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核というエネルギー

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ピンチとチャンスは裏と表すなわち表裏一体名のである。そう考えて冷静に以下の論文を読んでみることを推薦します。http://www.apa.co.jp/book_ronbun/vol4/2011japan.html

彼は原子物理学の専門家で現在札幌医科大学で教鞭をとっています。なかなか骨のある人だと思います。商売人になり下がっている科学者や評論家が多い世の中ですが・・・

宇宙ゴミ

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地球の環境問題を考える上で、人類がある地域に到達し定住すると必ずゴミが残される。そのゴミは時には人類の遺産として重用されるが、そうでない場合も多い。世界で一番高い山エベレストへの登山者は後を絶たないが、残されたゴミの山はいったいどのくらいになるのか、想像もつかない。僕がはじめて行ったヒマラヤ登山は1980年のことであったが「人間の痕跡はすべて撤収する(持ち帰る)」を実行した最初の海外登山だったのかもしれない。その後1994年にエベレストに挑戦したが。その時もすべてのゴミ(糞尿も含めて)は持ち帰ったの意味ならず。氷河に埋まっていた3000本あまりの乾電池を回収して日本に持ち帰った。

20世紀の前半に人類は南極大陸にその痕跡を残した。まさに「至上最悪に旅」が冒険とい名の元に行われたのだが、中庸には捕鯨が行われ南極観測が開始されるとそのゴミは途方もない量となって南極環境を破壊している。昭和基地においても40年間に述べ2000人の研究者が400トン近いゴミを残していったがそのうち337トンは回収した・・といわれている。境が放置したゴミは4000トン以上?皆目見当がつかないようだ。

ゴミは宇宙にも広がっている。その量は4500トン、1960年代より打ち上げられた衛星は4000個以上。そしてそれらのゴミは4500トン以上も地球の周回軌道を回り続けている。1996年に打ち上げられたスペースシャトルには帰還後の検査で500箇所以上のゴミの接触痕跡があったという。

まさに人類の歴史はゴミの歴史といっても過言ではない   続く

伴侶とは何か?

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酒豪を定義したアイドルの話をしたが、ついでtだから「伴侶」とは何か・・という問題をコロンビア大学行動心理学を元に考察して見たいと思う。

伴侶とは多くの場合人生のパートナーを指すようだ。日本語では配偶者のことであろうが、英語ではどういうのか僕にはわからなかったが、子オ論ビア大学の行動心理学における幸福論という講座によれば、ソウルメイトというようだ。ソウルとは魂のことであり、メイトとは仲間のことであるがこの二つが融合すると生涯の伴侶ということになるらしい。

生涯とはロングライフであるが、ロングライフバートナーといえば、日本語に訳すると「長く戦略的互恵関係にある」ということになるらしい。この説はハーバード大学の言語心理学者の翻訳であるが、なかなか英語の文化的本質を日本語に訳すると、なんだか微妙な日本語に感じてしまうのは何故だろうか?

そこには日本語の主観をあいまいに表現する・という歴史が存在しているからに他ならない。かつてノーベル文学賞を受賞した大江健三郎氏が、受賞講演で、あいまいな日本語文化について語ったいきさつがあるが、あいまいであることを卑下することなく、日本語文化として「誇りに思う」かのような講演は深く僕の心に刻まれている。

生涯にわたって戦略的互恵関係にある相手を伴侶というのであれば、どこか偽善的であって、ギクシャクした関係が浮き彫りになる。伴侶とはそういった関係をさすのではない・・とはコロンビア大学の講義であった。ギクシャクしていないから許せるし、喧嘩もできる。共通する価値観を有することはパートナーにはなりえるが、心は結ばれないのである。

心の結びつきは、身長や顔立あるいは高学歴による経済的余裕によって導きだされるものでもなく、夫婦間の価値観の一致によって導き出されるものでもない。

心理分析を行ってて、相性検査をし、数値が高い人が生涯の伴侶になることは、幸福の価値観とはまったく相異しない。

むしろ、価値観の違い、性格の不一致、さらに容姿や知的レベルや高学歴は良い伴侶を決定付ける容姿にはなり得ない・・ということをさりげなく熱弁していたのである。

たとえば多くの参加者がいるデートメイクサイトや婚活パーテイに多く参加しても、徒労に終わることが多い・・と結論付けている。すなわち無駄なアクセス時間の多さは「人生の無駄ではありませんか」ということである。

コロンビア大学の行動心理学者は言う「伴侶とはソウルメイトである。そして自らのソウルメイクする過程こそが人生そのものである」と

すなわち、幸福になるには、自らの直感を信じることであり、履歴書やデータの質量ではないのだ。

なかなか、うまくはかけなかったが、なんとなく理解してほしい。

今日は少し身体の調子が戻ったが、相変わらず文章はまとまりに欠いている。

しかし、行動主義的心理学の創始者 ジョン・ワトソンや『選択の科学」の ジーナ・アイエンカーなどはなかなか面白科学的心理学である。

 

気を失ってこそ、酒

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年末年始はお酒を飲む機会が多くて体調管理が難しい時期でもあるが僕も酒を飲む機会が多くて、年末から体調を崩したままである。お酒が飲めないのに飲むからいけないのだ。

そこで、真の酒飲みとはどんな人を指すのかを考えていたところ、あるアイドルタレントが「酒は気を失ってこそ酒であり酒豪といえる。気を失うほど酒が飲めないのはまだまだ・・」と豪語した。

あるタレントは、今でも『私はアイドル」と自らを豪語する女性である。自分のことを苗字でいうことから「15歳の癖に生意気だ」「えらそうだ」『ちびの癖に」などと業界内部では揶揄されていたらしいが、そんな言葉にはまったくへこたれない強い自我を持っているようだ。

彼女は酒豪でもあるが、愛煙家でもあるらしい。しかし、そんな私的な自分とアイドルとしての公的な自分はまったく違うものだ、とも行ったそうだ。すなわち「アイドルとは、K泉(私)の職業ですから」と言い放つ。

僕はそんな彼女が好きである。ただしアイドルとしてである。

彼女のコマーシャルは売上倍増という神話hが30年たった今でも現在進行形である。

彼女は、前にも述べたように「えらそうだ」「つんつんしている」あるいは「ちびの癖に」という揶揄を自らの愛称にしてしまった。

方言語録によれば、新潟県西頚城郡や徳島県の方言では、痩せている、または小さいさま、鳥取県西部ではとげとげしいさま、岡山県児島郡では、つんつんしてえらそうな様子、とげとげしいさまを・・・凝れたすべての言葉は「きょんきょん」というらしい。

彼女は言う「アイドルなんていわれている人は、みんな二重人格でしょう」・・とあっさり言い放つ。すごい・・すごすぎて言葉が出てこない。

まさに彼女は、そのまんまアイドルという職業を楽しんでいるタレントなんだろうと思うが「おい、向井。もうよったのか?甘いよ。気を失ってこそ酒rだぞ」なんていわれたら僕は生きてゆけないかもしれないので、彼女は永遠に僕のアイドル(偶像)でよいのだと思う。

ちなみに、idleは機会などのギアが入っていない状態か作動していない状態のことであり。idolとは意味が違うのだが、日本語にすると、同じ意味に思えてしまうのは、現表認識レベルの低さがそう思わせてしまうのだろう・・・(笑)

この数式は美しくない

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「この数式は美しくない」ある時アンリは、そう考えながら、さまざまな数学的研究を直感において研究した人物である。彼は「数学とは、不正確な図を見ながら正確な推論のできる人間のことである」と自分の数学的見地にこだわり続けて、宇さまざまな数学的研究課題を今日の科学者に残した。

たとえ解(答え)が見付かったとしても、その過程に感覚的な違和感を感じたなら、ほっとほかに解決する方法がありのではないか・・と考えることは人間として当然の欲求であり、その違和感が感性であり、さらにその違和感を感じる・・というこことが人間性につながると考えたようだ。少し難しい話になったかもしれないが

クライミングにおいて、単に高何度の問題(ルート)を登れたとしても、そこに違和感を感じたならば、さらに多角的視点にたって、その課題に挑戦すべきではないか・・・と考えることが重要な気がする。

ある意味で練習とは、美しい数式を追求する過程のことである。単なる達成感のみでは、美しくなれないす、クライミングの本質から遠ざかってしまうような気がする。

クライミングとはむしろ数学的な思考かもしれない。問題を作ることと、問題の解を求める結論のみが優先するのではなく、多角的に検証すル事を代数を用いて研究する科学である。

物理学との違いは、論理性や実験による検証の確立的現実が成果ではない・・と考えても良いかもしれない。

しかし、アンリの考え方は、数学的論理性を伴っていない~、不明確(あいまい)で数学的ではない・・という批判も伴う。

クライミングにおいても「このルート(あるいは課題)が登れたんですけれど、正解ムーブはどれですか」という質問を受ける場合があるが、僕はあえて「あなたが正解と考えて事が正解である、その解に違和感を覚えたのであれば、その解(ムーブ)は、あなたにとっては不正解なのかも知れませんね」と哲学的に答えてします。

あえて、正解を教えるのではなく、自分が感じた違和感を是正することができて『美しい』とかんじるなら、自らが導き出した解は正解なのかもしれない。

しかし、練習はそれに満足してはいけない。他の方法を常に模索する姿勢がなくなれば、自らの向を自ら断ち切ってしまうのである・

「容疑者Xの献身」によれば、湯川教授(物理学者)が容疑者X(天才数学者)に「数学とは、解が存在するとして、問題を作ることと、解くこととでは、どちらが数学的なのか」とい物理学的な質問をす事によって、容疑者の動機を探ろうとするような、奥の深い話になるのかもしれない。

数学者には「美しい数式を独占したい」という欲望が渦巻くものなのか?

アンリが1904年に残した位相幾何学の問題(ポアンカレ予想)は「ロシアの数学者グレゴリー・ベレルマンによって、100年後に解き明かされたたといわれる」

しかし、カレは謎を解いた功績を甘受することなく、ロシアのどこかで、キノコ狩をしているという。カレは名声を得ることより、与えられた問題を「美しい数式で解き明かす」事こそ数学と考えるかのごとく、文学によって自らの考え方や生き方を公表しない。

ベレルマンの頭の中には、新たな「美しい数式を解く」問題が混沌としながら山積しているのかもしれない。

人生に「此れで良い」という満足は不要である。

どこまで本質の上ではなく、本質の下層に存在する基本を、さらに深く追及しようとする心の存在と向き合う事こそ、重要な考え方ではないか・・と、ふと、思った。

クライミングというスポーツは、力学的でもあり、人間性の歴史でもあり、数学的でもあるような気もした2011年でもあった。

                               2011年12月29日、本年最後のコラムでした

心を整える

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サッカー日本代表「キャプテンの長谷部誠の座右の銘は「心を整える」である。幼いころからサッカーが好きでいつもボールを蹴っていた様だが、サッカーの実績はなにもないまま大学進学を考えていたところ、プロからの誘いを受けた。長谷部は「俺でいいの」と思ったという。サッカーは好きだが、プロになるとか日本代表になる事は「夢のまた夢」と思っていたという。そんな彼のプロになることを進めたのはおじいちゃんだったという「おじいちゃんの後押しがなければ、僕はプロにはなっていなかった」という。それほど彼は「自分の才能にはうぬぼれていなかったし、そんな実力がある」なんて想像もしていなかった、という。しかも「プレースタイルは超地味」という自負があったようだ。

彼は読書が好きで、文学から哲学書まで何でも読む。さまざまな国の文化や考え方は、読書から学んだことだという。サッカーには哲学が必要だと、彼はいう。24歳で代表キャプテンになって時は岡田監督の「お前だ」と鶴の一声で、非常にやりにくかったが「(キャプテンとしての)なにもせず、、でしゃばらず、自分のできることをする」と決めたという。

彼は、「ドイツにはドイツのサッカーがあり、イタリアにはイタリアのサッカーがある」という「もちろん日本にも日本にサッカーがある」という。彼がであった監督は「優れた人物が多い」というそれぞれの国民性を持ちながら自らのサッカーを押し付けることなく、しかし哲学を持ち、それはゆるぎない確信に満ちている」という。「僕はいつも指導者に恵まれている」そういってはばからない。

そこで学んだものは「サッカーとは心を整えることだ」といいうことだ。「心を整えるとサッカーが見えてくる」「自分が見えてくる」そして「心を整えるということは靴を整えることでもある」という。そんな一見妻らに日常のことにサッカーを感じ哲学を感じるらしい。

クライミングもそういうことなのかもしれない。心を整えるために岩に向かい、野心や思惑を超えたところに自然の姿が見えてくる。そんなことを僕の心の師匠ロイヤル・ロビンスも自叙伝の中で語っていた。

今思えば、1970年代は、ガストン・レビファーの本も全部読んだな。有名な本は皆さんご存知だと思うが「太陽を迎えに」というエッセイには、僕の山に対する考え方の基本になった部分が多かったです・・・本を読むことは大事ですね(笑)

良い悪いは別にして

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国を治めることは大変なことである。中国に「創業は安し、しかし守成は難し」ということわざのがある。一国の主を目指して覇権を争う。そんなときに国を治めた後のことなど考えが及ばないものだ。しかし、覇権争いに勝利した今、はそんなことをとやかく省みている暇などない。難しいとか簡単だったいうのは過去のことである。今直目している問題は、さらに多大であり難問が山積しているのだ。ここからが本当の勝負である・・・ということのようである。やさしいとか難しいとか考えることは批評家や学者の見解にしか過ぎない。政治をつかさどるものは、常に難問と直面しているのである。

北朝鮮の独裁者は亡くなられたようだ。あえて混乱を望むものなど、国の内外問わず、望むものなど居るわけがない。

院政がしかれるとか、政治家や権力者としての質量が問題ではなく、ここにある現実が問題なのだ。政治は決断である。具体的にな方向に舵をとることだ。民衆も何かを感じ、そして新たな希望に満ちあふれれているかもしれない。

草木に水を差すのは摂理だが、人間の思惑に水を指すのは避けたい現実でもある。しかし、社会が成熟してゆくと間違った水を指す人が増えるのも現実である。

途方もなく遠い話

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最近129.1光年先に銀河が発見されたらしいが、どのくらい遠いのか意味がわからない。太陽系を旅たつ2期の探査船ボイジャーは海王星のかなた、地球から150億キロ先を航行しているようだが、光の速さは1光年で9兆4600億キロ進むといわれるが、なんだか途方もなく遠い話で皆目見当がつかない。一説によると、宇宙は地球から380億光年以上も遠くまであり、現在も途方もなく速い速度で膨張を続けているようだ。

僕たちが星と考えているものも、多くの場合は太陽のような恒星が2000~3000億個くらいが星団を形成していて、ひとつの星ではないようだし、それらの銀河が数百以上集まって軍団を形成している場合も多数あるようだ。なんとも宇宙は広すぎて理解しがたい世界である。

それに比べると人間の歴史や進化は急速に膨張しているといっても、宇宙から比べると、あまりに小さな進化や繁栄といえるだろう。

しかし、人間にとってこの進化や文明化は目覚しい。火をおこす技術を持ち合わせてから、どれほどの時間が経過したのか。人類最初の鉱山でも今から8000年前、採掘していたのは火打石だったようだ。

石を積み上げることに文明化を目指した古代人でさえ、古くは1万2000年くらい前だし、エジプトのピラミッド以後の巨石建造物でさえ5000年にも満たないようである。

人類の歴史を考える場合でもその起源を想定する事さえ難しいのに、280億光年はあまりにも壮大な科学の挑戦でもあるといえよう。そんなことを考える科学者はすごいと思う。おそらく現状の科学の進化の速度から考えて、20年先には宇宙や科学の常識と思われた概念や法則が、ことごとく塗り替えられそうな勢いである。

しかし、人間が本質的に求めているものは、科学の進化や人間のみの利益や繁栄ともいえないような気がする。それは自然界の秩序とか宇宙の原理原則を、いかに科学が発展しても超えることは決してない、という事実を誤認してならない。もし、そう考えるなら人類の単なる自己過信かおごり西か過ぎない。

私たちの見えないところで、確実にすべての存在は進化し、変態し、持続可能性に向けて、さまざまな試行錯誤を繰り返しているのだ。

クライミングというスポーツも欧米では、単なるスポーツと考えルールにしたがって登る人は、あくまでスポーツクライミングに領域にしか過ぎず、多くの人は自然の法則にしたがって、クライミングを楽しんでいるようだ。

今ここに一冊の本がある。[haw to climbing 5.12](エリック・j・ホスト著) P1000103.JPG どうやらアメリカの大学の教科書にも認定されている書物であるが、いかにして5.12を攻略するのか・・ではなく、誰でも到達できるスキルですよ・・と優しく語る。しかし、それは決してやさしくはない。継続しなければ何も生まれないし、読むだけでは何も身につかない。yes,you can climmbing  に始まり honing your skills ・・・spして welcome to conditioning ・・・さらに winning the head games  そして、and beyond  にいたる。わりと平坦(簡単な英語)で書かれているので、読んでみると良いかもしれない。

科学的な根拠を用いて、楽しく語る作者の人柄がうかがえる良い本である。単なるスポーツとしてのクライミングと取り上げていないところが良い・・と僕は思ったのだが、英語力のなさがそう思わせてのかもしれない(笑)

クリスマスの約束

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会社が始まった2001年から毎年欠かさず見ている歌番組がある。小田和正の「クリスマスの約束」である。会社が始まった、という縁なのか、たまたま12月25日は一人ぼっちのクリスマスなのだからか・・一人で毎年欠かさず見ていて、いい年して小田和正にはまっている自分が、妙に可愛く思えてくるのが不思議である。縁とは関係ないのだが、イチローが大リーグに挑戦したのも2001年である。日本にいる時よりイチローの一挙手には注目し続けた10年でもある。

2001年といば9.11である。開業準備に追われて気を失うくらい、昼夜となく壁を作っていた矢先の事件は衝撃的であった。ちょうど開店1ヶ月前の・・・なんとも忘れられない2001年でもあった。

今年のクリスマスに約束を見るかどうかはわからない。「もう、卒業かな?」って気もするし、見ようと思う気持ちも僕の中で薄らいでいる。それよりも、12月24日は父の命日である。2006年に亡くなって5年目である。やはり一人で父を考える日にしたい。それこそが、僕にとっての「クリスマスの約束」みたいな感じである。

今年の12月25日は日曜日でもある。今年は鶏肉の丸焼きとケーキでお客さんや生徒の労に報いたいと思う。

さらに、今年の12月25日は、ボデイケアの年内最後の日でもある。すでに4人の予約が入っているが、今年最後の「自分へのご褒美に」ボデイケアはいかがなものか?

年の瀬に向けて、どこにも慌しさを感じないのは、僕の仕事のせいなのだろうか? どことなく来年はという熱気が伝わってこない。

しかし、自分には熱気を感じる。これはすごいことだと自分でも不思議に思う。

雨は、ただ一人に降るものではない・・とは米国の詩人ロングフエローの言葉である。やまない雨もなく、吹かない風はない。試練はむしろ人生の道標と考えると、3.11は僕たちが進むべき道標を与えられたのだと思い直して、これから更なる試練が訪れようとも、もっと前向きに、人生とか運命というものと向き合える自分を模索したいと考えている。

  久しぶりに、考えがまとまった(笑)

 

政治より酒

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さまざまな物議をかもし出しながらも、彼の芸には卓越した姿が見えた。それはジョブスにも似たところを感じる。個人的には,その毒舌と責任のないかのような言動には眉をひそめる部分も多かったのだが、彼の歩んできた人生そのものが芸への修行だったのかもしれない。彼のすべての行い・・それは所業というがあまりにも無常観も同時に感じるのは、私だけではあるまい。

優れた人は優れた足跡を残してこの世を立ち去るのか・・・

惜しまれる・・というより、鮮やかに生きた・・・結果なのかもしれない。

とかく人間は理性で「善か悪か」もしくは「正義か否か」を思考や判断のものさしにするが、業自体を生き方のものさしにはしないものだ。すなわち罪の意識や悪の行いは悔い改めるか、リセットしたくなるものだが、彼は、生き方すべてを、そのまま飲み込んだ人生を送ったように感じる。古典を悪魔に変える・・そんな彼の所業は落語をあたらな方向に導いたのかも知れない。

真の芸術とは、生きている間には評価されにくいものなのかもしれない。金銭的な豊かさ、言葉を変えるなら経済力というものさしが人生の成功者というラベルに相当するのであろうか?

それは科学や産業にもいえることではないのだろうか

かつてヘンリー・フォードは自叙伝ののなかで「人生は常に安住にあらずして旅路のごときなり」と書いてた。必要に駆られ、自分の欲望によって得られた王国に安住する。それは成功なのだろうかと、自らに問いただして見たのだった。

芸とは観客の支持によって到達できる地位ではなく、自らの芸があるから観客は支持するのだ・・とは彼の言葉であったようにも思う。

They love not poison that do poison need,
Nor do I thee: though I did wish him dead,
I hate the murderer, love him murdered.

毒を必要とする者も、毒を愛しはせぬ。
俺も貴様を愛さぬ。
たしかに俺は彼の死を望んだが、
いまは暗殺者を憎み、犠牲者を憐れむ。

これはシエークスピアの言葉である。彼の毒は、落語を愛する人にも、愛さぬ人にも、死にてなお愛されるのかもしれない。

また、

All's well that ends well: still the fine's the crown;
Whate'er the course, the end is the renown.

同じく、シエークスピアの言葉である、どちらも「リチャード2世」の言葉であったと思うのだが・・・・確かな記憶ではない。



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