ・・とか

どう解釈してよいのかわからない話が、いろいろ聞けます。体験した人は、こんな僕の話が楽しかったと言ってくれます。

しかし・・「ロック先生は、しゃべりすぎ」と時々生徒に言われます(叱られます)・・とほほ・・

しかし、僕はクライミングを体験したり、練習する人の、その人にしかないセンスを考えています。

だから、

「ロッククラフトの教へ」とは

1)苦しくなったら声を出す

2)自然と人の調和を考える

3)一見、無駄と思えることの繰り返しに・・・真実が見えてくるのです。

長々と読んでいただいて、ありがとうございます。

 

 

 

 

子供達と向き合う

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ボクの教え方は一様ではない、一人一人対応の仕方が違う。ロックにかよう子供達はすべてがクライマーを目指しているわけではない。むしろクライマーを目ざしている子供は一部である。

目が見えなかったり、自閉症であったり、引きこもりぎみであったり、いじめにあっていたり、不登校であったり・・自分の居場所を探して、ここにたどりついた子供のほうが多いかもしれない。

物質文明が豊になった反動をまともに受けてしまった、繊細でやさしい子供達が多いのだが、見方を変えれば、協調性がない、自分勝手である・・などろレッテルを貼られてしまっているようでもある。

高度に成熟した文明社会は、社会に適応する子供達を育てたいと考えているようだが、子供達のすべてが社会適応性を持っているわけでもなく、社会が要求する子供になることを目標にしているわけでもない。

物事の考え方が一様であることが良いことでもなく、イエスかノーかが判断の基準でもない場合もある。

もっとも大切なことは、未来の人類あるいは子供達を取り巻く地球環境全体における持続可能性が何処にあるのかを判断する適応的思考こそが重要であるように、私は考える。

今日はこれかラ、自閉症といわれる子供が来るが、その子にとって自閉症という概念は何の意味も持たない。それは目が見えない子供にとっても、視覚障害という概念が役に立たないのとおなじことである。我々にとっては判断の一部の基準にはなるが、それらの子供(不登校やいじめにあっている)にとっては、客観的事実ではなく、彼らが直面している事実に対しての我々の対応であって、規則にあった対応は、子供達の求める対応ではないような気もする。

ある不登校で引きこもりになった子供を育てた母親が言っていた「出たくなければそこにいなさい。居たいだけ・・」と無理に部屋から引き出すことはしなかった、という。5年も歳月をかけたが、通信制の高校を卒業してイマは立派な社会人になっている。

ある子供(女性)は、中学では全国レベルの記録をもって将来のオリンピック候補とうたわれながら、高校2年で肩を壊して、家出して行方不明になり・・・しかし、今は27歳で幸せな家庭生活を営んでいる。将来設計もしっかりしている。

ある子供'女性)は、小学5年生から部屋に引きこもった。中学3年間もほとんど同じ状態だったが、高校進学と同時に学校へ通い、、イマは大学2年生になった。

同じ様に、今も不登校の子供も居る。原因はいじめの様でもあるが、自分に自信がもてないことも原因のようだ。

さまざまな悩みは、子供に限らず、親にも大きなストレスを巻き起こす。社会は、さまざまな闇の部分も抱えながら発展してゆく。普通じゃない子供はいない。あるいは片親の家庭だって普通の家庭なんだと実感させられる毎日でもある。

現代登山史について

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昨日、「二人のアキラ 美枝子の山」という本が出ているのを知り、思わず注文してしまった。ボクが大学に入って登山を始めてのが1975年である。毎日本屋さんに通って、山岳関係の書物は手当たり次第に読みまくった。限られた財源から山の装備と書籍購入には惜しみなくお金を費やしたものだった。僕の先生がRCCⅡなどの元代表?をしていた事もあり、奥山章さんの話は秘話というわけでもなく、普通に先生の口から伺うことができた。先生のおかげで書物でしかあえないと思っていた多くの登山家の方ともお酒を飲んだり、一緒に山に行ったり、生意気にも彼らとザイルを組んで岩を登ったことも多数在った。

美枝子さんとの山行きも、そんな一つであった。いつもなら多数の参加者があるのが常であったが、彼女との山行きは、驚くほど少数の山行きであった。記憶が正しければ、7回忌の法要山行きであったと記憶している。あれだけの登山家を支えた女性である。その気丈さとたくましさはすごい迫力で、ボクを圧倒していた。彼女の口からは、遠い日の「二人のアキラ」の思い出がとつとつと語られたのであった。そんな、二人の登山家を育てた女性の物語をぜひ読んでみたいと思った。(5月10日)

そんな時、いつも相談するところがある
小山子供育児相談所である。
なぜここになったのかはいまだにわからない・
子供の心理は謎だらけである

あまりにもローカルなことではあるが、
はいはいをする、子供の心理には、
はいはいをしないと人間としての機能が身につかない・
とでも、確信しているかのように
無意識にはいはいを繰り返す
「立て!!」と、こちら(親)から示唆されるまでもなく
時が来たら、立つ

そんな風にクライミングも行かないものかと
いつも考えさせられる。

育児指導などに、素敵な見識を持っている
小山自然育児相談所
新しい相談所はもうじき、オープンです。

http://www.k5.dion.ne.jp/~ikuji/

お尋ねください・・・



フリークライミングスクール・ロッククラフト

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