ある不登校が波紋を広げている。正に皇室ご用達の現場である。何時、どこにでもアルいじめとか暴力という子供たちの世界の話を・・、しかもそれは、宮内庁の中でも見解の相違があり、学校としても見解が違うようだ。このニュースは世界も取り上げているようだが、日本語の翻訳にもさまざまな見解の相違が有りそうだ。
ここで考えたいのは「質としてのいじめ」と「量としてのいじめ」に対するマスコミなどの報道に対する見解の相違でもある。
このような話は「そもそも公式に記者会見するべき問題ではない」なぜなら「波紋が広がってしまう」・・と言う理由からである・・。その通りという見解を述べるマスコミや世論の意見は多いが、よく考えてみると「波紋が広がる」ではなく「波紋を広げている」のはマスコミの報道の仕方ではなのだろうか??
おそらく、このような波紋を招いた責任を誰かが取らされて、うやむやのまま、小さな波紋に大きな反動の予兆を感じてしまうのは、僕の考えすぎなのだろうか
以前にも「報道の理性」とか社会の「理性と狂気」についてコメントを書いたことがあるが、僕も含めて、テレビ報道の「量」に本質とは違う「質」と考えてしまう、メデイァの功罪が存在するような気がする。
難しくもあり、単純でもアルさまざまな問題・・政治的結論を5月に先送りする事と同じように、報道する質と量に翻弄されない自分を見つけるには、困難な時代になったのかもしれない、と、思ったのだった。


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