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気を失ってこそ、酒

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年末年始はお酒を飲む機会が多くて体調管理が難しい時期でもあるが僕も酒を飲む機会が多くて、年末から体調を崩したままである。お酒が飲めないのに飲むからいけないのだ。

そこで、真の酒飲みとはどんな人を指すのかを考えていたところ、あるアイドルタレントが「酒は気を失ってこそ酒であり酒豪といえる。気を失うほど酒が飲めないのはまだまだ・・」と豪語した。

あるタレントは、今でも『私はアイドル」と自らを豪語する女性である。自分のことを苗字でいうことから「15歳の癖に生意気だ」「えらそうだ」『ちびの癖に」などと業界内部では揶揄されていたらしいが、そんな言葉にはまったくへこたれない強い自我を持っているようだ。

彼女は酒豪でもあるが、愛煙家でもあるらしい。しかし、そんな私的な自分とアイドルとしての公的な自分はまったく違うものだ、とも行ったそうだ。すなわち「アイドルとは、K泉(私)の職業ですから」と言い放つ。

僕はそんな彼女が好きである。ただしアイドルとしてである。

彼女のコマーシャルは売上倍増という神話hが30年たった今でも現在進行形である。

彼女は、前にも述べたように「えらそうだ」「つんつんしている」あるいは「ちびの癖に」という揶揄を自らの愛称にしてしまった。

方言語録によれば、新潟県西頚城郡や徳島県の方言では、痩せている、または小さいさま、鳥取県西部ではとげとげしいさま、岡山県児島郡では、つんつんしてえらそうな様子、とげとげしいさまを・・・凝れたすべての言葉は「きょんきょん」というらしい。

彼女は言う「アイドルなんていわれている人は、みんな二重人格でしょう」・・とあっさり言い放つ。すごい・・すごすぎて言葉が出てこない。

まさに彼女は、そのまんまアイドルという職業を楽しんでいるタレントなんだろうと思うが「おい、向井。もうよったのか?甘いよ。気を失ってこそ酒rだぞ」なんていわれたら僕は生きてゆけないかもしれないので、彼女は永遠に僕のアイドル(偶像)でよいのだと思う。

ちなみに、idleは機会などのギアが入っていない状態か作動していない状態のことであり。idolとは意味が違うのだが、日本語にすると、同じ意味に思えてしまうのは、現表認識レベルの低さがそう思わせてしまうのだろう・・・(笑)

この数式は美しくない

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「この数式は美しくない」ある時アンリは、そう考えながら、さまざまな数学的研究を直感において研究した人物である。彼は「数学とは、不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである」と自分の数学的見地にこだわり続けて、宇さまざまな数学的研究課題を今日の科学者に残した。

たとえ解(答え)が見付かったとしても、その過程に感覚的な違和感を感じたなら、ほっとほかに解決する方法がありのではないか・・と考えることは人間として当然の欲求であり、その違和感が感性であり、さらにその違和感を感じる・・というこことが人間性につながると考えたようだ。少し難しい話になったかもしれないが

クライミングにおいて、単に高何度の問題(ルート)を登れたとしても、そこに違和感を感じたならば、さらに多角的視点にたって、その課題に挑戦すべきではないか・・・と考えることが重要な気がする。

ある意味で練習とは、美しい数式を追求する過程のことである。単なる達成感のみでは、美しくなれないす、クライミングの本質から遠ざかってしまうような気がする。

クライミングとはむしろ数学的な思考かもしれない。問題を作ることと、問題の解を求める結論のみが優先するのではなく、多角的に検証すル事を代数を用いて研究する科学である。

物理学との違いは、論理性や実験による検証の確立的現実が成果ではない・・と考えても良いかもしれない。

しかし、アンリの考え方は、数学的論理性を伴っていない~、不明確(あいまい)で数学的ではない・・という批判も伴う。

クライミングにおいても「このルート(あるいは課題)が登れたんですけれど、正解ムーブはどれですか」という質問を受ける場合があるが、僕はあえて「あなたが正解と考えて事が正解である、その解に違和感を覚えたのであれば、その解(ムーブ)は、あなたにとっては不正解なのかも知れませんね」と哲学的に答えてします。

あえて、正解を教えるのではなく、自分が感じた違和感を是正することができて『美しい』とかんじるなら、自らが導き出した解は正解なのかもしれない。

しかし、練習はそれに満足してはいけない。他の方法を常に模索する姿勢がなくなれば、自らの向を自ら断ち切ってしまうのである・

「容疑者Xの献身」によれば、湯川教授(物理学者)が容疑者X(天才数学者)に「数学とは、解が存在するとして、問題を作ることと、解くこととでは、どちらが数学的なのか」とい物理学的な質問をす事によって、容疑者の動機を探ろうとするような、奥の深い話になるのかもしれない。

数学者には「美しい数式を独占したい」という欲望が渦巻くものなのか?

アンリが1904年に残した位相幾何学の問題(ポアンカレ予想)は「ロシアの数学者グレゴリー・ベレルマンによって、100年後に解き明かされたたといわれる」

しかし、カレは謎を解いた功績を甘受することなく、ロシアのどこかで、キノコ狩をしているという。カレは名声を得ることより、与えられた問題を「美しい数式で解き明かす」事こそ数学と考えるかのごとく、文学によって自らの考え方や生き方を公表しない。

ベレルマンの頭の中には、新たな「美しい数式を解く」問題が混沌としながら山積しているのかもしれない。

人生に「此れで良い」という満足は不要である。

どこまで本質の上ではなく、本質の下層に存在する基本を、さらに深く追及しようとする心の存在と向き合う事こそ、重要な考え方ではないか・・と、ふと、思った。

クライミングというスポーツは、力学的でもあり、人間性の歴史でもあり、数学的でもあるような気もした2011年でもあった。

                               2011年12月29日、本年最後のコラムでした

心を整える

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サッカー日本代表「キャプテンの長谷部誠の座右の銘は「心を整える」である。幼いころからサッカーが好きでいつもボールを蹴っていた様だが、サッカーの実績はなにもないまま大学進学を考えていたところ、プロからの誘いを受けた。長谷部は「俺でいいの」と思ったという。サッカーは好きだが、プロになるとか日本代表になる事は「夢のまた夢」と思っていたという。そんな彼のプロになることを進めたのはおじいちゃんだったという「おじいちゃんの後押しがなければ、僕はプロにはなっていなかった」という。それほど彼は「自分の才能にはうぬぼれていなかったし、そんな実力がある」なんて想像もしていなかった、という。しかも「プレースタイルは超地味」という自負があったようだ。

彼は読書が好きで、文学から哲学書まで何でも読む。さまざまな国の文化や考え方は、読書から学んだことだという。サッカーには哲学が必要だと、彼はいう。24歳で代表キャプテンになって時は岡田監督の「お前だ」と鶴の一声で、非常にやりにくかったが「(キャプテンとしての)なにもせず、、でしゃばらず、自分のできることをする」と決めたという。

彼は、「ドイツにはドイツのサッカーがあり、イタリアにはイタリアのサッカーがある」という「もちろん日本にも日本にサッカーがある」という。彼がであった監督は「優れた人物が多い」というそれぞれの国民性を持ちながら自らのサッカーを押し付けることなく、しかし哲学を持ち、それはゆるぎない確信に満ちている」という。「僕はいつも指導者に恵まれている」そういってはばからない。

そこで学んだものは「サッカーとは心を整えることだ」といいうことだ。「心を整えるとサッカーが見えてくる」「自分が見えてくる」そして「心を整えるということは靴を整えることでもある」という。そんな一見妻らに日常のことにサッカーを感じ哲学を感じるらしい。

クライミングもそういうことなのかもしれない。心を整えるために岩に向かい、野心や思惑を超えたところに自然の姿が見えてくる。そんなことを僕の心の師匠ロイヤル・ロビンスも自叙伝の中で語っていた。

今思えば、1970年代は、ガストン・レビファーの本も全部読んだな。有名な本は皆さんご存知だと思うが「太陽を迎えに」というエッセイには、僕の山に対する考え方の基本になった部分が多かったです・・・本を読むことは大事ですね(笑)

良い悪いは別にして

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国を治めることは大変なことである。中国に「創業は安し、しかし守成は難し」ということわざのがある。一国の主を目指して覇権を争う。そんなときに国を治めた後のことなど考えが及ばないものだ。しかし、覇権争いに勝利した今、はそんなことをとやかく省みている暇などない。難しいとか簡単だったいうのは過去のことである。今直目している問題は、さらに多大であり難問が山積しているのだ。ここからが本当の勝負である・・・ということのようである。やさしいとか難しいとか考えることは批評家や学者の見解にしか過ぎない。政治をつかさどるものは、常に難問と直面しているのである。

北朝鮮の独裁者は亡くなられたようだ。あえて混乱を望むものなど、国の内外問わず、望むものなど居るわけがない。

院政がしかれるとか、政治家や権力者としての質量が問題ではなく、ここにある現実が問題なのだ。政治は決断である。具体的にな方向に舵をとることだ。民衆も何かを感じ、そして新たな希望に満ちあふれれているかもしれない。

草木に水を差すのは摂理だが、人間の思惑に水を指すのは避けたい現実でもある。しかし、社会が成熟してゆくと間違った水を指す人が増えるのも現実である。

途方もなく遠い話

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最近129.1光年先に銀河が発見されたらしいが、どのくらい遠いのか意味がわからない。太陽系を旅たつ2期の探査船ボイジャーは海王星のかなた、地球から150億キロ先を航行しているようだが、光の速さは1光年で9兆4600億キロ進むといわれるが、なんだか途方もなく遠い話で皆目見当がつかない。一説によると、宇宙は地球から380億光年以上も遠くまであり、現在も途方もなく速い速度で膨張を続けているようだ。

僕たちが星と考えているものも、多くの場合は太陽のような恒星が2000~3000億個くらいが星団を形成していて、ひとつの星ではないようだし、それらの銀河が数百以上集まって軍団を形成している場合も多数あるようだ。なんとも宇宙は広すぎて理解しがたい世界である。

それに比べると人間の歴史や進化は急速に膨張しているといっても、宇宙から比べると、あまりに小さな進化や繁栄といえるだろう。

しかし、人間にとってこの進化や文明化は目覚しい。火をおこす技術を持ち合わせてから、どれほどの時間が経過したのか。人類最初の鉱山でも今から8000年前、採掘していたのは火打石だったようだ。

石を積み上げることに文明化を目指した古代人でさえ、古くは1万2000年くらい前だし、エジプトのピラミッド以後の巨石建造物でさえ5000年にも満たないようである。

人類の歴史を考える場合でもその起源を想定する事さえ難しいのに、280億光年はあまりにも壮大な科学の挑戦でもあるといえよう。そんなことを考える科学者はすごいと思う。おそらく現状の科学の進化の速度から考えて、20年先には宇宙や科学の常識と思われた概念や法則が、ことごとく塗り替えられそうな勢いである。

しかし、人間が本質的に求めているものは、科学の進化や人間のみの利益や繁栄ともいえないような気がする。それは自然界の秩序とか宇宙の原理原則を、いかに科学が発展しても超えることは決してない、という事実を誤認してならない。もし、そう考えるなら人類の単なる自己過信かおごり西か過ぎない。

私たちの見えないところで、確実にすべての存在は進化し、変態し、持続可能性に向けて、さまざまな試行錯誤を繰り返しているのだ。

クライミングというスポーツも欧米では、単なるスポーツと考えルールにしたがって登る人は、あくまでスポーツクライミングに領域にしか過ぎず、多くの人は自然の法則にしたがって、クライミングを楽しんでいるようだ。

今ここに一冊の本がある。[haw to climbing 5.12](エリック・j・ホスト著) P1000103.JPG どうやらアメリカの大学の教科書にも認定されている書物であるが、いかにして5.12を攻略するのか・・ではなく、誰でも到達できるスキルですよ・・と優しく語る。しかし、それは決してやさしくはない。継続しなければ何も生まれないし、読むだけでは何も身につかない。yes,you can climmbing  に始まり honing your skills ・・・spして welcome to conditioning ・・・さらに winning the head games  そして、and beyond  にいたる。わりと平坦(簡単な英語)で書かれているので、読んでみると良いかもしれない。

科学的な根拠を用いて、楽しく語る作者の人柄がうかがえる良い本である。単なるスポーツとしてのクライミングと取り上げていないところが良い・・と僕は思ったのだが、英語力のなさがそう思わせてのかもしれない(笑)

クリスマスの約束

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会社が始まった2001年から毎年欠かさず見ている歌番組がある。小田和正の「クリスマスの約束」である。会社が始まった、という縁なのか、たまたま12月25日は一人ぼっちのクリスマスなのだからか・・一人で毎年欠かさず見ていて、いい年して小田和正にはまっている自分が、妙に可愛く思えてくるのが不思議である。縁とは関係ないのだが、イチローが大リーグに挑戦したのも2001年である。日本にいる時よりイチローの一挙手には注目し続けた10年でもある。

2001年といば9.11である。開業準備に追われて気を失うくらい、昼夜となく壁を作っていた矢先の事件は衝撃的であった。ちょうど開店1ヶ月前の・・・なんとも忘れられない2001年でもあった。

今年のクリスマスに約束を見るかどうかはわからない。「もう、卒業かな?」って気もするし、見ようと思う気持ちも僕の中で薄らいでいる。それよりも、12月24日は父の命日である。2006年に亡くなって5年目である。やはり一人で父を考える日にしたい。それこそが、僕にとっての「クリスマスの約束」みたいな感じである。

今年の12月25日は日曜日でもある。今年は鶏肉の丸焼きとケーキでお客さんや生徒の労に報いたいと思う。

さらに、今年の12月25日は、ボデイケアの年内最後の日でもある。すでに4人の予約が入っているが、今年最後の「自分へのご褒美に」ボデイケアはいかがなものか?

年の瀬に向けて、どこにも慌しさを感じないのは、僕の仕事のせいなのだろうか? どことなく来年はという熱気が伝わってこない。

しかし、自分には熱気を感じる。これはすごいことだと自分でも不思議に思う。

雨は、ただ一人に降るものではない・・とは米国の詩人ロングフエローの言葉である。やまない雨もなく、吹かない風はない。試練はむしろ人生の道標と考えると、3.11は僕たちが進むべき道標を与えられたのだと思い直して、これから更なる試練が訪れようとも、もっと前向きに、人生とか運命というものと向き合える自分を模索したいと考えている。

  久しぶりに、考えがまとまった(笑)

 

政治より酒

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さまざまな物議をかもし出しながらも、彼の芸には卓越した姿が見えた。それはジョブスにも似たところを感じる。個人的には,その毒舌と責任のないかのような言動には眉をひそめる部分も多かったのだが、彼の歩んできた人生そのものが芸への修行だったのかもしれない。彼のすべての行い・・それは所業というがあまりにも無常観も同時に感じるのは、私だけではあるまい。

優れた人は優れた足跡を残してこの世を立ち去るのか・・・

惜しまれる・・というより、鮮やかに生きた・・・結果なのかもしれない。

とかく人間は理性で「善か悪か」もしくは「正義か否か」を思考や判断のものさしにするが、業自体を生き方のものさしにはしないものだ。すなわち罪の意識や悪の行いは悔い改めるか、リセットしたくなるものだが、彼は、生き方すべてを、そのまま飲み込んだ人生を送ったように感じる。古典を悪魔に変える・・そんな彼の所業は落語をあたらな方向に導いたのかも知れない。

真の芸術とは、生きている間には評価されにくいものなのかもしれない。金銭的な豊かさ、言葉を変えるなら経済力というものさしが人生の成功者というラベルに相当するのであろうか?

それは科学や産業にもいえることではないのだろうか

かつてヘンリー・フォードは自叙伝ののなかで「人生は常に安住にあらずして旅路のごときなり」と書いてた。必要に駆られ、自分の欲望によって得られた王国に安住する。それは成功なのだろうかと、自らに問いただして見たのだった。

芸とは観客の支持によって到達できる地位ではなく、自らの芸があるから観客は支持するのだ・・とは彼の言葉であったようにも思う。

They love not poison that do poison need,
Nor do I thee: though I did wish him dead,
I hate the murderer, love him murdered.

毒を必要とする者も、毒を愛しはせぬ。
俺も貴様を愛さぬ。
たしかに俺は彼の死を望んだが、
いまは暗殺者を憎み、犠牲者を憐れむ。

これはシエークスピアの言葉である。彼の毒は、落語を愛する人にも、愛さぬ人にも、死にてなお愛されるのかもしれない。

また、

All's well that ends well: still the fine's the crown;
Whate'er the course, the end is the renown.

同じく、シエークスピアの言葉である、どちらも「リチャード2世」の言葉であったと思うのだが・・・・確かな記憶ではない。

ニュースを浅く読む

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最近は、深い知性や洞察力があるとすごい・・という風潮があるが「それは果たしてグローバルな考え方なのだろうか」と、ふと考えることが多くなってきた。しかし、その傾向は今に始まったことではなく、僕の歴史においては1990年代の前半に芽生えた思考でもある。「もっと、なんとなくを信じて(自分の直感力)思いつくことを行動に移して見ることも大切なんではないのだろうか」と考えることである。

それは1980年代から1990年代の前半に読み漁った本による影響だったのかもしれない。その最終章は確かフィル・コリンズの「タイム・オブ・ブック(時間の発見)」、マイケル・ハマーの「リエンジニアリング革命」でありジョン・ネイスビッツの「グローバル・パラドックス」でもある。またトマス・クーンの「パラダイム・シフト」などはその考え方を確信に導く優れた書物であったとも考えている。僕の思考に大きな影響を与えた最近の書物である・・・といってもほぼ20年前のことであるが。

たとえば、ジャック・アタリ(元UE復興銀行総裁、政治学者)に言わせれば、21世紀のあるべき社会とは利己主義から利他主義に復興sぢなければならない・・ということになるのかもしれない。

世界情勢を深く読むには、バランスの取れた思考と行動が必要なのだが、企業も個人も自分たちの経済の拡大を望みすぎて閉塞してゆく社会をみんなが求めすぎているのでは何だろうか・・と、ふと考えてしまうのとが、20年くらい僕の中で渦巻いている。

ニュースの何が僕という個人にどのような影響を及ぼすのか・・ということより、もっと自分が生きる風土とか地域社会のあり方を考えることの重要性のほうが大事なような気がする。

自分に利害が訪れて、初めて対応に追われる・・という経済社会や国家経営のあり方を説く深い思慮よりも、もっと重要な事ってないのだろうか?

今、ここにある現実とは何か?ミッシエル・フーコー(言表学者)は、かつて、今、自分の目の前の机に置かれているパイプの存在を言語でとき表して見せたのだが、結構面白い考え方であった。

時間と歴史の因果関係も、人間の生と死の問題も、宗教が対立する関係も、対立を前提として成立したのではなく、対立を生む背景は、人間のエゴによるものだということを21世紀の人類はもっと強くしかも浅く考えないと、自分たちが構築してきた文明社会に自らの持続可能性を奪われることになりかねないのではないかと、ますます、ふと思うのである。

日本社会にまますます仏教がその必要性を失いかけているのだが、そんなことを考える日本人は少ないような気もする。

「目覚める」とはどういうことなのか、改めて「仏教正典」なるものを紐解いて見たくなった。

雑談的、独り言である。

 

持ちかたが悪い

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昨日、IT機器のトップメーカーであるアップルを創設した、スチーブ・ジョブズ氏がなくなった。56歳だった。肝臓機能の低下とすい臓がんをわずらっており、今年の8月で自らその役職を退いた矢先であった。確かに最近のジョイス氏は明らかに衰退しているように見うけられた。彼は「人類が発見したもっとも偉大な概念は死である」と言い切っていた。

彼は、死は死であって、それ以上でもそれ以下でもない・・たとえ人生がどんなに素敵なことであっても、自分は自分以外の人生を生きようとは思わない、自分が自分より優れた他人の生き方を模倣したとしても、それは無駄なことで豊かな人生とはいえない。・・などなど、まるで死を恐れることを知らないかのようであり、自分自身の人生を追及し続けた人であったのかもしれない。

彼はボブ・デイランやジョン・レノンが好きだったようだ。アップルという社名はビートルズのレコードの販売元に由来しているというが、僕はニュートンのリンゴを意識したのではないかと推測している。マッキントッシュとはリンゴの品種の名前であり、日本語では「旭」のことだという。

また日本文化と禅には並々ならぬ興味を抱き、オイゲン・ヘリゲルの「弓と禅」や鈴木大拙の「禅と日本文化」などは愛読書だったようだ。またインドで数ヶ月放浪したとも言われている。日本食を愛し、菜食主義者であったようだ。

日本の盛田昭夫氏を敬愛していた・・とも言う。僕も1990年代に彼と会う寸前まで来ていたが、残念ながら日本の帰途の途中ハワイで倒れられ、帰らぬ人となった。会っていたら、自分の人生は少し変わっていたかもしれない(笑)

僕は彼の作品とはまったく縁がない。が彼が1991年ヨセミテ国立公園の教会で結婚したと聞くが、僕もヨセミテには深い敬愛の念を抱く。

彼とは思想、哲学、文化に対する考え方で多くの共感点を持つ、しかも同世代である。世界への影響力においては比べる術はないが、その生き様には共感する部分が多いのも事実である。

多機能電話を世に送った時「電話が使いにくい」というユーザーの意見に「持ちかたが悪い」と臆することなく一括した姿は、まさに自分の行き方そのものだったのかもしれない。

ルートが登れない理由を聞かれたとき「持ちかたが悪い」と一括する自分が、妙にジョブズ氏とダブルのは、唯一僕と彼の共通点かもしれない。

紀元前6000年まえに・・

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今から8000年前、紀元前6000年にすでに人類は炭鉱という工業資産を開拓していたようだ。人類最初に炭鉱は火打石の採掘であったという。この遺跡は世界遺産にも登録されている。人間と石との関係は深くて長い。

長いといえば、宇宙は137億光年前に誕生したと言われている。しかし、誕生した場所は地球から4200万光年前の地点であったようだ。このことを証明するために、天文学者と物理学者は熾烈な戦いを演じているらしいが、論理と観測を数学で実証するという戦いは、僕たちの目には見えないし、距離感が理解できない。ただ、宇宙時間4200万年前の地点から発せられた光が地球に到達するのに137億宇宙時間を必要とした理由をアイザック・アインシュタインの一般相対性理論を用いて観測、または数学で検証していると、光速不変の法則は科学的事実なのだという。しかし、宇宙の大きさと膨張しているのか否かは科学の範囲内での論理であることに変わりはない。「ビック・バン」・・・・ジョージ・ガモフに言わせれば「まさに馬鹿げた現実である」。

話は8000年前に戻る。地球の歴史において、石を掘り起こす。という作業は人類の英知の始まりでもあり、稲作文化などと同等の高い次元の発見であっただろうと考えられる。こんな山の中に火打石の鉱脈があることに、最初に気がついた人類は、単純に岩を登りたかった最初のクライマーなのかもしれない・・と考えることもまさにビックバン、馬鹿げた発想なのかもしれない。

そう考えると、物質に対して反物質という科学者たちの発想も、非現実(マイナスの物質があるという考え方)で、僕の発想より劣る思考なのかもしれないが、そのスケールの大きさは、圧倒的に科学者たちの方が優れている。宇宙時間4200万年前に、地球のすぐ横で誕生した宇宙が光速不変の法則によって137億宇宙時間もかけて地球に光を届けた・・ってことは、宇宙は光速の6倍以上のスピードで地球から遠ざかっている・・ってことらしい。

なんだか訳のわからない話であるが「なぜ岩に登ることが楽しいんですか」って質問されたことがあるが「楽しいか楽しくないかは、理屈ではないのですよ、やってみてください」といっても、しない人にはわからないし、しても楽しくない人もいる。それが現実である。

地球に住んでいると、地球は静止しているかのように感じられるが宇宙から見ると、音速の5倍のスピード(時速1700キロ)で回転しているのである。そんな現実は、やはり「え~嘘でしょう・・・」というのが日本人の知性なのかもしれない。

人類の社会に国会議員を選出する、という考え方はほぼ200年前にフランスの英雄ボナバルト(通称ナポレオン)が考え出した、政治体制だったようだ。彼は戦争ばかりをしていたのではないことに驚きを感じる。

驚きを感じるのは、そのナポレオンがスペイン進行を始めると同時に、メキシコでは独立革命な民衆からおきた。この一見関係のなさそうな事件は、実は綿密な背景のうえに成り立っているのである。この話を突っ込んで話そうとすると、おおよそ4時間くらいはかかるので「へ~そうなのか・・」程度になんとなく頭の中に描いていてほしい。

それにしても、初めて火打石の鉱脈を発掘しようと考えた人は、その時代の英雄となっていたのだろうか。石が発火したのは、単純、岩登りをしていたら、石がはがれて石とぶつかり火花が発せられ・・・しかし、岩のはがしてしまったクライマーは墜落して大怪我をしてしまったのかもしれない「火打石の発見と、発火でやけどや怪我をしたことより、彼の頭の中には「ボルダーマットがあったなら・・」という悔しさが芽生えていたのかもしれない。そう考えると、彼の火打石発見から8000年も時間を経過しないと作れなかったボルダーマットは偉大の発明なのかもしれない・・・・この考え方は、まさにビックバン、馬鹿げた発想である。

文学しか知らない自分の思考を、ガモフは天国から笑いながら見守っていてくれることを願うばかりである。 

久々のコラムでした。・・・・まだ、まだ、不調です(笑)



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