2011年7月アーカイブ

つくばに行ってきた

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今日はつくばスポーレにオンサイトの練習に行ってきた。いつもならリード壁は貸切状態だったけど、今日はJOCを目指す中学生~高校生が多数練習に来ていた、といってもほとんどが顔見知りである。その中でも東京のK弥クンには驚かされた、まだ中学1年なのに・・素直でセンスの良いクライミングをしていた。将来が楽しみだ(笑)後はほとんどロックか茨城県の選手なので、なんだかわからないくらい、みんなでビレイしあいながら競って登っていた。家の生徒もすこしは上が見えてきたように思う。ほぼ全員オンサイトの限界グレードを「上げられた。また、来週も行こうかな・・。ほぼ5時間登りっぱなしだったのに、6時頃からは、ボルダーセッション盛り上がり。7時半頃にスポーレを出たのだが、ロックに到着したら、水曜道場に参加している。なんとも恐ろしいくらいスタミナがアップしている。今日はにぎやかな道場であった。 P1000031.JPG

明日は水曜道場です

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7月27日(水)は恒例の水曜道場です。親ビンがご指導いたしますので、楽しみにしていてください。

僕は国体やJOCに参加する選手をつれて、つくばのスポーレに練習に行きます。ロッククラフトに戻るのは9時を過ぎると思います。スポーレの皆さん、よろしくお願いします。この機会にスポーレに行ってみたいと思う方は、ご遠慮なく、きてください。15mの壁が待っていますよ(笑)

朝はピザ・昼は・・

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女子高生の食欲は凄い、昨夜は花火もしないでクライミングし続けた子もいたようだ。BBQを撤収して、銭湯に行ったのが10時すこし過ぎた頃だったと思うが、フロが長い・・。ほぼ蛍の光が流れる頃までたっぷり湯に遣って、それから、買出し・・朝食はピザとスナックである。昼は焼肉と豪快である。意外と・・というか予定通り、散らかしッぱなしで、衣服が無残に産卵している。家の娘に限らず、片付けはできないのが今の女子高校生のスタンダードなのだ。「自分の着た物くらいは片付けろ」と言いたいところだが・・・4人も高校生が居ると、凄まじい乱雑さである。彼女にはなれても、妻になれる気配を感じない。「こてでいいのか日本ナデシコ」と考えてしまうのは僕が親父だからなのかな~

どの娘も朝の準備はスローモーションで、片付けているのか、散乱させているのか見当が付かない。しかし、歯磨きと髪の毛、お顔のメイクは入念である。昨年も夏休みは毎週娘の友達が泊まりに着ていたが、会社に泊まると凄い事になる事がわかったので、やはり自宅に泊めようかと思うのだが、「来週も泊まっていいか・」・と娘たちが会社での合宿(宿泊)がお気に入りのようである。まかないをする僕のことは、使用人くらいにしか考えていないのか????

昨日のBBQのゴミの処理は一部外の放置してしまったので、朝には凄い事になっていた。失敗しないようにと、においのするものは中にしまったつもりだったが、一袋外に置きっぱなしだったのが大誤算であった。色々ある・・・。つかれた~

今夜は女子会?

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今夜は娘の友達が6人くらい来て、BBQと花火を楽しもうという女子会ですが、自称女子高生を名乗る、3歳の女子から55歳の親父まで参加して総勢は15人を超えそうです。なんとも凄い女子会になりそうです。僕は保護者として一人寂しくビールでも飲んでいようかな~と思っていたのですが、だいぶ趣きが変わってきました。楽しくなりそうです。

たぶん明日は、二日酔いかもしれません。

また、今週の水曜日は出稽古です。つくばに行きます。午後2時くらいから7時頃までがんばるつもりです。また、水曜日は親ビン店長のクライミング道場です。8時半頃から始まりますので、初心者の方もお気軽にご参加くださいね。

スイカ割と花火・・

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今日は夏休み初日とあって、夕涼み会を内々で行ったが意外と参加者が多くてびっくりした。小学生以下(3歳から)のクラスの練習は、こんな風に淡々とはじまったが、気が付いたら「先生、花火は何時から・・」と6時前から子供たちはそわそわ、がやがや・・気が付いたらジムの中は空っぽで、外の壁にへばりついて、夜を待ち望んでいる様子である。

淡々とはじまった横移動の風景 P1000027.JPG 待ちきれずに夕暮れを待つ子供たち P1000028.JPG、そして、こんなに盛り上がるとは思わなかったスイカ割り・・ P1000030.JPG・夜の花火大会は高校生の練習があって写真は取れなかった。こんな子供たちがJOCやユース選手権に参加するようになるまで、後10年はかかりそう、なんとも長い話である。

24日(日)は高校2年生女子による「17歳の女子会」BBQと花火大会がある。我こそは女子高生と思われる方は、ご参加ください。参加費は1000円です?

そういえば、今日は消防の査察があって午前中はすこし緊張していたロック先生であった。っそこへ、日本語がほとんどしゃべれない、アメリカ人とイギリス人が飛び込んできて、一気に気持ちが和んでしまった。久々に英会話を堪能させられたが、何とか通じるものだ(笑)。来店したお客さんも「先生、英語が話せるんだ」と驚きの眼であるが「イエス・アイ・キャン」と粋がって見たが・・楽しい2時間であった。夜は自閉症のT君が来て、カウンセリングに大変だった、といっても母親のカウンセリングである。Tクンには、過去も未来もない、そこには今しかないのだ。なんとなく文明に毒された現代人の哀歓を感じずには折れなかった自分が歯がゆい・・・

そこに芝があったから

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女子サッカーの歴史は浅い。1960年代に、神戸女学院の庭が芝だったので、T先生が女性とにサッカーを教えたのがはじまり・・と言う説がある。確かに1967年に神戸ではじめて神前大会が行われたのがその歴史の始まりのようだ。「なぜ女子にサッカーを教えようと思ったのか」の問いに「そこに芝があったから」と答えたという。その頃は芝は立ち入り禁止が常識であった。さぞ批判された事だろう。登録選手は1万人に満たない。勝たなくてはならない使命感などない、ただ、自分たちの夢を追う・・そんな精神が常夏のドイツにナデシコの花を咲かせた。ナデシコの花は品種が多い多すぎて整理することができないくらいである。大和撫子、日本女性も個性はある、一概に清楚で凛とした控えめな女性像を描けない歴史がここから始まるのかもしれない。

一方、アメリカでは1913年に女子さっかーの歴史は始まっている。現在150万人以上の選手が登録され、アメリカで、もっとも盛んな女子スポーツであることを知る人は少ない。なんとも皮肉な決勝戦である。アメリカには負けられない理由があるのだ。

僕の娘は昨年からサッカーを始めた、始まりは女子マネージャーである。まるでサッカー歴史に似ている。日本サッカーの女子選手もはじまりは、ほとんど女子マネージャーたちであったようだ。しかし、深夜に一喜一憂する僕とは違い、娘はなんの関心も示さない。しいて関心ごとは,自分と同じくらいゴールキックをけるキーパーのキック力に「私と同じくらいしかけらないね」と厳しい発言。言葉を変えるなら、娘のキック力はワールドクラスと言うことだが、彼女の興味は明日の公式戦でエラーをしないか・・である。

そういえば、今から4年前、娘は中学に入るなり「ソフト部に入る」といって僕を驚かせた「え、何で」と聞くと「3年間補欠で居られそうだから」という、僕には意味が解らなかった。身長162センチ体重67キロ、握力左右ともほぼ40キロ、それが中学1年の娘の事情であった。日本は女子ソフトボールブームであったが、娘は無関心であった。1年生の夏のことである「お父さん、バッテイングセンターに連れて行って」と言うので、待ってましたとばかりに、つれてゆく、「何で当たるの」と僕のバッテイングを見ているのだが、娘のバッテイングの僕は目を疑った、当たると、唸りを上げてボールは砕け散るように、ホームランになる・・。目を疑った。それからしばらくして娘は落ち込んでいた。練習試合につれてゆくと「4番でライトであった」娘の3年間補欠の夢が崩れた瞬間であった。父親である僕は「彼女の長打力を買われたんだ」と喜んだのだが・・・。それから娘の不幸は続いた。中学の部活の練習以外に高校生との合同練習。ソフトボール連盟の強化練習が重なって、ドロだらけのユニフオームのまま布団に倒れるように眠っている娘を、僕は、夜な夜な見守った。洗濯も大変だった。

半年が過ぎる頃、ある大会で2試合で5ホームランを記録した。中学1年生の娘の長打力は高校生を混ぜても栃木県で1番という噂が飛んでいた。「このままだと、10年後には全日本の4番を打っているかもしれない」という話を連盟の方から聞いた。娘は「ソフトはつまらない・・」とやる気をなくしてしまった。補欠希望が・・・期待の大きさに娘の心は折れたのである。ジャパンが北京で金メダルに湧いていたが、娘はなにも感心を示さなかった。。

昨年、高校に入学するとそこはソフトボールの名門高校であった、昨年のインターハイは全国準優勝。しかし娘は「ソフトはしない。サッカー部の女子マネージャーになる」というやはり選手にはなりたくないのだ。しかし、1年の夏休みに、たまたま転がってきたボールを蹴ったら、ボールが保護ネットを越えて校舎に当たってしまったのだ。顧問の先生はそのキック力に驚き、選手になる事を進めたが、本人は拒否・・・だが、流れに流されてGKをしている。やせる・・と言う成果はまったく現れてこない「何故なの」と本人は嘆くのだ。

僕がサッカーをしていた頃は、そこには芝が無かった。本の30年前まで、芝のグラウンドでサッカーをしていたのは、一部のエリートたちであったのだ。エリートが全日本代表だったのかはわからないが・・・

ちなみの、僕がロッククライミングをしたかったのは「そこには山らしい山が無く、当然岩山など、書物でしか見たことの無い憧れの山だったから」なのかもしれない。最初の本番の岩登りは500mの岩壁だったかな?  こんなに長い岩壁ではあったが、素敵な経験だった。

 

ナデシコJAPANは凄い

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まさか・・と重いながら早朝に彼女たちの試合を見た。「メダルを狙う」とい意気込みの元、走るは走るわ、ダイレクトでのパス回しは、屈強にも貪欲にも見えた。意気込みが伝わってくる。しかし、僕の目線は冷ややかであった。「健闘むなしく・・」と散りゆく事を僅かに期待していた・・と言うか、勝つことを願いはしても、現実になるとは考えて居なかった。ドイツからもぎ取った1点は正に値千金。試合終了の笛が鳴っても「信じられない」問い思いが強かった。準決勝のスウェーデン戦は、沢のミスからの失点で幕は開かれた。「やっぱり・・」と思う自分がいた「夢は夢のままで終わる・・」という思いが強かったが、同点??「嘘でしょう」と言う感じで、寝ることも忘れて、心ははらはらドキドキである。まるでドーハの悲劇を想定捨ているかのような自分が腹立たしかったが、後半に2年を加え、しかもボールを支配し続けているナデシコJAPANは素敵だった。18日の決勝は「奇跡を願う」思いであるが、アメリカは強い。女子サッカー人口は150万人を超える・・と言う説がある。世界最多の競技人口を抱えている。果たして日本女子のサッカー人口は何人居るのだろうか?家の娘も女子サッカー部であるが・・・

彼女たちの生活に金銭的な保証は少ない。沢の年収は360万、その他ドイツのプロリーグに参加している選手には200万円の支援金があるというが、年収は150万円くらいのつつましく清楚な生活をしている事が伺われる。彼女たちは名誉のために。。あるいは夢のためにサッカーに青春を賭けている。しかも凛としていて、そこには経済的苦悩は微塵も感じられ無い。正に大和撫子である。

予断であるが、ナデシコとは花の名前である。しかし女性や子供を褒めるという意味でも使われている。日本語の懐は深い。万葉集では秋の季語として使われているのだが、平安時代になると、園芸が盛んになってきてナデシコを「常夏」といったり燃したようだ。夏に燃える思いを、ナデシコと熱い夏にかけているようにも思われる。その頃からかナデシコは男子が考える撫子から、ひらがなの「なでしこ」に変貌してゆく、女性の間に広がる、なでしこは常に夏のように情熱的な意味と男性からの自立をいみする言葉になってゆくような気がする。枕草子にもナデシコの花は出没する。花といえば、桜か菊・・しかし、ナデシコも庶民の園芸の対象になってゆくのである。

ナデシコの花が、大衆化したのは江戸中期頃という説もあるが、日本固有の女性観としての「大和撫子」という言葉の意味にも1500年以上の歴史観があるようだ。

清楚であるが凛とた日本女性・・それが大和撫子の本来の意味だとすれば、ナデシコJAPANは日本固有の意味とはすこし違うような気もするが、いかがなものか?

力強くあきらめる事なく、一つごとに専念する。そんな現代の新たな女性像がナデシコJAPANから想像されるのだが、いかがなものか。男子が押し付けた理想の女性像としての大和撫子から今の日本女子サッカーは自立して輝いて居るようにも思われる。

ナデシコJAPAN 常夏にナデシコの花輝く・・そんな瞬間を共有したいと思う。 250px-Dianthus_superbus_5.jpg

思い出の一枚

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それは今から34年前の事である。これは、僕が山登りにはまっていた頃の写真であるが、突然アルバムの中から現れた懐かしい写真である。最近「ツンデレ」という日本語があるらしいが、彼女の前では完全に「デレデレ」であった。場所は上高地の小梨平キャンプ場である。僕たち山岳部はほぼ2ヶ月近くも、そこでキャンプ生活を行っていた。彼女の21歳の誕生日を二人で祝った時の写真である。当時のカメラは、このくらいブレていても普通であったが、最近はぶれるとクレームの対象になるのか?

当時はフオークソングが流行り、スキーが上手だとモテた。「モテル」と言う言葉の意味が現代語とは違うのかもしれないが、更に山岳部で、上高地生活をしている登山家に卵・・となると、東京や関西圏などから女子大生が僕たちのキャンプを訪れて、感動の1日を送る人もぴた。夜には焚き火を囲んで歌を歌う。僕は1000曲くらいは譜面無しで歌えた。当然ギターを弾いてで・・自分で作詞作曲した歌も100曲くらいあったのだが、今では、思い出の重さに、おぼれてしまっている(笑)

たった1本のキャンドルを頼りに永遠と思える夜がそこにあった

それから・・僕たちが何を重ねたかは・・秘密である 24.JPG

大学時代の同級生がブログを始めたようだ(前からかな?)http://ameblo.jp/gm-take-y。なかなかのイケメンでとても山登りなんてするようには見えなかったのだが、センスは一流であった。彼は心理学を専攻していて、僕は良く実験台になっていた。特に女性心理には長けていたようで・・・僕はいつも嫉妬していた(笑)。Yに言わせると「お前の反応は普通と違う」とまるで奇人変人扱いなのであるが、今思うと、当たっているような気がする。僕たちは大学時代、いろんな意味でライバルであった。それは登山においては海外遠征にメンバーになるのかならないか、国内登攀では、岩壁登攀のメンバーになるのかならないのか、いつも仲間でありながらしのぎを削っていたようにも思うが、その中で僕は、正直言って「すこし遅れていた」ように思う。言い方を替えれば「実力が無いのに、彼らと世界を目指していた」のである。

彼はその中で一番女性に持てていたように思う。女性というか誰の彼女が一番綺麗か・・をも競っていたようでもある。それは僕だけの考える妄想だったのかも知れないが・・・。

彼は普通に会社に就職したのだが、僕も含めて、4人は頭の中が海外登山であふれていた。僕は彼女との今後を捨てる事を決意して、就職もせず。山登りにまい進していた。

いいやそうではない。山登りをやめて彼女との結婚生活にふみ切れない自分を感じていたのだ。それは遣り残している何かを捨てるには「まだ若い」と感じていたのか「彼女は待ってくれる」と自負していたのか。相当な過信が自分の中で渦巻いていたのであった。

夢のステージは、前人未到、あるいは世界初であった。誰もなしえなかった事を人類としてはじめて経験する・・・そんな夢にあこがれて、自分を見失っていた時期でもあった。20代の前半とはそんな時代だったのである。

彼は1年間に150日も山にこもった、と書いていたが、確かに僕も上高地での滞在日数だけでも、年間50日くらいを経験していた。

あれは、大学3年の夏の事だった。山から下りてこない彼女が、上高地に尋ねてきた。テントと寝袋しかない小梨平で、僕たちは、たった一度の熱い夏と熱い夜を経験した・・・ありあわせのもので、夕食を作り、野営用のキャンドルを1本たてて、彼女の21歳の誕生日をそこで過ごした。本当はその日は、クラブには内緒で明神岳の永遠の課題、菱形岩壁を登る予定であったのだが、僕の情熱は彼女に注がれてしまったのである。山に登る・・と言う情熱より彼女のほうが素敵だったである。しかし、それが最初で最後の選択であった。23歳の彼女の誕生日は、ヒマラヤに向かう飛行機の中であった。

テープレコーダーに「帰ってきたら結婚してください」と言う言葉を残して、僕は(すこし大げさだが)死を覚悟して、彼女との決別をも同時に考えていたのであった。

ある人が言った「最高の人に思いでだけを遺す事は、最高の罪である」スタンダールだったか?誰だったかは覚えていない。僕は行動の美学に酔いしれていたのであった。彼女はいった「私は女、あなたの中で私は誰なの・・私は鏡の向こう側にいるあなたを愛する事はできない」と言っていた。その言葉の意味を考えながら、僕はヒマラヤに向かう飛行機の中で「スターウオーズ」の映画に浸っていた。

その半年前くらいの事である。ヒマラヤ遠征の準備に多忙な中、彼女が札幌から尋ねてきた。僕たちはいわゆる遠距離恋愛をしていたのである。遠視の準備を2日間休む事は至難の業であったが、何とか休みを頂いて、なぜか犬山モンキーパークへデートにいった。猿の行動派クライミングの動作に大きな影響力があると勝手に考えていた自分は、モンキーパークを含めて動物園のサル山は研究所みたいな感覚で通っていたのである。それは今も同じなのかもしれない。

「え~猿の行動を見に行くの?」と彼女が言ったかどうかは覚えていないが、いつもより臭かったことは鮮明に覚えている。

その夜、僕たちは宿泊先のホテルに向かったのだが、名古屋駅の地下街ルミネ?でばったりT川と遭遇して、3人で飲みに行く事になってしまった。彼は覚えていない・・と言うが、他人の恋路を阻むセンスも卓越していたように思う。

そんな彼女の55回目の誕生日がもうすぐそこにくる。あれから22年、どんな素敵なおばさんになっているのか僕には見当が付かないが、思いでのシーンでは23歳のままである。偶然にも、そんな彼女とのツーショット写真が見つかったが、あの時の僕は「若かった」それは単なる年齢の事ではない。

熱い思いは、重い現実に突き刺さった。単に彼女への思いではない。多くのプロジエクトを抱えたヒマラヤ遠征は登山活動以外は成功したが・・・肝心の未踏の尾根は悪魔のように僕たちの前に立ちふさがった。

「ヒマラヤに賭ける橋」という2時間のドキュメント番組も45分に短縮された。そして、個人的には彼女との交信も途絶えた。そんな青春時代の思い出である。この話には5年後のエピソードもあるのだが、今回はこのくらいにしておく。

夢への階段の途上には様々な曲折がある。自らを歴史に残したい・・という野望のために僕は実力も備わらないままヒマラヤの未踏を目指していたようにも思う。いろんな意味で1980年頃までの自分は熱かった。

その熱い思いは今でも重くのしかかる。しかし、僕は夢をあきらめたわけではない

一蓮托生と言う言葉があるが、夢の続きは、教え子である若者に、静かに譲りたい。夢は夢のままではつまらないのだ。1994年にエベレストの南稜にチームで挑んだ時、大学時代からの夢はついえた。その次の夢へ・・・そこからロッククラフトは始まったのかもしれない。

しかし、32年の空白を埋める現実ひは踏み込めない自分も居る。夢は夢のままでよい・・のかもしれない。

しかし、ナデシコジャパンではないが「夢の頂点へ」そんな夢もあるのかもしれない・・・とT川のブログを詠みながら、青春に浸っている自分がかわいいのである(笑)

明日は、水曜道場

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毎週水曜日は20:30頃から、水曜クライミング道場があります。初心者からどなたでも参加できます。良かったらご参加ください。担当は親ビン(水曜店長)です。

なお水曜日の営業19:00~23:00ですのでお間違えないようにお願いします

雑談ですが、最近、おかしなところからいろんな以来がある。可笑しくも無いのだが・・とちぎテレビの収録が終わり、ほっとしていたら、本の出版の話が舞い込んできているのだが、自分的にはあんまり乗る気持ちになれない。そうこうしている内に、今日はN:リーグってバラえテイ番組の協力を依頼されたが、バラェテイは僕の趣旨に会わないので断って、有名クライマーを紹介しておいた。ま、僕のキャラならそんなところなのかもしれないが・・・。

そういえば、日曜日の体験教室にTokyo Techの研究室が一クラスで押し寄せてきた。貸切体験教室となったが先生まで一緒に来たのは初めてだった。なかなか楽しいクライミングの授業になった・・と僕は考えているのだが、先生がン¥僕の発言を一箇所訂正した(笑)。しかし「学生たちの脳にたくさんの刺激を頂ありがとうございました。クライミングとユークリッド幾何学に接点があるなんて・・考えた事がありませんでしたが、理解できました。とても楽しかったです」と言われて、僕もほっとした。こんな素敵な体験教室なら、時々はやっても良いかな~と思ったのだった。それにしても、知的な大学は素敵だと、あらためて思った。これからの日本をリードしてもらいたいものだ。

プール開き

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ロッククラフト恒例のプール開きをいたしました。早速子供たちが遊んでいます

子供に帰りたいですね P1000020.JPG

ちょっと嬉しい話

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2020年のオリンピックの候補種目にスポーツクライミングが入ったようである。若い選手には、一つの目標ができそうな気配である。しかし、そんな気配は1992年のリレハンメルオリンピックからあった。会場には人工壁も設置されたのに、結局、なくなってしまったのである。様々な憶測が流れたが、時期が早かったのか、裏に何かがあったのか・・いろんな話を聞いた記憶がよみがえった。純粋なスポーツ競技を目指す選手には申し訳ないが、オリンピックも興行である。様々な利権が絡んでいるようだった。

2016年のオリンピック会場がロンドンではなくパリならクライミングは正式競技になっていた・・と言う話もあった。様々な背景があるようだ。こんな話をJFAが公開するにはかなりの確信があるのかもしれない。ま、楽しみにしたいものだ。

となると、今のユース世代の選手には明るい話題である。となると今年8月のJOCジュニアオリンピックは少年たちの更なる熱い戦いが繰り広げられそうな気もする。彼らが2020年の主役になるからだ。

オリンピックの種目になるなど、僕が現役時代には考えられない事だった。日本ではやっと岩登り競技会と言う形でクライミングがスポーツか否かの激論が交わされていたいた時代だったからだ(1970年後半)。もっと言わせてもらうと、クライミングのスポーツ化と言う話を持ち出しただけで、大先輩たちにしかられてしまった時代であった。大学を卒業して海外遠征もひと段落した1982年にスポーツクライミングスクールを設立することになるのだが、それはかなり困難の時代でもあった。まず、クライミングシューズが手に入りにくい。スポーツクライミング用のクライミングベルト、チョークバック、クイックドロウなど、基本的な用具もほとんど、アルパインクライミングの簡易用品で代用しなければならないしだいであった。

例えば、ベルトは当時10000円以上、シューズは30000円くらい。ロープは40000円くらいもしていた。当然、クライミングジムなど何処にも無い。お城の石垣跡などで、深夜に練習する・・と言う日々がそこにあったのである。「フリークライミングスクールを行うには用具の開発が必要だ」とは当時の講師であったH氏の見解であった。僕には腹案があったので、それらをことごとく商品化していったのである。僕には若さとアイデアがあふれていた時代であった。イレブンハーネスというスポーツクライミングの専用ハーネスを開発し、チョークバックも作ったら、年間1000セットも売れたのである。今で言うカムロックやナットのセットも、年間300セットくらい売れた。ザイル(クライミングロープ)も4000本以上売れたし、カラビナは2万枚も打っていた。1980年代はスポーツにはなっていなかったが、フリークライミングの全盛時代であったように思う。

その頃の御岳エリアはほとんど貸切であったし、小川山はほとんど未開発の岩峰で僕たちの好奇心を書きたてていたのである。テストストー^ン(練習石)という概念は次第にボルダリングという言葉に置き換えられていったような気もする。

しかし、僕たちの多くはボルダリングには目もくれず、大きな岩壁に目を向けていたのであった。

聖地といわれたヨセミテ国立公園にある岩山は憧れの的であった。そこには500mの5.10bくらいのルートがたくさんあったのである。今でもあるのだろうか?

1980年の初めには、世界の最先端クライマーは5.13を目指していた。一方僕たち日本人の多くは5.10bが相変わらず目標であった。特に神奈川県のクライマーは先鋭的で伊豆や小川山で多くの画期的な成果を上げていたように思う。僕の友達に一部は、ヒマラヤやヨーロッパのビックウオールをあきらめフリークライミングのルートの開拓で5.11を目指してしのぎを削っていたようでもあった。

あらから30年・・・岩登り競技会はスポーツクライミングとして世界で確立した。2005年くらいの事だったから、僕たちがフリークライミングを手がけてから25年以上は経過していたのだ。

1976年の秋、一人の先輩がフランスからロボット(カムロック)なるクライミング用具を買ってきてくれた。それは意味不明なクライミング用具であったが「これを使って登るのがヨーロッパの主流らしい」という話であった。ハーケンやロックスではなく、カムロックをクラックに引っ掛けてランニングビレイをとるシステムはなかなか僕たちには理解しえない最先端でもあった。

1980年代の後半くらい見なるとフエイスにアンカーボルトを打ち込んで登るスタイルはフリークライミングか否か・・と言う論争が始まったが、双子山のルート開拓をになっていた若き最先端のクライマーたちはそんな論争に見向きもせずに、5.12以上のルート開拓をはじめていた。時代は5.13へと突入しつつあった。そんな最先端のフリークライマーの多くは50代になってしまった。

1990年頃、僕たちのクライミングスクールはあたらな論争をしていた。たった二人でであるが・・「人行為の壁を作る」と言う僕と「人工壁を登るのはフリークライミングではない」というH氏との見解の相違である。僕は彼の了解を得られなくても作ろうと考えていた。

そんな矢先「H氏と奥さんが大会で優勝して、世界大会への参加が決まった」と誰かから聞いた。本人は「本意ではないが、プロとして止むを得ない決断だった」とコンペに参加したいきさつを語った。彼は不本意といったが、僕は「彼がスポーツとしてのクライミングを受け入れてくれた」と思い喜んだ。

しかし、それから小さな不幸を僕たちは刻む事になる。・・・・この話はここまでにする。話したくもあり、話したくない・・という複雑な思いがあるからだ。

それから僕は自分の目指すクライミングと、フリークライミング普及のために必要な要素を考え始めた。自分は未踏の8000mのルートを目指す一方、スポーツクライミングの普及・・という相反する要素の中、僕の人生にも様々な変化が現れたのである。10年間続けたクライミングスクールは閉鎖することにした・・・。

1995年、僕の中で大きな変化が生まれた。エベレストという大きな仕事を終えて、自分の限界を知り、友達の勧誘?で僕はスポーツクライミングの普及のためのシステム作りを始めた。すなわち、自分でやってみようと思い始めたのであった。

まず、H氏に相談にいった。彼は「あのまま引き継いでくれればよかったのに・・でも新たな方法で始めるのは君の運命だ」と断言した。

たった一人の賛同者に僕の心は動いた。

それがここを作るきっかけとなったのだ。ロッククラフトと言う名前はその創業者から借り受けた名前である。創業者とは・・・ヨセミテにフリーのルートを次々に開いたカリスマ、R・R氏である。偶然なのか必然なのか、運命には避けては通れない道があるのだ。

2020年・・。未来は必然性を帯びて現在を導く。ひょっとしたらこの夏のJOCで、その必然性をもった選手が小さな一歩を踏み出すのかもしれない・・と考えると、僕の胸は小さく躍る。

さて、これから忙しい夏が始まる。2020年を見据えて・・・夢の繋がる、平凡な一日を積み重ねていこうと・・思うのだが、生徒というかガキ共は、相変わらず僕を困らせる、天才たちでもある(笑)。

                                  長くなってしまった・

水曜道場

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毎週水曜日はクライミング道場で盛り上がっている。初心者からも無料で参加できる。おおむね9時頃から始まるが、ボルダーだったり、ルート(ロープクライミング)で面白い。水曜日は19時頃~21時までの営業であるが、意外と知らない人も多いようだ。是非、参加してみてはいかがですか?

 

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昨日、高校2年の娘は部活を休んだ。理由は朝寝坊である。3度蹴飛ばしたのに起きなかった責任は僕には無いのだが「何故、起こしてくれなかったの」と文句を言われた。おかげでサッカーの練習はサボって、買い物をしていたらしい。娘の趣味はケーキ作りである。サッカーの練習はサボっても、ケーキ作りはサボらない。スポンジから全部自前で作る。たいしたものたが、ケーキがあんまり好きではない自分には手ごわい娘の趣味である。すなわち、毒見させられるのである(笑)。一昨日は1枚、昨日は2枚、そして今日も1枚のだ。友達の誕生会のケーキを一手に引き受けているのだが・・・ケーキ作りのために、遅刻や部活を休むのは、よろしくない・・・と父は考えている。

ケーキ作りは深夜にも及ぶのだが、深夜に買出しを頼まれる場合も多い。まったく父親をお使い代わりに使うとは、なかなか出来た娘である。

たまたま、深夜にワールドカップサッカーの試合があり「ワールドカップの選手はどのくらいGKをけるのかな~」と言うので「自分で確かめてみたら」と僕は応えた。「あんまり、興味は無いけど、きっと私よりは間違いなく飛ぶんでしょう」と言うので「自分で確かめな」と知らぬ顔をしておいた。更に、たまたま、ニュースに外国の選手がGKを蹴るシーンが流れたら「あれ・・センターまで飛んでいない」と・・・・「ねえ、お父さん、ワールドカップの選手って私より跳ばないんだ」と笑顔の娘、更に自ら「キック力は、ワールドクラスって事か」と自分のキック力の驚くコーチや先輩の理由がやっと飲み込めたみたいだが、キック力の評価より、ケーキのできばえの評価のほうが着になる16歳でもある。

飛ぶ時はセンターサークルを超える・・と言う娘のキック力は、正にワールドクラスではあるのだが、自分のケーキ作りの才能のほうに気持ちが向いている。キック力など自分の評価に値し無い・・とでもいいたがえに、本日のケーキにNGを出す娘は、父にとっては、手ごわくもあり、かわいい娘でもある。

みんなで食べたが、奥様たちはカメラの外に避難しました?・・・ P1000015.JPG

13億人という国家

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ハーバード大学の言語学者が中国内部から検分した中国という国家の印象を伝えた記事をネット上に発見して、楽しく読ませていただいた。その中に

「中国人は、中国語を学ぶ外国人と一緒に学ぼうとしてくれる。忍耐強く、へたくそな中国語を直そうとしてくれる。うまく喋れると一緒に喜んでくれる。中国語というものはきちんと発音しないと彼らにも分からないからだ。一方日本人の方は、間違っていても褒めてくれる。まるで私が間違えるのは当たり前とでも思っているかのように。だからこちらはまごつく。そういったことは中国ではなかった」(www.danwei.org/books/deb_fallowss_dreaming_in_china.php)

と書かれていた。なるほど・・なかなか面白い話である。更に

いつ頃から「Partner」「Partnership」という言葉がパートナー、パートナーシップと訳され始めたのか。日本語ではどのような定義づけになっているのか。パートナーという日本語には友好的で、ポジティブな意味合いしかないように思える。

 だが、Partnerという英語には、「今は仲良しでもいつ手強い敵になる可能性のある相手」という意味がある。著名なアメリカ人の言語学者からそう聞いたことがある。

 この言語学者は、こうも付け加えた。説得力ある説明だった。

 「最近アメリカ人が妻を紹介する時に、私のパートナーです、なんて言うでしょう?今は仲がいいが、夫婦なんか、いつどうなるかわからんからねえ(笑い)」

 Partnershipは、中国語では「戦略的互恵関係」と訳されている。

・・など、言語学者ならではの面白い話がちりばめられている。そういえば、1970年代、フランスの特派員ポール・ボネが「不思議の国ニッポン」なる本を書いていた。日本人の日本語の意味の不可思議さを淡々と書き綴っているのだが、僕にはユーモラスに感じた。

中国人の英語の理解力は、日本人のそれとは違い、かなり的を得ているようでもある。日本人もかぐわしい言葉として自己中心的に翻訳するより、言葉の本質を正しく見につける、知恵がほしいと思う。

中国人が何を考えているのかわからないのではなく、中国人というスタンダードがないという現実に気が付かなければ¥世界を知る事ができまい。

日本人には日本人と言うスタンダードがあるのだろうか?考える必要性を感じる。彼女は言う「中国とは13億人の国家である」と・・・。それは中国人という概念を中国に住む人は考えていない・・という考え方に達したからである。言語学とは意外と根が深い。その昔大野晋の「日本語の起源」と言う本に愕然とした記憶がある。彼は確か東京大学の言語学者であったが、日本語はウラルアルタイ語系ドラビダ語にその起源を持つ・・と言う持論を展開した学者であるが、発想の柔軟性はいつも科学を越えれ居るようにも思われた。更にその昔、梅原猛の「地獄の思想」「隠された十字架」など彼のほとんどの書物を読んだことがあるが、彼の哲学的思想から歴史や人の考える・・といおう過程に対する洞察力には斬新な新しさを多々感じさせられた。今でも時々読み返してみることもあるが・・・。

言語学とは単なる言語にではなく、歴史学でいう風土がもたらす背景がそこにもある。人間とは文化や流行、経済や貧困という問題以外にもたくさんの背景によって築き上げられている性であると考えた歴史学者がいたが彼が考えた歴史のの持つ心理性こそが人間を人間化させる根本なのかもしれない。

彼女は言う「例えば倫理と言う概念や思想においても、中国人の老子に対する志向や考え方と日本人がそれらの本を読んで感じるものとの隔たりは、言語の風土による変性に由来すル・・・と言う考え方から、接近する手法は、僕にとっては斬新で素敵であった」

言語をそのまんまその言語として理解する。それは僕ら凡人には非常に「難しい難題」ではあるが、自分の都合のよう解釈の仕方を排除して、その存在の正義を考える事は、今正に日本人に求められている心性では無いか・・と、僕は考える。

政治が空白を招いているのか?僕たちは政治家を批判するが、中国人にとって政治家は、単に政治と言う仕事をする人で、人民にはなんら関係を持たないものなのである。

久々に深い話を読んだような気がした。

一方、コズミックフロントで今正に行われている現実にも、驚きを感じながら、僕は再び夜を見る。冬の星座オリオンのベテルギウスがやけに赤く感じるのは僕の思い込みなのだろうか?

650光年先の過去に、そこで何が起きていたのか・・・今、天文科学はそれに迫ろうとしている。それは地球時間でははるかな過去であるが、宇宙時間では地球のすぐ隣で起きている現実なのである。その話もいつか、ここに書いてみたいと思うが、とても長くなりそうなので、期待しないで舞っていてくださいね・・・。

7月の実感?

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ついに7月が来た・・・と言う実感は無い。むしろ「すこし熱い」と言う感じで夏?ナのかな・・という不思議な感覚が僕の中にある。先月中に完成を見込んでいた壁の増築も僕の体調不良(あるいはオーバーワーク)で中途半端なまま、おまけに動く壁も不調で、しばらく活動中止である。どこか一進一退を繰り返しているような昨今である。

一方、違う空気もジムの中に吹き込んでいる。それはロープクライミングをする人が増えてきている・・という現象に由来する。あえて困難で複雑なロープワークを習得して、自然の岩の、しかも30m以上の壁にチャレンジしたい・・というお客さんが増えているのである。そこにはいろんな不安定要素がたくさんあるのだが、自然の岩を目指そう・・と言う考え方は良い事である。おかげで僕の指導にも熱が入る。楽しむことと、ロッククライミングの危険意識を持つことは、決して他人行儀な事ではない。危険と安全に対しての認識はあらゆるスポーツにおいて同時に多発する現象でもある。それは野球やサッカーにおいても同じことである。

あえてクライミングが安全なスポーツとはいえないが、スポーツと言う領域でのクライミングと自然に岩を登る・・と言う事は、考え方に大きな違いがある。

今僕が教えなければならないのは、スポーツとしてのクライミングとそうでないクライミングの違いと認識についてであろうか。

クライミングジムが無かった20年前までのクライミングと、ジムで育った人々の認識には大きな隔たりを感じる。それは、どちらが良い悪いという問題ではない。むしろ5.9と言う「グレードが遠かった30年前とは違い、誰でも5.11を練習できる時代の考え方の違いに似ている要でもある。

それは携帯電話が当たり前の世代と、意思を伝える事が、手紙か会話しかなかった時代との差みたいな感じであろう。

そういえば、5年くらい前、日本人としてヨーロッパアルプスの壁を次々に落とした伝説のクライマーと話した時、彼は「向井君、今は岩登りに布団を持ってゆく時代なのかね。布団は寝るときに使うものじゃないのかね」と凄い話に発展してしまった。「安全のためにロープを使う事の是非を考えながら、あえて困難な手段で前人未踏を思い描く。それが登攀者たるクライマーに共通する理念ではなかったのか」「そう考えると今風のクライマーは登攀者としての暗いマートは違う人種であり、ため池で世界を目指してスイミングをした時代とレジャープールで泳ぎも真似をしていることを、同じとはいえないのではないかね」とはたまた厳しいご指摘であった。

最後に彼は「布団(マット)をしくのは、女性に対しての敬意と考えるなら、ボルダーマットは許せる範囲以内なのかもしれない」と、最後に落ちまでつけてくれた。なかなか鋭い、しかも素敵な指摘である。

そういえば「クライミングがスポーツと違うのは、岩をはがさないで登るのか否かである」とは僕の先生の意見であった。石が回転しないように回り止めを打つのはジムスポーツというクライミングである。自然の岩は剥がれるもの、ルートは日々変化するもの、それがクライミングの本質でそれはどんなにクライミングジムが普及しても変わるものではない」とも付け加えてくれた。

なるほど、1960年代に日本合同隊としてヨーロッパアルプスの日本人未踏の岩壁に、何の案内図もなく挑戦した先人たち。そこには見えないルートが心の中で描かれていたようにも思う。今はトポだけではなく、手順、足順、さらには動作選択とそのかたちまで図解されている。

こんなに至れり尽くせる・・のクライミングって、いったいナンなんだろう・・と考えていたら「確かに・・」とやはり70歳代の登攀者が「未知なるがゆえに男の野心を掻き立てるもの、人に成果を評価される事より、自分自身の心に評価を促すのがクライミングではないのか」と熱い目線で僕の語る彼は、インドヒマラヤの未踏峰に挑む。

その山が有名だから・・そのルートが世界一だから・・・という社会的な概念は、彼らには存在しないかのように、彼らは未踏のヒマラヤを目指す。その姿勢にこそ、真のクライミング魂、真の登山思想が見え隠れするのは、僕の思い過ごしであろうか?

スポーツとしての登山、あるいはクライミングには思想など必要としないのかもしれない。しかし、クライミング志す小さなクライマーたちは知っている。その岩を見つめる目は、人工の壁に向かれているのではなく、もっと大きなもの立ち向かおうとしているサムシングを、僕は感じてしまう。

もっとも大切な事は、そこにある数字(グレード)ではなく、その過程に存在する意義ではないのだろうかと、中元に思いを馳せる。

「いいかい、八の字結びで重要な事は、ついでに末端処理をする事ではなく、末端処理こそ重要な結び方なのだよ」と説明する僕のロープワーク講習は、果たしてクライミングの芯を付く話なのか?

様々な思いを乗せて、ロープワークを教える。僕の時代は、先人たちの時代とは違い、ロープは命の綱と教わった。すなわち「ロープを使って登るかのかそうではないのか・・という疑問は持つな」と教わったのである。「ヒマラヤにアルピニズムを持ち込むというより、ヒマラヤにはヒマラヤイズムがあることを考えなさい」とうことである。僕の先生は未だに偉大である。30年前の言葉が未だに僕の心に警笛を打ち鳴らしてやまない。

僕も、後20年くらいクライミングの指導をしていれば、岩の真意を生徒の皆さんに伝える事ができるように慣れるのだろうか?

僕の挑戦はまだまだ続くにである。

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