大学時代の同級生がブログを始めたようだ(前からかな?)http://ameblo.jp/gm-take-y。なかなかのイケメンでとても山登りなんてするようには見えなかったのだが、センスは一流であった。彼は心理学を専攻していて、僕は良く実験台になっていた。特に女性心理には長けていたようで・・・僕はいつも嫉妬していた(笑)。Yに言わせると「お前の反応は普通と違う」とまるで奇人変人扱いなのであるが、今思うと、当たっているような気がする。僕たちは大学時代、いろんな意味でライバルであった。それは登山においては海外遠征にメンバーになるのかならないか、国内登攀では、岩壁登攀のメンバーになるのかならないのか、いつも仲間でありながらしのぎを削っていたようにも思うが、その中で僕は、正直言って「すこし遅れていた」ように思う。言い方を替えれば「実力が無いのに、彼らと世界を目指していた」のである。
彼はその中で一番女性に持てていたように思う。女性というか誰の彼女が一番綺麗か・・をも競っていたようでもある。それは僕だけの考える妄想だったのかも知れないが・・・。
彼は普通に会社に就職したのだが、僕も含めて、4人は頭の中が海外登山であふれていた。僕は彼女との今後を捨てる事を決意して、就職もせず。山登りにまい進していた。
いいやそうではない。山登りをやめて彼女との結婚生活にふみ切れない自分を感じていたのだ。それは遣り残している何かを捨てるには「まだ若い」と感じていたのか「彼女は待ってくれる」と自負していたのか。相当な過信が自分の中で渦巻いていたのであった。
夢のステージは、前人未到、あるいは世界初であった。誰もなしえなかった事を人類としてはじめて経験する・・・そんな夢にあこがれて、自分を見失っていた時期でもあった。20代の前半とはそんな時代だったのである。
彼は1年間に150日も山にこもった、と書いていたが、確かに僕も上高地での滞在日数だけでも、年間50日くらいを経験していた。
あれは、大学3年の夏の事だった。山から下りてこない彼女が、上高地に尋ねてきた。テントと寝袋しかない小梨平で、僕たちは、たった一度の熱い夏と熱い夜を経験した・・・ありあわせのもので、夕食を作り、野営用のキャンドルを1本たてて、彼女の21歳の誕生日をそこで過ごした。本当はその日は、クラブには内緒で明神岳の永遠の課題、菱形岩壁を登る予定であったのだが、僕の情熱は彼女に注がれてしまったのである。山に登る・・と言う情熱より彼女のほうが素敵だったである。しかし、それが最初で最後の選択であった。23歳の彼女の誕生日は、ヒマラヤに向かう飛行機の中であった。
テープレコーダーに「帰ってきたら結婚してください」と言う言葉を残して、僕は(すこし大げさだが)死を覚悟して、彼女との決別をも同時に考えていたのであった。
ある人が言った「最高の人に思いでだけを遺す事は、最高の罪である」スタンダールだったか?誰だったかは覚えていない。僕は行動の美学に酔いしれていたのであった。彼女はいった「私は女、あなたの中で私は誰なの・・私は鏡の向こう側にいるあなたを愛する事はできない」と言っていた。その言葉の意味を考えながら、僕はヒマラヤに向かう飛行機の中で「スターウオーズ」の映画に浸っていた。
その半年前くらいの事である。ヒマラヤ遠征の準備に多忙な中、彼女が札幌から尋ねてきた。僕たちはいわゆる遠距離恋愛をしていたのである。遠視の準備を2日間休む事は至難の業であったが、何とか休みを頂いて、なぜか犬山モンキーパークへデートにいった。猿の行動派クライミングの動作に大きな影響力があると勝手に考えていた自分は、モンキーパークを含めて動物園のサル山は研究所みたいな感覚で通っていたのである。それは今も同じなのかもしれない。
「え~猿の行動を見に行くの?」と彼女が言ったかどうかは覚えていないが、いつもより臭かったことは鮮明に覚えている。
その夜、僕たちは宿泊先のホテルに向かったのだが、名古屋駅の地下街ルミネ?でばったりT川と遭遇して、3人で飲みに行く事になってしまった。彼は覚えていない・・と言うが、他人の恋路を阻むセンスも卓越していたように思う。
そんな彼女の55回目の誕生日がもうすぐそこにくる。あれから22年、どんな素敵なおばさんになっているのか僕には見当が付かないが、思いでのシーンでは23歳のままである。偶然にも、そんな彼女とのツーショット写真が見つかったが、あの時の僕は「若かった」それは単なる年齢の事ではない。
熱い思いは、重い現実に突き刺さった。単に彼女への思いではない。多くのプロジエクトを抱えたヒマラヤ遠征は登山活動以外は成功したが・・・肝心の未踏の尾根は悪魔のように僕たちの前に立ちふさがった。
「ヒマラヤに賭ける橋」という2時間のドキュメント番組も45分に短縮された。そして、個人的には彼女との交信も途絶えた。そんな青春時代の思い出である。この話には5年後のエピソードもあるのだが、今回はこのくらいにしておく。
夢への階段の途上には様々な曲折がある。自らを歴史に残したい・・という野望のために僕は実力も備わらないままヒマラヤの未踏を目指していたようにも思う。いろんな意味で1980年頃までの自分は熱かった。
その熱い思いは今でも重くのしかかる。しかし、僕は夢をあきらめたわけではない
一蓮托生と言う言葉があるが、夢の続きは、教え子である若者に、静かに譲りたい。夢は夢のままではつまらないのだ。1994年にエベレストの南稜にチームで挑んだ時、大学時代からの夢はついえた。その次の夢へ・・・そこからロッククラフトは始まったのかもしれない。
しかし、32年の空白を埋める現実ひは踏み込めない自分も居る。夢は夢のままでよい・・のかもしれない。
しかし、ナデシコジャパンではないが「夢の頂点へ」そんな夢もあるのかもしれない・・・とT川のブログを詠みながら、青春に浸っている自分がかわいいのである(笑)


向井読んだぞ!!