コラムの最近のブログ記事

伝承を科学する

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「がまの穂綿」が以前育てた黒稲(古代米)の鉢に育っている。
ふと、その青い穂を見ていて、古事記に伝わる口承伝承される寓話を思い出していた。
鳥取県に伝わる「因幡の白兎」の話である。
がまの稲穂とは、傷ついた白いウサギが、がまの穂綿で傷を癒される・・という話であるが、社会学的見地からみると「いじめ」を民話化した初めての文献という見方も出来るが
嘘をついて風土に紛れ込もうとした白いウサギは渡来人、または異邦人とも考えられ、或いはスパイ、或いは侵略者を韻に含む、まるで寓話の世界観がそこにある。
鰐サメにいじめられ傷ついたというのは、彼(白いウサギ)の持つ世界観をあらわしているが、一方では大陸からの侵略者に立ち向かった、先住民(倭人)の強い抵抗とも考えられる。
心理学的見地から見ると、自分の位置の取り方、見方によっては考え方は相対的ということでもある。
トロイの木馬にも同じような逸話が挿入されている。

さて、傷ついたウサギに八十神のように「海水で洗えば治るよ」などと嘘をつく神もいたが、大国主命のように、がまの油か稲の穂綿を与えて、傷を癒させて救い、土着民との共存を促した、優しい思いやりのある神様も日本にはいたわけである。
がまの油や稲の穂綿にはアロエ効果があるのかないのか・・議論があるが、おおむねアロエ(医者要らず)効果はあるようでもある。
たとえ侵略者であっても,傷ついたものに診療行為を施す優しい敵(ウサギからみると)もいたわけである。この話は手塚治虫氏の「火の鳥」にも別な事象として取り上げられているのである。
化学から接近して、因幡の白兎が科学的事実か?
社会学から接近して、いじめの実態を科学するのか?
歴史学から古事記を見るのかでは、接近(解明の仕方)するのか・・因幡の白兎も
浦島伝説に近い、民俗学的思考が挿入されているのである。

がまの稲穂・・が育つ頃、子供達はどんな成長を遂げるのか・・秋まで長くも、短くも感じられる今日この頃である。5月3日からの合宿ではそんな話もしてみたいと思うのであるが・・いかがなものであろうか・・
「因幡の白兎からみた、いじめの実態考察」
中学生には難しすぎるかな?

さてさて、師とあるものは、或いは因幡の白兎のごとくでありたい・・とも思う。
大国主の命としてではなく「がまの穂綿」としてである。
すなわち、良薬は口に苦し・・である。
最近ボクは、優しさを旨としている。思考の多様化、洞察力の開発に「適応性無意識(なんとなく思考)」を指導しようと言葉を濁している。

そういえば、モネのアトリエの話が面白かった。
晩年、モネは隠遁した・・っそんな彼の住居に、訪ねてきた若い女性記者が彼の仕儀部屋に入るなり「ここが先生のアトリエですね」と目を輝かせる・・が、モネは言う
「ここには私の絵しかない。本当のアトリエは「そこにある」と、外庭に連れ出す。

話はクライミングに戻るが、ロッククラフトの人工壁はボクのアトリエなのかもしれない。
本当のクライミングは自然の中にある。
コンペとはロッククライミングの表現方法の一つにしか過ぎない。
そんなことで一喜一憂するより、地球が育てた岩の意味を考える時間のほうが素敵であろう。

日本選手権を終え、結果はたった一人の勝者を決めるのがゲーム(大会)の趣旨でもある。
しかし一方では、悔しさを抱く人もいるのである。
因幡の白兎を科学してみよう・・。
さて、そんな生意気なことを言う自分は「浦島太郎伝説」のさなかに突入しているのかもしれない?!
かく言う私こそ、歴史を科学しなければならないのかもしれない。

父の遺品の中に

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4月4日に生徒の祖父が無くなった。72歳という若さで・・である。
彼は孫にクライミングをさせたくてロックに送り迎えしていた。まだ、孫が小学生の頃の話である。
孫は、どちらかというとボ~ッとしていて、楽しいのかつまらない様子であった。
夏休みなどは、毎日自分のうちに孫を泊めて、クライミングや山の話をしていたようである。
しかし、祖父が山登りをしていた50年以上前の話など、娘である母も孫も知らなかったのである。
今年の1月14日に、鉛筆でちぎれたノートに山のデッサンが書かれてあった。
古いアルバムには、山での写真がは見当たらず、はがされた写真は、彼の遺品の中から見つかった。
「どこの山なんだろうね、死ぬ間際にこんなデッサンを残しているなんて・・この写真はどこなのだろうね・・」などと、亡き祖父の大切な思い出に「山」が存在することを、娘も孫も・・知る由は無かった・・。
葬儀がおわり、遺品の中から山の思い出を探る・・「おじいちゃんって山登りをしていたんだ。しかも岩登りまで・・」
意外な側面が映し出された。
孫はそんなことは知る由も無かった。
「K君に。おじいちゃんの血が受け継がれたのかな・・」と涙を誘う話に、一筋の光りを見る思いがした・・
という。

おじいちゃんの遺品・・しかし、その最も重要な血の遺産は、孫の中に受け継がれていたのであった。
何気なく、何かに集中させたい・・と、彼の父母の思いは、祖父の血から受け継がれているものだったのだ。
孫はその話をボクから聞いた時、隠れて涙を流した・・という。
そんなK君も今年は中学3年生、クライミングに静かな情熱と闘志を感じさせる。


「先生。この汚い絵とか写真って、どこですかね」と娘(孫の母)はボクに写真とデッサンを見せる。
そこには懐かしい風景が広がっていた。
これは・・穂高の涸沢へ向かう途中の横尾本谷から、右手に屏風岩の右岸壁、遠くに見えるのは常念山脈で・・・。
ォ、この写真は大正池です、こんなに立木が枯れていたんだ。焼岳の噴火でせき止められた池の風景ですよ・・。
ウオ~この岩は登ったことがある・・・??徳沢から、新村橋を渡って、明神だけ東尾根の末端基部にこんな岩場があったような・・・?
穂高に精通していないとわからない・・細かい話に、くすめは耳を傾けて・・泣いた

ボクも昨年末、父を亡くした。他人事とは思えない、何か繋がるものを感じた、4月8日の午後であった

最後のレッスン

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桜の花の咲く頃   1

桜の咲く頃になると、出会いと別れが一瞬の出来事のように交差する。
「卒業おめでとう」・・そして「入学おめでとう」
新しい社会への期待が子供達の表情にも表れているが、若干の不安も隠し切れない。
子供を見送る親の進境も複雑である。子供であることには変りないが、子供は確実に成長しているからである。自立、或いは親離れ。子供を思う親に進境は、子供以上に複雑なのであろう。
クライミングの授業は、淡々と進むが私の心境も複雑である。
「先生、ボクは中学にいったら、テニスをします。今までありがとうございました」
T君は、淡々と感謝の意を言葉に代えて、笑顔でそう話した。
身長も、出会った頃は僕の肩より低かったが、今は目線が同じ位になった。相変わらずアトピーの痕が痛々しいが、それも、彼が持って生まれた才能である。
彼には左脳に若干の障害がある。協調性に欠け、我慢することが苦手であった。
何でも疑問を持つのだが、疑問を持つことの真意は理解していないようでもあった。
しかし、彼は誰にでも挨拶をする。そして、溶け込んでしまうのである。
迎える大人たちも優しい・・・彼がクライミングで学んだのは、高度な技術でもなく、健常な身体でもない。
挨拶が出来る子供になった。
かつて全日本のサッカー監督だった、長沼さんがいった言葉がある「一流選手に必要な技術は、挨拶が出来ることである」・・・・・ジャイアンツの川上監督も同じ事を言ったという。

そんな話をある小学校の校長先生から聞いた。

Tくんは挨拶が出来る、それは人間として一流(適切かどうか?)になれる証拠である。
彼は一番成長した。今年は7人の6年生がロックを卒業した。中学校に行っても継続する子供は4人いる。T君はクライミングはやめるというが、彼は挨拶が出来る子供に成長した。
それがとても嬉しかった。
「さあ、いつものように右の壁を10回登ろう」
「ハイ、わかりました。これが最後ですね」
なんとなく寂しい感じがしたが、僕も強がって、淡々と、彼との最後のレッスンを開始した。
いつもと変わらぬレッスンが、淡々と夜桜に輝くように進んでいった。
午後9時10分、T君との最後のレッスンが終わった。
「ありがとうございました」という笑顔は、キラキラと輝いていた。

咲く花の 花を散らせと吹く風の・・・そんな哀れみを知る、今日この頃である。


人生に一流も二流もない  

私は1980年愛知学院大学を卒業した。その頃の先生は若く、厳しく、常に僕達を叱咤し激励し、ともに悩み苦しみ・・そして喜びを分かち合った。

青春を山に賭けるなんて、少し照れくさい合言葉ではあるが、彼の教えには何時も山の存在を感じていた。法学者として、パキスタンやアフガニスタン、ネパール王国などを旅して、宗教と法律、文化と性差についての研究に取り組んでいた。
或いは趣味が高じてが法学者の道を選んだとも言っておられた・・
学者になりたかったわけではなく、単純に「山に登りたかった・・とも言っておられた。

私が学生時代、湯浅研究室には「びんたが生徒の頬を打ち」「灰皿が飛ぶ、本が飛ぶ」という伝説がった。
古希を迎えた先生は「まったくそんな記憶がありません」とひょうひょうというが、それは伝説ではなく事実であった。
毎日殴られていたわけではないが、毎日誰かが殴られていたように記憶している。
灰皿は常に飛んでいた。灰皿が研究室の窓ガラスにあったって「ガッシャーン」と割れる音がすると、先生の感情は理性を失って、いわゆる切れている・・という印象に変わった。
一番殴られたのは大学4年生の12月19日のことである。
先生の自宅に卒業論文を持っていって、見て頂いていた時のことだった。突然・・
「学生の分際で、学説を批判するとは何事だ!!」と20数回往復ビンタを授かった。
あの頃のボクはいたって冷静で、先生のビンタの数を「1回、2回・・20・・回・・」と数える余裕がッた。
確かに先生は記憶にないと言い張るが、ボクの頬には、兄時の完熟がしっかりと残っている。
学生時代、先生と会うことを日課にしていたが、殴られる、灰皿が飛ぶ・・かな、と想像するだけで、足が向かなかったのも事実であるが、足を向けなったがために、ボクの下宿に乗り込んできて、出したお茶を一気に飲み干した後「きさま・・?!」と茶碗を投げつけられた記憶がある。
近所の人は何があったか・・さぞ驚いたことだろう。2件先には、やはり付属高校の先生が居て「昨日は先生が来ていたの?」といわれた。
それほど先生は愛の鞭ガ好きだったのである。
しかし、よく殴られていたのは、僕達の時代まで出会ったようである。後輩や研究生に「伝説ですよね」とよく聞かれたのだから・・

それほど僕達は出来の悪い学生であったのだ。
その中の末席にボクの名前が載っていること自体、感謝すべきことなのである。
7月28日は名古屋で先生の古希を祝う会が盛大に行われた。
ボクは肝臓の病気で入院していたので,参加できなかったが、往年の先生のあのビンタや灰皿投げの技術、大切な法律の書籍を避けてどうでも良い本を選んで投げる、あのパフォーマンスはボクの瞼に焼き付いて未だに離れない。
自分が教師になったら決して生徒を殴らない教師になろう・・という誓いは、先生の行動から教わったが、
殴りたくなるような生徒に出会えない・・というのも現実である。
愛情の表現は単なる優しさばかりではあるまい。
叱咤、激励、気合・・など、精神に刺激を与えることは大切なことでもアル。
今思えば、ボクは幸せだっと思う。
大学生にもなって、先生に毎日(大げさせあるが)殴られる生徒って、そうはいまい。
批判精神は未だに心に焼きついたままである。青年こそ教師とか逆風こそ順風とか、先生が僕(私達教え子)に残した言葉はいまだに座右の銘となっている。

心に響く言葉は話しての思いもよらぬところで、相手の心にとどまるものだ。
幾ら話し合った居るようでも、心が通じ合わないと大きな誤解を招く。政治家の身体検査問題や満員電車などで席を譲る譲らないということで殺人事件につながる昨今である。

おそらく先生の演説は公にはこれが最後であろうと思う。増して、教え子達を集めての演説は最高に楽しいひと時であったと想像する。

先生の最後のレッスンに参加できなかったが
先生の声は、今でも僕の心を叱咤し激励してくれる心のビンタとして、何時までも消えない傷として、命ある限り心の中に残る教えなのであろうと思う

最後の講演で先生は言った「生徒に一流も二流もなく、全てがの子供達はかけがえのない存在である。まして、生き方において一流も二流もない。人は皆平等なのだ」と

先生とは30年位前に最後の約束をしている。
その日はしだい近づいてきているような気がする。

何を約束したか・・そんな些細な話を先生は覚えては居ないだろうが、生徒は深く心に刻んでいるものなのだ、ということもここに書き残しておきたいものだ。

岩を登る精神をロッククラフトでは教えている
ロッククラフトの精神は、そんな先生の血の記憶からとうとうと流れる、心の記憶となって永遠に受け継がれてゆけば幸いと・・考えている。

美しさのムービング

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初めて、クライミングに美しさを感じたのは、檜谷清氏のクライミングであった。特に1980年代の中盤くらいから、その美しさは際立って見えた。クライミングに強さや、すごさを感じるクライマーはたくさんいたが、彼には、すごさとか、強さを感じることはなかった。むしろ上手いという表現の方が近かったような気がする。そういう意味で、檜谷清氏のクライミングはひときわ輝いて見えたのは、自分の個人的思いいれ場仮ではないような気がする。
あるときは修行僧のように、岩場に佇むその姿が、まるで瞑想に耽り、座禅を組む公明な僧侶を連想させたり、木彫りの彫刻がまるで生きているかのごとく輝く、円空仏さえ連想させた。彼のクライミングには宗教とか哲学を感じる自分がそこにあった。
その流れは、平山ユージさんに受け継がれているような気がしたのは、ボクの錯覚だったのだろうか?
研ぎ澄まされた身体に優美な動きは、まるで100mを蝶のように舞う、アスリート達のそれに共通するものを感じた。何故、彼だけ岩場をゆっくりと舞うのだろうか・・いいや、蝶のように成り代り、感性の赴くままに円舞を繰り返す・・或いは世界最強のダンサーのごとく、或いは華麗に、或いは優美に、岩と一体化した芸術作品を見ているような錯角さえ感じた。彼は芸術的なアスリート・・もしくは岩を舞うダンサーであったのかもしれない。

岩場を舞うでもなく、踊るでもなく、たとえようのない存在感が彼にはある。
それは、アンデスの岩場に君臨するコンドルのようでもあり、優美で圧倒的ナ存在感のもとに飛来する。
いいや、もっとすごい存在なのかもしれない。前節の白い竜が天空を舞うがのごとく、彼にとっての岩は私達にとっての空なのかもしれない、それは到達できない存在という意味においてである。
そんなに近くにいる存在でもなく、或いは遠すぎて近づけない存在でもないが、彼の存在は空を飛ブ、竜
或いはコンドルを連想してしまう。
彼の存在は岩場においては圧倒的である。
その存在自体が、すでに伝説的な様相を呈している。

私は、ある意味においては、幸せを感じる。
これらのクライマーと同じ時間と空気を共有していることに・・。

やがて、彼らを追随し、やがては追い越そうと岩場を見つめる若き志士達の存在も感じる。
或いは10年に一人しか現れない、クライミングのスーパーアスリート達の予備軍は、もうすでにユース選手権に出場しているのかもしれない・・しかも、大量に・・である。

それぞれが、今の自分を知らないように、彼らの将来を、誰も予測することは出来ないが、やがては世界の岩場に新たな足跡を刻む原石が、昨日の幕張に誕生していた・・と考えると、ゾクゾクするような感情が背筋を通り抜けた・・。

輝く時は近し。しかし、それ以上に試練のときも近い・

2007年のユース選手権に思うことである

「地球は青かった」とは、ユーリー・アレクセィゲッチ・ガガーリンの言葉である。
彼は1961年4月、人類史上初めて、宇宙に行った。
幼い頃の僕を、初めて感動の渦に巻き込んだ言葉であった。
ソビエト共和国連邦とは、僕にとって、東洋の神秘以上の神の国として、心に深く刻まれていた。
僅か1時間と48分の飛行である。小さな操縦席の3方にある、まるで牛乳瓶のそこのような小さな窓から垣間見た地球は、本当に青く輝いていたのだろうか?
そんな疑問をいだいたのは・・何時だったのだろうか。
まだ、小学生の頃だったような気がする。

ある説によるとユーリー(ガガーリン)は「地球は、まるで青いベールを纏った、花嫁のようであった」とも「地球は、薄く青い円光に包まれていた」とも言われている。

彼の父はコルホーズ(国営農場)に勤める、労働者であった。
そんな父を持つ、ユーリーが人類史上初めての偉業を担うことになることへの疑問が必然的にわきあがってきたのは、中学生の頃だったような気がする。
ソビエトは、フルシチョフの時代である、キューバ危機、など様々な問題を定義していた時代、身分の低いユーリーが,ソビエトの栄光を担って、宇宙飛行士第1号に任命されたのであろうか?
少なくとも歴史は、20人の候補者がいたことを証言した。
また、ユーリー以前に二度の発射を試みたが、成功しなかった・・という説。
ほとんど成功が考えられなかったので、当て馬(人体実験)として、生還することのない研究材料としての打ち上げだった・・という説など、真実はすでに闇の中に葬られている。

彼が宇宙飛行士の資格を取得したのには大きな理由があった。それは身長158smとう、稀な(或いは優れた)体格であったからでもあった。
その頃の宇宙船は、小さく、或いは人間が乗る前提での設計ではなかったと考えられる。

「有人飛行成」のニユースは、一気に世界に行き渡った。アメリカの落胆は大きかったといわれる。

その頃、アメリカには、今までのクライミングとはまったく違う発想でのロッククライミングに興じる若者がいた。彼の名をロイヤル・ロビンスという。
ロビンスの家庭は貧しく、父親は破廉恥で、酒に浸っていた。
若き日のロビンスは、学校が終わってから家に帰るのが憂鬱でならなかったようだ。家庭にや愛情に恵まれない不毛の精神を抱えた、どこにでもいる貧しい少年がそこにいたのであった、このことは彼の自叙伝「spirot of tha age」に書かれている(日本語での翻訳版はない)

宇宙の夢をいだき、貧しい暮らしから脱却しようとするソビエトのユーり。
家庭と恵まれない愛情から逃避して、岩を無心に登るロビンス。

二人にとっての真実は、自然といかに向き合うのかということであった。
或いはそれは夢にためでもあったのだろう・・。

1950年代の後半にロビンスはヨセミテ国立公園に聳え立つ、ハーフドームやサラテを視野(クライミングするということを)に入れて、クライミングのあり方を自問自答していた。
新しいスタイル、新しい精神を持って岩に登る・・その考え方を小さな紙に書き留めて、整理していた・・
その書物のタイトルは「ロッククラフト(基本偏)」であった。
今で言うフリークライミングな始まりである。
彼の快挙は、アメリカ全土を席巻したが、ユーりの宇宙への成果に比べると、あまりにも小さく、ごく一部の人にしか迎え入れられなかった。
ヨーロッパでは、アルパインクライミングの全盛時代であり、誰が何時、白い雲(アイガー北壁)を落とすかが、冒険の的であった。詳細はハインリッヒ・ハラー著「the whight supaider」より

ロビンスやマウロ・カウィなどの哲学的思想をもったクライミング(フリークライミング)は単なるサーカスの思想的ナ定義・・と揶揄されていたようである。

有人宇宙飛行は、世界にとって初めてなのか、ソビエトにとって初めての試みなのか・・ユーリーには何も真実は伝わらないままに時が過ぎていた。

初めて宇宙から地球を見たときの印象と「おめでとう、ガガーリン少佐」と連絡が入った時、ユーリーは自分が特進したことに素直に喜びを感じた・・という。

「地球は青かった」という名言が世に伝えられ、自分の名前が永遠に歴史にとどまる・・なんてことは、まったく考えも及ばないことだっただろう。

僅か1時間48分の宇宙飛行を終えた彼には、尾ままでと増そう臓物かない現実が待ち受けていた。
ロシア正教の最高司教との面会・・憶測とも取れるエピソードが残っている
「ガガーリン大佐、宇宙飛行おめでとう。ところで宇宙には神がいただろう」
という司教の問いかけに対して戸惑いながら・・
「ハイ、神はいました」と答えてしまった、ユーリー・・

その後、共産党の最高責任者フルシチョフと面会して
「ガガーリン大佐、おめでとう・・ところで宇宙には神などいないよね」と問われ
「ハイ、神様はいませんでした」と即答してしまったユーリー・・
歴史は彼を翻弄し始める。成果を楽しめたのはほんの一瞬のことであった。地球に帰ると、そこには柔らかな日常などなく、自殺未遂を犯してしまったり、彼の心は大きく傷ついてゆくのであった。
よく1962年、飛行機事故により永眠する・・。

地球は青かった・・
今、地球はダイヤモンドをちりばめたような、輝きを一層増しているのだが・・

続く・・

クライミングの行方

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少なくとも、クライミングの多様化は、1970年代から始まっている。
ぞれまでの登山は、8000mの初登頂に始まり、未踏の山河へ、そして、ヨーロッパアルプスの未踏ルートからの登攀(クライミング)とヒマラヤのバリエーションルートへの挑戦。
無酸素での8000m挑戦など、人間の欲望はとどまることを知らなかった。
フリークライミングとの出会いは、1977年のことだったと思う。ロイヤル・ロビンスの本を読んだあたりから、日本にもそんな風潮が押し寄せてきた。
岩登り競技会は正に、フリー化の先駆けとなった画期的な出来事だったと思う。
それまでの岩登りの基本である、3点指示という概念をぶち壊すきっかけとなった。
先鋭的を自負するクライマーの一部は、小さな岩にしがみつき、難易度を競い合った。それまではテスト岩といっていた、石登りが、練習の一つではなく目的となっていったのである。
小川山にも、たくさんのルートが開拓された。
しかし、そのクライミングは、ジャミングやカンテのぼりの技術や、ロックスやカムナッツの使用技術に終始して、フエイスはある意味では邪道とまで言われていた。
フエイスクライミングが何故邪道だったのかというと、岩にハンガーを打ち込まないと危険であった・・がためである。
すなわち、フリークライミングは、岩場に痕跡を残さないのがスタイル(礼儀)として。最上と考えられていたからである。
しかし、それでは課題がなくなってゆく・・
多分1980年代の後半くらいから、フリークライミングはフエイスクライミングへと傾いてゆくのである。
一方、豊田の岩場や、御岳などでは、小さな石登りが静かなブームとなって行った。
その頃のボルダーエリアは日曜日といえども「静かな午後」の陽だまりであった。
1982年頃までの小川山も静かな日本のヨセミテと呼ばれていたような気がする。
クライマーと呼ばれる人種はほんの僅かであり、それがクライミングの重要なコンセプトであったようだ。
かく言う私も「その一端を担いたい」と考えていた。
クライミングを人工壁で、コンペとして位置つけたのは一人の男の発想だったと思う。
1980年代も終盤を迎えていた。彼は山梨の自宅を改良して、道場を作っていた。
やがて人工壁が関東に出現したのは1991年のことである。
私は、クライミングの発展にジムの有効性を考えていたが、H氏とは対立していた。
1992年ころから、クライミングジムが入間に出現して、私は驚きを禁じえなかったが・・もし、T氏の発案がなかったら、クライミングはここまで発展していなかったとも考えられる。
「ロープを使わないクライミングコンペを行おうと思う」そういった青年がいた。K氏であるが、その発想に、またまた驚かされた。ボルダーリングセッションの始まりである。

ロッククラフトはそんなドサクサに生まれた。
単純に、小さな頃からクライミングをしていれば、クライミングのレベルは格段に成長する。
さらに、底辺が拡大されれば、もう少し日の目を見ることになるだろう・・と、私は勝手に考えた。
正に、少年野球や草野球の発想である。
夢は、クライミングを人工のフイールドから再構成してみようというものであった。「向井さん、夢はいいのだけれど、収益は?飯が食えなければ、経済じゃないよ」と手厳しい意見も頂戴した。

しかし、夢は確実に実現の方向に向かっている。それは、クライミングを日本に認知させた一人の男の出現に始まった。彼は後日、世界選手権で数度優勝した。しかし、ほとんど新聞には取り上げられなかった。
ルートクライマーとしては世界屈指のクライマーであるY氏の出現は、クライミング界においては欠くことのできない存在である。

時を同じくして、1994年頃、山梨のH氏から電話がった「向井さん、鹿児島からとんでもない青年が状況してきた。怪物だ、地球人ではない!!」そんな話に目も向けず、僕は仕事に埋没していた。
Dとい男は、正にワールドカップで優勝した経験のあるY氏をしても「少なくとも僕は地球人だが、Dチャンは地球人の域を超えている」と言わしめたようである。
この二人に支えられて、世界的なクライマーを目指す人間は後を絶たなかった。
これからは、もっと優れた素材も生まれることだろう・・その予備軍は10代、20代に数人存在する。

一方。コンペをクライミングの全てと考えるクライマーも出現してきた。それまではコンペはクライミングの一部と言う考え方が体制を占めていたのだが・・。

「クライミングは個人的なスポーツであって、他人の評価が問題ではない」そう言った男がいた。
「自分のために戦いを挑む、人に見せるためではない」そう言った男もいる
「勝つために、訓練している」といった男もいる。

クライミングって何なのだろう?

コンペとは少なくとも戦いであり、参加者を喜ばせるものでもない。
しかし、観戦しているものを無視しての大会はありえない。
プロの競技者は、観客を楽しませなくてはならない。
アマチュアは自分のために戦えばよいのだが、それだけでは経済効果は生まれない。
経済効果がなければ「金をだそう」などという、スポンサーは現れない。

少なくとも、クライミングコンペ(大会)にはいくつかの目的がある。
1)日本1を決める大会
2)世界選手権など、国際試合への派遣選手を選考する大会
3)自分の実力を試す大会
4)練成や育成を目的とした大会
5)普及や啓蒙を目的として、見る側や参加する選手が楽しめる大会などがあると思う

現状のクライミングの大会には、この様な考え方が不明確なまま「なんとなく進行している」様子が伺われる。
ロサンゼルスオリンピックに参加して、体操競技で金メダルをとった選手が実は「自費参加」していった・・という例は、各種競技には現存する事実である。
フイギアスケートにおいて選手育成に親が数億円も費やした・・という話もある。
一方、室内スケートリンクは全国で80箇所を割ったという現実もある。
スイミングプールは、全国に5万箇所以上もあり、その経費には莫大な税金が投入されている。
それから考えると、クライミングは好きなものが好きなように経営して、或いは、好きなように大会を運営して、なにもお咎めを受けないのは、或いは幸せなことなのかもしれない。

昨年、一昨年と、国際大会でのボルダーは、観客動員の減少が顕著であるといわれている。
文化の違いか、ボルダーの大会は選手が楽しめれば良いのであって、観客は不在な方向に進んでいるようである。
それではいけないと・・UIAAなどでは、手を買え品を変えて・・デモ、ヨーロッパとアメリカでも事情は異なるようだ。
ヨーロッパでは、国内大会の選考をクリアしたものが参加する。
アメリカ・カナダでは。参加費を捻出できるものが国際大会に参加する・・すなわち、オープン参加なのである・・とっても各国連盟に認可を受けなければ、国際大会に国を代表しては参加できないが・・。

テニスやゴルフには、国を代表して参加する大会や、予選から誰でも参加できる大会がある。
招待状がなければ参加できない大会もあれば、個人でも参加できる大会もある。

ある、オランダのスポーツクラブの責任者がいった言葉が印象に残る。
スポーツ選手に必要なものは
1)人格
2)洞察力
3)スピード
そして、4)技術だと、

観客を満足させて、初めて国際スポーツとして認可される。選手のために大会があるのではなく、選手を応援する観客あってこそ、スポーツなのである。
選手のために運営される大会は、公式なものと呼べるのであろうか?
草野球などは、選手のために運営される大会であるのだが・・。
まだまだ、クライミングは発展途上のスポーツである。
楽しいから参加する、楽しいからジムや岩場に通う、といレベルである。
日本でメジャー(認知される)になるには、まだ100年くらいかかるのかもしれない。
ほんの30年前に始まった、まだ、新たしいスポーツなのである。

カーリングというスポーツも400年の歴史があると言われている、スコットランドが発祥の地で、ルールが統一されたのも1800年代といわれる。

スポーツとしてのクライミングは、まだまだ若い、私の知る限り、フランスで100年以上前のボルダー課題があったとされているが、人工壁での国際大会は1980年代になってからである。
変化と歴史への対応に、水を差すなら正当な水(育てる)を指すべきである。

今年は10月に加須で、ワールドカップが開催される。それは大変なことだ。お金もかかるが多くのことを学習できる機会でもある。
少なくとも、日本でのクライミングの認知度は、高まっている・・といっても、カーリング以下であろう。
まだまだ、黎明期を迎えたばかりの子供である。子供であるから許されるという発言もあろうが、何時までも子供であってはいけないと思う。子供を叱る親(年長者)も必要なのである。わがままな子供の「好き勝手な遊びでしょう・・」で済まされるのなら、公園での木登りが禁止になっているように、クライミングも危険なスポーツといレッテルを貼られたまま、失速しかねない。
そんな危機感も携えて、今年も、クライミングを資するものは、楽しみ方を一人一人に、柔らかく紹介して行きたいものだ。

人生の目覚まし時計

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あるとき、フット人生を回顧させられる瞬間がある。多分誰にでもあることなのだと思う。
家族が一つであった頃は、母はうるさいだけで、うっとうしい存在になっていた。
厳格な父は、頑固一徹で、何を言っても僕の意見は聞かなかった。
しかし、あるときフト、父の言葉に目を覚ます時がある。
そんな時、父は痴呆街道をまっしぐらに進み、何も黙して語らない。
しかし、語らない父が、少年の頃の僕に語りかけた言葉が、突然、耳元で鳴り響く・・・
それを称して「人生の目覚まし時計」というのだろうか?
鳴り止まない時計は、ボタンを何度押しても鳴り響く。
思えば今年の2月のことであった。初めて・・?  2度目かな?「お父さんはもうだめだ、今年いっぱいは生きられない。孫の顔が見たいから、つれてきてくれ」
そんな呼び出し(目覚まし時計)に応じて、3月のユース選手権後に、釧路に帰った。
「稜太郎(長男)はどうした」
「剣道の遠征やら合宿でこれなかった」
「そうか、仕方がないな」と残念がっていた。
娘や次男の喧嘩?を楽しそうに見守っていた・・
「もう、思い残すことはないが、リョウタロウは何時ならこれる」と言う父
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・先月の半ば、孫3人を連れて、最後??の帰省を試みた。
1日に4時間程度意識があるときがある?
『ズ~ッと、意識があるように感じた』
しかし、無表情で涙を流す父・・それを見せまいとする父・・どこか歯車がかみ合っていない・・・
父は人生の目覚まし時計の?  ある時を待っているようでもあった
生まれてくる時・・最初の目覚まし時計がなった。
そして、もう一度・・最後の目覚まし時計は、もうじき音もなく鳴り響き、父を黄泉の国へ誘う・・
もう、そんな瞬間がそこにあるのを感じる。
思い出す父の言葉。
父と会話することが少なかったからこそ、父の言葉が、走馬灯のように僕の脳裏を何度も何度も横切る。

眠れない夜は、ほぼ1年を数えた。
父のことばかりではない。それ以外にも、人生に試練が、それほど若くはない僕に、一気に襲い掛かる。

おそらく父の「人生の目覚まし時計」のなる瞬間を、母は見届けようとしている。
出来れば、僕も見届けようと思う。
明日、2007年に向けての大きな打ち合わせがある。
それが終わったら、飛行機に飛び乗ろうと思う。
80余年の人生の・・父が鳴らす「人生に目覚まし時計」の音は、僕に何を伝えてくれるのだろうか?

今から2000余年あまり前、衰えた肉体を横たえて、ブッタは目覚める時を待ったのだろうか?
因果と報応のハザマで、人生とは何たるかを待つ時、
或いは、死に目覚めた時。人生が何たるか?を、時は厳かに伝えるのであろう。

母は、重い決断を下した。
その数時間後に、父はしばし意識を回復した。
出来れば、最後は、母と不浄の息子で、見届けたいものである。

ロッククラフトは3通のテーマから創設された

1 苦しくなったら声を出せ
2 人と自然の調和を考える
3 一見無駄と思えることの繰り返しの中に真実がある

ロッククラフトは高度なクライミング技術を教えているわけではない。むしろ農夫が種をまくような・・或いは地面に散乱した枯れ枝を取り除くような・・見えない行為に重点を置く。
育成された木々の見事な枝葉の姿を競うものでもない。
収穫された作物は、たとえ不作であっても、捨て去りはしない。

ロッククラフトは、出来れば人生の試練は、順境と考える。
追い風は望むべき風ではない。むしろ逆風を順風と考える。
試練は、自らの知恵で乗り切るものであって、人の手を借りるべきものではない。
むしろ試練こそ「人を鍛えるかけがえのないモノ」と考える。

ロッククラフトは、去るものは追わないが、来るものは拒まない・・むしろ、再び帰ってくるものを温かく迎える。

ロッククラフトはの財産は子供達である。
子供達の成長がロッククラフトの成長であり生き方でもある。

ロッククラフトは、私個人の持ち物ではなく、一つの考え方であり、創生はロイヤル・ロビンスに起因する。

などと、つまらないことを考えてみた。

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おおむね2006年の大会は終わった。後はジャパンカップを残すのみであるが、シニアの大会に参加する子供の結果は特に重要とは考えない。

2007年度のロッククラフトの強化選手ならびに、準強化選手が決まった。
強化選手は、準強化選手(最年長で中3.最年少で小1、おおむね各学年1名)の中から、数名のチームとして、強化練習に励むものとする。
強化練習は毎月1回を原則とする。
強化選手にはロッククラフトが様々なサポートを行う
強化選手は最低年間40日の通常練習をロッククラフトで行う。
強化選手は、関東大会以上の大会で、優勝またはそれに順ずる成績を残したもので構成される。
選考基準は、ロック先生の独断
小山田大サンとの強化練習には参加する。などの条件を満たすものに与えられる。
大会への参加には所属チーム「ロッククラフト」と明記する。

2007年度強化選手は、男子中学生5名、小学生9名 女子中学生1名 小学生1名で構成される(12月17日現在。名前の発表は差し控えます)

チョークバックには「因果」のワッペンをつける。

そんな感じかな?
まったくの独断で恐縮です。

夢の定義

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ボストン・レッドソックスに入団が決まった松坂大輔さんは「夢は見るもので、叶はないもの」と言い放った。レッドソックス側は総額120億円というをかけて、一人の選手を獲得したわけである。
大輔という名前の流行は、荒木大輔にはじまり、今年も、或いは来年も流行しそうな名前である。

1994年にエベレストに行ったとき、僕達のテーマは「夢は叶うもの」であった。
行くだけで満足してしまった自分がそこにいた。しかし、頂上を落とす意志をもった仲間もそこにいた。
思えばエベレストは遠い道であった。
「向井。エベレストに行こう」といった同級生のS君は当時、大学3年生だったと思う。
パキスタンのブロードピーク(8045m)遠征を終えた数ヶ月後だったと思う。時は1977年であった。
S君は7400mまで高所順化を終えていたが、教育的配慮(大学の遠征であったので)から、敢えて2次登頂は狙わなかった。
頂上へ立つ・・という強い意志が1994年まて継続していたS君は万難を排して、頂上を落としたのであった。
おそらく、彼にとって夢は「かなえる目標」であって、僕にとっての夢は「同じ時間の共有」であったのだっと思う。
1977年は岩登り競技会の始まった年でもあった。小さな大会で優勝した僕は、この大会の意義を自分なりに感じていた。
ヒマラヤの8000mも夢なら、クライミング競技会も夢であろう・・と、
エベレストに行くという気持ちもさることながら、クライミング競技の選手を育てることも、僕にとっての夢の始まりであったと思う。
ロックにも大輔という子供がいる。小学6年生である。彼は今年・股関節亜脱臼にはじまり、左指などの骨折など災難が多い。頑張りすぎて、故障や怪我を起こしてしまうのであった。
明日の加須も参加は難しいと思うが最終結論は、今日、彼に下す。

思えば小学校6年は僕にとっても最終宣告の年であった。「君の右ひじは治らない」いわゆる野球肘だったのかもしれない。毎日、硬球を200球投げ込んでいたから・・。
荒木大輔の悲痛な投球が脳裏をよぎる

しかし、ロックの大輔の怪我は「治る怪我」である。今年の大会に出たい・・という夢は断たれたが、来年にはたくさん大会がある。

遠くに描くには、人それぞれの心が宿る。
おそらく僕にとっての夢の原点は、12歳であったと思う、僕の夢、ロックの大輔の夢、そして大リーガーとなる大輔の夢・・

多くの挫折が僕をここまで導いてきたような気がする。

そう考えると、僕の夢は「挫折の繰り返し」なのかもしれない。

3人の大輔の人生を見ていて、そんなことを考えてしまった。

夢は現実になる。夢は「あきらめないこと」
そんなことをロックの大輔には伝えたいと思う。

地球は生きているのか?

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1960年代の後半にジエームズ・ラブロックが「ガイア仮説」を提唱して久しい。もともと生命物理理学者
として、世界の生物学者を敵に回した・・と言われていたが、最近は、地球が生命体である、という考え方は定着してきつつあるようだ。ガイアとはもともと、ギリシャ神話の大地の神ガイアからきている。
提唱者は、ラブロックではなく、ウイリアム・ゴールデンという、ノーベル賞作家の仮説が発端とも言われている。
ラブロックによると「地球は、少なくとも地上100マイル(160KM)地下100マイルの間は、生命体の様相を呈している」という。たとえば森林とは、人間で言えば肺のような働きをしているのである。

先般、白流須鯨の話がHNKで放映されていた。「1966年ころ、その個体数が7000頭に激減したのを境に、保護して、数を増やそうと、捕獲禁止となったのだが、現状その個体数は増えてはいないようだ。
子供の母が
「何故、保護しても個体数が増えないのでしょう?」という質問に「もし、地球の陸地に老若男女あわせて7000人しか人間がいなかったら、君は、恋の相手を探せるだろうか?」と問うてみた。
答えは簡単である。
さらにもっと範囲を狭めて見よう「北海道に、同じく7000人しか人間がいなかったら?人間の個体数は増えるのだろうか?それが、滅亡しかけているオランウータンの現状でもある、さらにオランは、5年に1度しか発情しないのである・・・」

1030年頃、タスマニアン・タイガーが滅亡したが、滅亡を助長したのは皮肉にも、動物学者達の乱獲が原因という説もある。

日本人はあと50年で人口が6000万人になるかもしれないという説がある、世界の人口は100億人を超す勢いだというのにである。

ジエームズ・ラブロックはいう「生殖しないで生物は、滅亡する・・ただそれだけのこと」なのである。
生物にとって、もっとも活発でなければならない行動は、生殖活動である。種の存在は野全てはそこに起因する。人類も同じ何である。

地球は誕生してから、今日まで、40億種類の生命が誕生して、あるは滅亡したといわれているが、人類の個体数が100億を超えるというのは異常な状況でもある。
もし地球がガイア仮説ではなく、カイア(生命体)であったなら、森林が肺であるなら、人類はがん細胞のようなものなのである。
癌には放射線治療とか、ある特定の抗生物質の投与が有効な治療とするなら、地球にとって、人類が存続するべき環境とは、核分裂に依存して、科学物質の投与による生命維持が必要不可欠なのかもしれない・・。こんなことを書くと、星新一の「ショート。ショート風」でもある。

核を持たない、開発しない、使わない・・という非核3原則は国際紛争の解決手段としてなのか?
現に、日本のエネルギー需要に、原子力発電は欠く事が出来ない。

二酸化炭素の排出量の削減は、日本人にとって「コップの中の嵐」としか受け止めていないような気もする。

タバコをやめて、長生きする・・?
1971年頃までの寿命統計調査によると、100歳を超える老人は、7000人前後であった、1994年頃から急激に増えて、今年の上半期には3万人に達する勢いで、激増である。さらに今年9月以降来年の3月までに、100歳を超える人口は5万人というデータもある。え・ええ・・ええええ、
50年後に日本人が6000万人になるという仮説、
もっと恐ろしいのは、65歳以上の寝たきり老人が1200万人になる・・という仮説。

地球生命体仮説は、40年の時を経て、ガイア理論へと進化している。もう、生物学者ばかりか、当時の多くの敵(批判的な見解の人々)は見方になってしまった。
地球は、地球としての生命体である。人間のみの住みよい環境体ではないのだ!!

インドネシアの森林破壊は、日本にも大きな責任がある。
アフリカの砂漠化はヨーロッパの植民地支配に要因がある。
南極大陸の温暖化は、科学者達の残骸による環境汚染がその原因の一旦を担っている。

幾ら原油価格が高騰しても「車には乗りません」と言おう人はいない。
掘り尽くされた化石燃料は、石油ばかりではあるまい・・・地下には無数の空洞があり、地下大気も地球を温暖化している。


大陸の移動によって、地殻から地表に押し上げられたマグマが地上に残した最初の物質とは、岩であるという。

もし、地球が生命体であるなら、岩とは人間にとっての皮膚である。
もう少し柔らかく、指先で感じてみたい・・と思うのは、私の邪念のせいなのだろうか?



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