1080年、日本山岳会当会支部の遠征隊に選ばれて(ご祝儀で)、僕は、ガウリ・サンカール(7145M)の未踏の尾根へ向かった。
大学を失業して間もない頃、気持ちは、登山家を目指していた。
しかし、現実には腰を悪くして、コルセットを巻いたままの遠征であった。医者言った『直りません・・登山はやめなさい・・』
ある意味では、死を覚悟しての遠征だった・・山は僕を迎え入れてくれるはずもなく、敗退・・メンバーは、当時としてはかなり
1流の登山家ばかり・・チョモランマ(エベレスト北壁を初登)した登山家もいた。
1977年の岩登り競技会は、最初で最後の大会だった。
その年には、もうすでに、腰はぼろぼろだった。
朝、まともに起きられなくって、布団の上で、のた打ち回っていた。
原因不明・・いろんな整形外科へ行ったが、冷やせの温めろの・
処置方法はまちまちで、どうしたらいいのか分からなかったが・・
不安を抱えながら、それでも僕は、毎日同じように、10キロの荷物を背負って、毎日20キロにランニングだけは欠かさなかった。
今思うと、過剰な練習、過剰な付加が、腰を痛めていたのだろう。
1980年の遠征は、もうすでに荷物が背負えない状態での参加だった。
仲間と、先輩、先生には感謝いっぱいである。
本来こんな体の隊員を未踏の尾根につれていってくれたことを・・
そのお返しってことでもないのだが、僕は、最前線の登り方に興味がわいていた。いわゆる自由登攀(フリークライミング)である。それまでのクライミングは、3点支持が絶対であった。
3点支持とは手足4本の内、必ず3点は、岩を捕まえていて、1点だけ動かして、登る技術のことで、それ以外の技術は、技術として認められていなかった。すなわち2点支持、1点支持でのクライミングは邪道だったのだ。
ヒマラヤ遠征から傷心(自分で言うのは少し変かな)の気持ちを抱え、ガイドになる夢もついえて、しかしなお、クライミングの学校を設立したいと言う夢は消えなかった。
そこで、1982年、会社に了解を得て、アルパイン教室(沢登を中心)とフリークライミング教室を開講することにした。問題はスタッフ(先生)である。
僕の理想と、先生の理想が違うのでは、やっていけない。
僕は、理念理想が一致する人物の人選に迷った。
そこに、檜谷清さんと、森鉄弥さんとの偶然の出会いが生まれる。
それは必然だったのかもしれない。

