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自分らしさを捨てる

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自分の生き方とかポリシーというものにこだわって生きるのもひとつの生き方なのかもしれないが、それが重荷になるときもある。重荷は帰って自分の歩みを止めてしまったり、かえって負担になったりすることもある。らしさっていう言葉は素敵だが「らしくない自分」との出会いもまた楽しいとこもある。硬く生きるより、少しやわらかく生きてみる。いつも一生懸命生きることを苦しく感じたら、サボってみる。それも素敵な生き方なのかも知れない・・と、最近、思うようになってきた。自分には文学が似合う・・と思っていたが、最近は量子論について考えることが多い。自分がこんな考え方に行き着くことは想定外であったが、量子学もなかなか面白い。しかし僕は「ブンガク」で量子学を考えるのでい一般的ではないと思うが。人間の着想とか思いつき、なんとなく思うこと・・一見根拠がない思考は、実は量子論で考えると、よいとことに着地点が見出せることもある。なかなか楽しいのだ

大学時代の同級生がブログを始めたようだ(前からかな?)http://ameblo.jp/gm-take-y。なかなかのイケメンでとても山登りなんてするようには見えなかったのだが、センスは一流であった。彼は心理学を専攻していて、僕は良く実験台になっていた。特に女性心理には長けていたようで・・・僕はいつも嫉妬していた(笑)。Yに言わせると「お前の反応は普通と違う」とまるで奇人変人扱いなのであるが、今思うと、当たっているような気がする。僕たちは大学時代、いろんな意味でライバルであった。それは登山においては海外遠征にメンバーになるのかならないか、国内登攀では、岩壁登攀のメンバーになるのかならないのか、いつも仲間でありながらしのぎを削っていたようにも思うが、その中で僕は、正直言って「すこし遅れていた」ように思う。言い方を替えれば「実力が無いのに、彼らと世界を目指していた」のである。

彼はその中で一番女性に持てていたように思う。女性というか誰の彼女が一番綺麗か・・をも競っていたようでもある。それは僕だけの考える妄想だったのかも知れないが・・・。

彼は普通に会社に就職したのだが、僕も含めて、4人は頭の中が海外登山であふれていた。僕は彼女との今後を捨てる事を決意して、就職もせず。山登りにまい進していた。

いいやそうではない。山登りをやめて彼女との結婚生活にふみ切れない自分を感じていたのだ。それは遣り残している何かを捨てるには「まだ若い」と感じていたのか「彼女は待ってくれる」と自負していたのか。相当な過信が自分の中で渦巻いていたのであった。

夢のステージは、前人未到、あるいは世界初であった。誰もなしえなかった事を人類としてはじめて経験する・・・そんな夢にあこがれて、自分を見失っていた時期でもあった。20代の前半とはそんな時代だったのである。

彼は1年間に150日も山にこもった、と書いていたが、確かに僕も上高地での滞在日数だけでも、年間50日くらいを経験していた。

あれは、大学3年の夏の事だった。山から下りてこない彼女が、上高地に尋ねてきた。テントと寝袋しかない小梨平で、僕たちは、たった一度の熱い夏と熱い夜を経験した・・・ありあわせのもので、夕食を作り、野営用のキャンドルを1本たてて、彼女の21歳の誕生日をそこで過ごした。本当はその日は、クラブには内緒で明神岳の永遠の課題、菱形岩壁を登る予定であったのだが、僕の情熱は彼女に注がれてしまったのである。山に登る・・と言う情熱より彼女のほうが素敵だったである。しかし、それが最初で最後の選択であった。23歳の彼女の誕生日は、ヒマラヤに向かう飛行機の中であった。

テープレコーダーに「帰ってきたら結婚してください」と言う言葉を残して、僕は(すこし大げさだが)死を覚悟して、彼女との決別をも同時に考えていたのであった。

ある人が言った「最高の人に思いでだけを遺す事は、最高の罪である」スタンダールだったか?誰だったかは覚えていない。僕は行動の美学に酔いしれていたのであった。彼女はいった「私は女、あなたの中で私は誰なの・・私は鏡の向こう側にいるあなたを愛する事はできない」と言っていた。その言葉の意味を考えながら、僕はヒマラヤに向かう飛行機の中で「スターウオーズ」の映画に浸っていた。

その半年前くらいの事である。ヒマラヤ遠征の準備に多忙な中、彼女が札幌から尋ねてきた。僕たちはいわゆる遠距離恋愛をしていたのである。遠視の準備を2日間休む事は至難の業であったが、何とか休みを頂いて、なぜか犬山モンキーパークへデートにいった。猿の行動派クライミングの動作に大きな影響力があると勝手に考えていた自分は、モンキーパークを含めて動物園のサル山は研究所みたいな感覚で通っていたのである。それは今も同じなのかもしれない。

「え~猿の行動を見に行くの?」と彼女が言ったかどうかは覚えていないが、いつもより臭かったことは鮮明に覚えている。

その夜、僕たちは宿泊先のホテルに向かったのだが、名古屋駅の地下街ルミネ?でばったりT川と遭遇して、3人で飲みに行く事になってしまった。彼は覚えていない・・と言うが、他人の恋路を阻むセンスも卓越していたように思う。

そんな彼女の55回目の誕生日がもうすぐそこにくる。あれから22年、どんな素敵なおばさんになっているのか僕には見当が付かないが、思いでのシーンでは23歳のままである。偶然にも、そんな彼女とのツーショット写真が見つかったが、あの時の僕は「若かった」それは単なる年齢の事ではない。

熱い思いは、重い現実に突き刺さった。単に彼女への思いではない。多くのプロジエクトを抱えたヒマラヤ遠征は登山活動以外は成功したが・・・肝心の未踏の尾根は悪魔のように僕たちの前に立ちふさがった。

「ヒマラヤに賭ける橋」という2時間のドキュメント番組も45分に短縮された。そして、個人的には彼女との交信も途絶えた。そんな青春時代の思い出である。この話には5年後のエピソードもあるのだが、今回はこのくらいにしておく。

夢への階段の途上には様々な曲折がある。自らを歴史に残したい・・という野望のために僕は実力も備わらないままヒマラヤの未踏を目指していたようにも思う。いろんな意味で1980年頃までの自分は熱かった。

その熱い思いは今でも重くのしかかる。しかし、僕は夢をあきらめたわけではない

一蓮托生と言う言葉があるが、夢の続きは、教え子である若者に、静かに譲りたい。夢は夢のままではつまらないのだ。1994年にエベレストの南稜にチームで挑んだ時、大学時代からの夢はついえた。その次の夢へ・・・そこからロッククラフトは始まったのかもしれない。

しかし、32年の空白を埋める現実ひは踏み込めない自分も居る。夢は夢のままでよい・・のかもしれない。

しかし、ナデシコジャパンではないが「夢の頂点へ」そんな夢もあるのかもしれない・・・とT川のブログを詠みながら、青春に浸っている自分がかわいいのである(笑)

昨日、高校2年の娘は部活を休んだ。理由は朝寝坊である。3度蹴飛ばしたのに起きなかった責任は僕には無いのだが「何故、起こしてくれなかったの」と文句を言われた。おかげでサッカーの練習はサボって、買い物をしていたらしい。娘の趣味はケーキ作りである。サッカーの練習はサボっても、ケーキ作りはサボらない。スポンジから全部自前で作る。たいしたものたが、ケーキがあんまり好きではない自分には手ごわい娘の趣味である。すなわち、毒見させられるのである(笑)。一昨日は1枚、昨日は2枚、そして今日も1枚のだ。友達の誕生会のケーキを一手に引き受けているのだが・・・ケーキ作りのために、遅刻や部活を休むのは、よろしくない・・・と父は考えている。

ケーキ作りは深夜にも及ぶのだが、深夜に買出しを頼まれる場合も多い。まったく父親をお使い代わりに使うとは、なかなか出来た娘である。

たまたま、深夜にワールドカップサッカーの試合があり「ワールドカップの選手はどのくらいGKをけるのかな~」と言うので「自分で確かめてみたら」と僕は応えた。「あんまり、興味は無いけど、きっと私よりは間違いなく飛ぶんでしょう」と言うので「自分で確かめな」と知らぬ顔をしておいた。更に、たまたま、ニュースに外国の選手がGKを蹴るシーンが流れたら「あれ・・センターまで飛んでいない」と・・・・「ねえ、お父さん、ワールドカップの選手って私より跳ばないんだ」と笑顔の娘、更に自ら「キック力は、ワールドクラスって事か」と自分のキック力の驚くコーチや先輩の理由がやっと飲み込めたみたいだが、キック力の評価より、ケーキのできばえの評価のほうが着になる16歳でもある。

飛ぶ時はセンターサークルを超える・・と言う娘のキック力は、正にワールドクラスではあるのだが、自分のケーキ作りの才能のほうに気持ちが向いている。キック力など自分の評価に値し無い・・とでもいいたがえに、本日のケーキにNGを出す娘は、父にとっては、手ごわくもあり、かわいい娘でもある。

みんなで食べたが、奥様たちはカメラの外に避難しました?・・・ P1000015.JPG

13億人という国家

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ハーバード大学の言語学者が中国内部から検分した中国という国家の印象を伝えた記事をネット上に発見して、楽しく読ませていただいた。その中に

「中国人は、中国語を学ぶ外国人と一緒に学ぼうとしてくれる。忍耐強く、へたくそな中国語を直そうとしてくれる。うまく喋れると一緒に喜んでくれる。中国語というものはきちんと発音しないと彼らにも分からないからだ。一方日本人の方は、間違っていても褒めてくれる。まるで私が間違えるのは当たり前とでも思っているかのように。だからこちらはまごつく。そういったことは中国ではなかった」(www.danwei.org/books/deb_fallowss_dreaming_in_china.php)

と書かれていた。なるほど・・なかなか面白い話である。更に

いつ頃から「Partner」「Partnership」という言葉がパートナー、パートナーシップと訳され始めたのか。日本語ではどのような定義づけになっているのか。パートナーという日本語には友好的で、ポジティブな意味合いしかないように思える。

 だが、Partnerという英語には、「今は仲良しでもいつ手強い敵になる可能性のある相手」という意味がある。著名なアメリカ人の言語学者からそう聞いたことがある。

 この言語学者は、こうも付け加えた。説得力ある説明だった。

 「最近アメリカ人が妻を紹介する時に、私のパートナーです、なんて言うでしょう?今は仲がいいが、夫婦なんか、いつどうなるかわからんからねえ(笑い)」

 Partnershipは、中国語では「戦略的互恵関係」と訳されている。

・・など、言語学者ならではの面白い話がちりばめられている。そういえば、1970年代、フランスの特派員ポール・ボネが「不思議の国ニッポン」なる本を書いていた。日本人の日本語の意味の不可思議さを淡々と書き綴っているのだが、僕にはユーモラスに感じた。

中国人の英語の理解力は、日本人のそれとは違い、かなり的を得ているようでもある。日本人もかぐわしい言葉として自己中心的に翻訳するより、言葉の本質を正しく見につける、知恵がほしいと思う。

中国人が何を考えているのかわからないのではなく、中国人というスタンダードがないという現実に気が付かなければ¥世界を知る事ができまい。

日本人には日本人と言うスタンダードがあるのだろうか?考える必要性を感じる。彼女は言う「中国とは13億人の国家である」と・・・。それは中国人という概念を中国に住む人は考えていない・・という考え方に達したからである。言語学とは意外と根が深い。その昔大野晋の「日本語の起源」と言う本に愕然とした記憶がある。彼は確か東京大学の言語学者であったが、日本語はウラルアルタイ語系ドラビダ語にその起源を持つ・・と言う持論を展開した学者であるが、発想の柔軟性はいつも科学を越えれ居るようにも思われた。更にその昔、梅原猛の「地獄の思想」「隠された十字架」など彼のほとんどの書物を読んだことがあるが、彼の哲学的思想から歴史や人の考える・・といおう過程に対する洞察力には斬新な新しさを多々感じさせられた。今でも時々読み返してみることもあるが・・・。

言語学とは単なる言語にではなく、歴史学でいう風土がもたらす背景がそこにもある。人間とは文化や流行、経済や貧困という問題以外にもたくさんの背景によって築き上げられている性であると考えた歴史学者がいたが彼が考えた歴史のの持つ心理性こそが人間を人間化させる根本なのかもしれない。

彼女は言う「例えば倫理と言う概念や思想においても、中国人の老子に対する志向や考え方と日本人がそれらの本を読んで感じるものとの隔たりは、言語の風土による変性に由来すル・・・と言う考え方から、接近する手法は、僕にとっては斬新で素敵であった」

言語をそのまんまその言語として理解する。それは僕ら凡人には非常に「難しい難題」ではあるが、自分の都合のよう解釈の仕方を排除して、その存在の正義を考える事は、今正に日本人に求められている心性では無いか・・と、僕は考える。

政治が空白を招いているのか?僕たちは政治家を批判するが、中国人にとって政治家は、単に政治と言う仕事をする人で、人民にはなんら関係を持たないものなのである。

久々に深い話を読んだような気がした。

一方、コズミックフロントで今正に行われている現実にも、驚きを感じながら、僕は再び夜を見る。冬の星座オリオンのベテルギウスがやけに赤く感じるのは僕の思い込みなのだろうか?

650光年先の過去に、そこで何が起きていたのか・・・今、天文科学はそれに迫ろうとしている。それは地球時間でははるかな過去であるが、宇宙時間では地球のすぐ隣で起きている現実なのである。その話もいつか、ここに書いてみたいと思うが、とても長くなりそうなので、期待しないで舞っていてくださいね・・・。

7月の実感?

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ついに7月が来た・・・と言う実感は無い。むしろ「すこし熱い」と言う感じで夏?ナのかな・・という不思議な感覚が僕の中にある。先月中に完成を見込んでいた壁の増築も僕の体調不良(あるいはオーバーワーク)で中途半端なまま、おまけに動く壁も不調で、しばらく活動中止である。どこか一進一退を繰り返しているような昨今である。

一方、違う空気もジムの中に吹き込んでいる。それはロープクライミングをする人が増えてきている・・という現象に由来する。あえて困難で複雑なロープワークを習得して、自然の岩の、しかも30m以上の壁にチャレンジしたい・・というお客さんが増えているのである。そこにはいろんな不安定要素がたくさんあるのだが、自然の岩を目指そう・・と言う考え方は良い事である。おかげで僕の指導にも熱が入る。楽しむことと、ロッククライミングの危険意識を持つことは、決して他人行儀な事ではない。危険と安全に対しての認識はあらゆるスポーツにおいて同時に多発する現象でもある。それは野球やサッカーにおいても同じことである。

あえてクライミングが安全なスポーツとはいえないが、スポーツと言う領域でのクライミングと自然に岩を登る・・と言う事は、考え方に大きな違いがある。

今僕が教えなければならないのは、スポーツとしてのクライミングとそうでないクライミングの違いと認識についてであろうか。

クライミングジムが無かった20年前までのクライミングと、ジムで育った人々の認識には大きな隔たりを感じる。それは、どちらが良い悪いという問題ではない。むしろ5.9と言う「グレードが遠かった30年前とは違い、誰でも5.11を練習できる時代の考え方の違いに似ている要でもある。

それは携帯電話が当たり前の世代と、意思を伝える事が、手紙か会話しかなかった時代との差みたいな感じであろう。

そういえば、5年くらい前、日本人としてヨーロッパアルプスの壁を次々に落とした伝説のクライマーと話した時、彼は「向井君、今は岩登りに布団を持ってゆく時代なのかね。布団は寝るときに使うものじゃないのかね」と凄い話に発展してしまった。「安全のためにロープを使う事の是非を考えながら、あえて困難な手段で前人未踏を思い描く。それが登攀者たるクライマーに共通する理念ではなかったのか」「そう考えると今風のクライマーは登攀者としての暗いマートは違う人種であり、ため池で世界を目指してスイミングをした時代とレジャープールで泳ぎも真似をしていることを、同じとはいえないのではないかね」とはたまた厳しいご指摘であった。

最後に彼は「布団(マット)をしくのは、女性に対しての敬意と考えるなら、ボルダーマットは許せる範囲以内なのかもしれない」と、最後に落ちまでつけてくれた。なかなか鋭い、しかも素敵な指摘である。

そういえば「クライミングがスポーツと違うのは、岩をはがさないで登るのか否かである」とは僕の先生の意見であった。石が回転しないように回り止めを打つのはジムスポーツというクライミングである。自然の岩は剥がれるもの、ルートは日々変化するもの、それがクライミングの本質でそれはどんなにクライミングジムが普及しても変わるものではない」とも付け加えてくれた。

なるほど、1960年代に日本合同隊としてヨーロッパアルプスの日本人未踏の岩壁に、何の案内図もなく挑戦した先人たち。そこには見えないルートが心の中で描かれていたようにも思う。今はトポだけではなく、手順、足順、さらには動作選択とそのかたちまで図解されている。

こんなに至れり尽くせる・・のクライミングって、いったいナンなんだろう・・と考えていたら「確かに・・」とやはり70歳代の登攀者が「未知なるがゆえに男の野心を掻き立てるもの、人に成果を評価される事より、自分自身の心に評価を促すのがクライミングではないのか」と熱い目線で僕の語る彼は、インドヒマラヤの未踏峰に挑む。

その山が有名だから・・そのルートが世界一だから・・・という社会的な概念は、彼らには存在しないかのように、彼らは未踏のヒマラヤを目指す。その姿勢にこそ、真のクライミング魂、真の登山思想が見え隠れするのは、僕の思い過ごしであろうか?

スポーツとしての登山、あるいはクライミングには思想など必要としないのかもしれない。しかし、クライミング志す小さなクライマーたちは知っている。その岩を見つめる目は、人工の壁に向かれているのではなく、もっと大きなもの立ち向かおうとしているサムシングを、僕は感じてしまう。

もっとも大切な事は、そこにある数字(グレード)ではなく、その過程に存在する意義ではないのだろうかと、中元に思いを馳せる。

「いいかい、八の字結びで重要な事は、ついでに末端処理をする事ではなく、末端処理こそ重要な結び方なのだよ」と説明する僕のロープワーク講習は、果たしてクライミングの芯を付く話なのか?

様々な思いを乗せて、ロープワークを教える。僕の時代は、先人たちの時代とは違い、ロープは命の綱と教わった。すなわち「ロープを使って登るかのかそうではないのか・・という疑問は持つな」と教わったのである。「ヒマラヤにアルピニズムを持ち込むというより、ヒマラヤにはヒマラヤイズムがあることを考えなさい」とうことである。僕の先生は未だに偉大である。30年前の言葉が未だに僕の心に警笛を打ち鳴らしてやまない。

僕も、後20年くらいクライミングの指導をしていれば、岩の真意を生徒の皆さんに伝える事ができるように慣れるのだろうか?

僕の挑戦はまだまだ続くにである。

目標を失う難しさ

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彼はあえいでいる。いいやいつものように、同じ事を淡々と繰り返している。しかし、結果がでない。結果がでないと、更にいつもの練習に没頭する。38歳の肉体はすこしずつ・・ではなく、突然の老化を促すが本人の感覚としては、自覚症状が無い。

その1

嘗て1000本のホームランを打つことが普通と考えられていた打者がいた。言わずもがな王貞治である。彼は格別の才能と他人に追随を許さない練習の鬼でもあった。ある記者が「1日何回くらい素振りをするのですか」と聞くと「気が付いたら夜が明るくなっていた」とか・・

彼も2度スランプを経験している。しかし、40本のホームランを打てない・・というスランプであった。普通の打者なら生涯に1度は経験したい40本塁打を・・である。

400勝投手である金田正一が「唯一、打者の研究をしてのは王貞治である」と語っている。金田におて唯一の強打者であったようだ。

王がもっともライバル心を燃やした投手は江夏豊であった。「彼の球は、普通の集中力では絶対に打てない」と語り、250回の対戦でもっとも三振を喫しているが、もっともホームランを打ったのも江夏であった。正に名勝負である。子供の頃、誰に言われる事も無く王と江夏の勝負に汗を握っていたものである。王には2度、大学時代に偶然あったが、正に後光がさしていた。今までの人生で僕が後光を感じた人間は王貞治唯一である。

彼は43歳まで現役を通したいと考えていたようだが、「30本しかホームランを打てなくなった」と1980年に引退した。真意は別にして、王のこだわりを感じる。868本、それは偉大な記録である。

ある意味において、王貞治は野球という政治力に目標を奪われた男だったのかもしれない。翌年から読売巨人軍の監督を命じられていたようだ。後に巨人の監督になる原辰徳に「巨人の監督になりたくてなった人は居ない」と彼の背中を押したとも言われている。

その2

現役大リーガーの彼は不振にあえいでいる。38歳の今日まで、どれほどの練習を繰り返し、どれほどの苦悩と重圧に耐えながら安打を重ねてきた事か・・・。その彼も38歳となった。いくら練習しても体が効果をうまず、疲労と老化を感じる年齢となっているのである。

彼のスランプは200本打てないかもしれない・・というものである。王と同じ1年間に200安打を打つことは大打者が生涯に1度経験するかしないかの至難の業であるのだが、彼はそれを10年連続で成し遂げている。1年間に228本の安打を10年間持続しているのである。それは誰も追随できる記録ではない。

安打を打つことへのこだわりは、小学校時代からあったようだ。安打をを打つタイミングとホームランを打つタイミングの違いは明らかである。「安打を打とうとしてホームランになった記憶は無い」と彼は明言する。すなわちホームランは狙って打っているのである。

政治力で引退を余儀なくされた王貞治。しかしイチローにはそんな懸念は無い。彼は今年最も大きなスランプを経験することになるのだが、その背景には失われようとする目標があるのではないか・・と、ふと考えた。それは今の話ではない。今年の初めに僕が感じたことである。

イチローには43歳まで現役居てほしいと思う。しかし、大リーグと言う環境はそんなに甘い環境ではない。選手が、できることができなくなったらフイールドに立てないのである。

一フアンの心情としては日米通算4000本安打を目標にがんばってほしいのだが、彼は「200本打てなくなった」と引退してしまいそうで怖いのである。おそらく王貞治が一塁ベースにグラブを沖に行ったように、イチローは左ボックスにバットを置いて引退を表明しそうな気がする。

誰かが追いかけてくるわけでもなく、ライバルも居ない記録の先を、たった一人で駆け巡るのは孤独である。

それは誰も居ない、人類未踏の山頂を目指す行為と似ているような気もする。僕も30年前にそんな夢を抱いて登山を行ってきたのだが、そんな夢が遠すぎて実現不可能と知った時、その思いを山においてきた。見上げればそこにはいつも夢がある。その思いは今も変わらない。

3年前だったか、あるクライマーと雨の中30分以上はなした事がある。彼も当時38歳であった。誰も君の後を追いかけてこない20年の歴史は重かったと思う。しかし、居る分野では君はたった一度負けたけれど、君のすばらしさは、永遠に追随を許さないものだ、できれば後輩の育成に励んでほしいし、そんな年齢になったんだよ・・と生意気な事を言ったような気がする。

目標とは一つではない。見失った目標を感じたなら、新たな目標を探せばよい。しかし、見続けた目標が長ければ、新たな目標も見付けにくいものだ。

人生には様々な紆余曲折があり因果がある。そこまで這い回るなら、とことん這い回りのた打ち回って、生き方をさらけ出す事も人間としての目標(業)なのかもしれないな~とふと思った。

僕は今でも王貞治のフアンである。同じくイチローのフアンでもある。一度も遭遇した事の無いイチローこそ、今の僕の目標なのかもしれない。

引退は易し、しかし創業が過去の事、守成は更になりがたし・・・中国の歴史書のどこかで読んだ言葉が僕の脳裏を駆け巡ったのであった。

がんばれ、イチロー!!

 

骨を刺激するスポーツ

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ロッククライミングと言うスポーツの特徴の一つに、骨を刺激する・・と言う事があります。手足の指で石を掴んで移動(運動)するスポーツですから当然のことであるともいえますが、意外と意識しない事でもあります。実は骨って凄く重要な働きを持っています

骨の機能

1)体を支える

2)運動をつかさどる

3)臓器を守る

4)様々な要素を貯蔵する

5)血液を作る

骨を刺激すると、これらの昨日がより円滑に行われるようになり、骨量が増えたり、骨密度があがったりするようでもあります。しかし、時々の運動では??ですね。全身のほとんどの骨を刺激するスポーツ、ロッククライミングを体験してみませんか?

背中が丸い

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最近の首相は、発言時にしたwくぉ向いたままである。多くの問題を抱えて大変なのであろうが、背中が丸いと小さく見える。言葉にも力が無く、棒読みに見受けられる。信念をもってみんなの意見もう聞いて、しっかりとした舵取りをお願いしたい。

震災の影響は未だに濃く。復旧に向かっている・・と言う感じを受けにくい。まだまだ、あらゆる事が模索常態のような気がするが、今日の雨の冷たさも骨身にしみる。

地方選挙もたけなわである。「強い日本、未来のある日本を作りましょう」という演説がむなしく聞こえるのは、僕の心が曲がっている性なのか、選書に出馬していす人は心が入っているのpか?就職演説をしているようで、何も伝わってこない。

伝わってこないのは、官房長官、首相の言葉も同じなのかもしれない、まるで「いつでも、こだま・・」誰かの詩のようにも思える。やはり言葉の中に心が見えない、一生懸命は解るのだが・・・。

クライミングをしている子供たちの背中は伸びて凛としてきた。悔しさに顔がゆがんだり、目に涙を浮かべたり・・大会前の練習は、すこしきつさを増している。彼らは前を見て練習している。大会に出ない小学生は「いいえ、いいえ」を繰り返し、まったく僕の指示を聞かない。いい感じで成長している。

背筋を伸ばして、今、そこにある困難に一団となって、立ち向かいたいものである。

寒い熱いを繰り返しながら、季節は春を迎えれいる。軒下の草は背を伸ばし、青さを増す。まったくたくましい。かっこよく生きるより、こんな草木のようにたくましく、はつらつと生きたいものだ

文学ってナに?

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「お父さん、文学ってなに?・・戯曲は文学ではないの?」唐突な長男の質問であった。大学4年生法学部法律学科の息子は4年間通った大学を辞めて脚本家になる道を選ぶという。まったく不思議な息子である。戯曲や脚本を生業と考えている人は、戯曲や脚本は文学と考えている。しかし文学者の多くは文学の一部だが、それらをさして文学とはいえない。むしろ芸術の領域に入ると考えている。それは、歴史は文学ではないというのと同じである。一つの例として、坂本竜馬の生き方を綴った文学作品「竜馬がゆく」は文学作品(フイクション)であり歴史的事実ではない。司馬遼太郎も作品のあとがきに「これは私が創作した坂本竜馬であり歴史人物としての坂本龍馬ではない」と書いている。しかし、司馬の思惑とは違い、竜馬は龍馬になってゆくのである。竜馬と言う司馬の創作人物が歴史的事実の坂本龍馬を超えてしまっているのかもしれない。それも人間の心性が生んだ歴史と考える事も、心の歴史なのかもしれない。このような歴史認識は古代から多々あった。古代ギリシャにおいてヘロドトスは歴史を文学的芸術の一つと考え「歴史」という文学を描いた。すなわち彼の文学は歴史書ではないのだが、歴史学ではその書物を読むことも歴史学であった。

ある意味において、文学とは文章にて悲劇や歴史性の表現をする行為であって、真実か否かはあまり関係が無かったのである。すなわち現実ではなく創作活動を意味しているのである。

例えば中世ヨーロッパで「それでも地球は回っている」といった男がいたが、彼の地球回転説は彼の書いたSF小説であって、科学的研究論文ではないと言う事はあまり知られていないのである。

戯曲は文学ではないという文学者は文学と言論表記としての文字で書かれ表現されるものと提議テいる人たちの言い分であり、戯曲、脚本に人物などが演技し表現されるモノは芸術と解釈しているにしか過ぎない。すなわち、立ち位置の違いなのである。同じものをどこから見るのか・・と言う事であって、指してこだわるべき事ではないような気もする。

しかし、僕が文学部歴史学科にいた1970年代は、歴史とは戦争と政治によって捲き起こされる史実において表現される学問であって、戦争と政治にかかわりを持たない人の存在を歴史的に研究する事は歴史学の本道ではない、と言い切られたのであった。

歴史を文学的に検証する事ができない。それは人間の想像力を否定す事が学問であり、僕の勉強している歴史学だったのである。「文学と歴史は違う」といい切れれながら「では何故、文学部の中に歴史学学科が存在するのか」その疑問は35年を経過した今日でも続いている疑問でもある。

時々無くのだが、フランスには既に心性史という歴史学の考え方があるにもかかわらず、日本のほとんどの歴史学にはそれが無い・・・?

歴史を文学で考えても良いではないか・・・。それは司馬遼太郎が竜馬で実践した表現方法だったのかもしれない。残念ながら竜馬が龍馬を超えて日本のヒーローになった時、司馬は過去の人になってはいたが、あの世で{やっらぜ」とガッツポーズしているのかもしれない。

なんだかまとまって異なようなきもするが、今日はこんなところで家に帰ります

日本における現代社会がいかに電力資源に頼っているのか、と言う事を思い知らされた今回の東日本震災である。科学がより高度化した文明を導き出した事は事実としても、その科学文明に依存しすぎた日本人に対して、神が下した試練だったのかもしれない。

そもそも、僕は神と言う言葉は嫌いだった。アインシュタインのように「神様はサイコロを振らないものだ。すなわち物理学で証明できない事象はない」同じように、どんなに難しい問題でも文学で解決できない事象はない・・と思ったいたのは、大学生の頃までだったのかもしれない。要するに理屈っぽいのが僕の長所でもあり短所でもあったような気もする

その理屈を楽しんでいる子供達もいる。良い加減でからかわれているのか??と言う感じである。

小学5年生が・・「先生、11a登ったよ、次はどれやればいいの」とは小学5年生の宏太郎君である。僕は間違いだと思いながらも「へ~凄いね・・じゃ5.10bをやってみなよ」と言うと「それじゃ簡単すぎない、11aの黄色を登ったんだよ」と言う。彼は豊かな才能を持っていそうな幹事はしていたが、まだはじめて1ヶ月もたたないくらいの週末クライマーである。僕は5.11aをレッドポイントしたなんて信じられなかったが「ジャ,猛威ちぃどのぼるよ」と僕の目の前で登ってしまったのには2度驚かされた。才能を持った子供は意外と近くにもいるもんだ(笑)

高校2年生の女子が「先生、相談があるんですけれど・・」と思いつめた顔でやってきた。彼女サッカーの日本代表を目指す女子高生であったが、この震災を期に考え方が変わったようだ。彼女の家もかなり損壊しているが被災地の現状と人間としての生き方の中で、自分の夢を追う事と人としての行き方を考えた時、サッカーは自分の夢とは違う位置に見えたようだ。

自分の立つ位置によってモノの見方は変わる・・とは僕の大学時代の同級生のT川君の言葉であるが16歳のメグには違う現実が見えたのかもしれない。今回の東日本災害は、直接被災した子供たちの心にも大きな変革をもたらしているのかもしれない。彼女がナデシコジャパンのユニフオームを着る事は、彼女を支援してきた皆さんにとってはありえない選択でもある。僕も彼女を支援してきたが、彼女のそんな相談には驚きを禁じえなかった。多くの大人は「サッカーをやめることは、もったいない」といったようだが、彼女の心の中には、違う過ちを犯したくない・・・と言う現実が見えてきたのかもしれない。すなわち、僕が高校生の頃二本代表のユニフオームを着る事を夢見、しかもその夢がかなり近い夢・・と勘違いしていたような・・そんな感覚に彼女自身が「気が付いた」という風にも読み取れた。決めるのは自分だ、他人ではない。「人生の選択はいつでも、君を待ち構えている。人を好きになる事、しかし、その人をキライになってしまう悔しさも、自分の立ち位置とか、相手を偶像化していることに気が付いたときおきうる現実なんだよ。人生はこれからだから、サッカーをやめることも、新たな持続可能性を見出すための選択家の知れないね」と聖人君主のように僕は振舞ってしまった。

ロッククラフトにも様々な人間模様がある。ある子供の父親は東京電力本社勤務である。ある子供の父親は救急救命士で福島に派遣されていた。

様々な他人には語れない現実が僕の周りで渦巻いているのも事実である。

今日の地震の震源地はすぐそこであった。距離にして30キロ以内である。新たな地震の影響が、小さく滲み出している・・といったほうが良いかもしれない。自陣や地質学の研究者の多くは宮城沖の震源地などの調査に向かっていいるようだが、ここらあたりの調査も必要な気がするのは、僕の思い過ごしか・・ほぼ1キロ南西には液状化現象が見受けられるのに・・・。

 

 



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