2010年3月アーカイブ

「まったく、私は子供けど『言ったの言わないの』ってニュースで言ってたけど、大人気ないというか、大人ってああいうものなの」

とは娘の見解である。なんの事かと思いきや、民主党の管さんと国民新党の亀井さんの話である。

「与党連立?って良く解らないけれど、二人は仲間なのそれとも、仲が悪いの?」

「そうだね、同じクラスでも、中が良いとか、悪いとか。あの人とは話が合うとか、逢わないとか・・ってあるよね、そんな感じかな」

「う~ん、ああいうのが水掛け論って言うんだよね。何時まで話し合っていても分かり合えないなら、止めれば良いじゃ~ん」

『確かにね、でも、お互いに政治と言う仕事をしているから、仕事は好き嫌いですまない部分もあるからね」

「大人って、大変だね・・」はどういう意味なのか考え込んでしまった。いずれにしても日本がいかに平和なのかを浮き彫りにしているようで釈然としない。モスクワでは連続地下鉄テロが発生しているようだし。韓国の哨戒船の沈没も、不可思議だ。有事とは「起こりえない状況』である事を前提として考えるのかそうではないのかを、真剣に議論していただきたい。このような水掛け論を政治家という大人が展開すること事態に異変を感じるのは、僕の思い込みなのか?

身の丈

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今日はユース選手権の予選である。12歳以上19歳以下の選手が年代別に日本1を争う大会である。今年の参加者も日本全国から180名以上の選手が集結して暑い戦いを広げているのとだろう。大会のレベルも毎年上がり、女子の予選で5.11c、男子だと予選でも5.12C位で行わないと順位がつけたれないくらいの高難易度での争いだと思う。小学5年生でも5.12をレッドポイントしている子供もいるようだし、大会の参加基準(年齢)を満たしていない世代にも強者がいるようでもある。

しかし、練習での記録がそのまま試合で発揮出来るかと言うと、そうも行かない。なかなか難しい、ロックからも数人出場しているが、なかなか上位進出となると、近年の選手層の厚さを考えると、なかなか難しいと思う。2001年にロッククラフトを開設した当時は小学生のクライミングは珍しい・・というのが現実であったが、今は幼稚園以下の3歳でクライミングを楽しんでいる女の子もいる。小学3年生くらいになると5.10Bあたりは当たり前のように登っているのだが、それでも全国大会となると、まだまだ遠い・・と言うのが現状である。ジュニアスクール開設当時の小学生の難易度の目当てrは5.10Bであったが、最近の感じだと、毎週2回のスクーリングだと、5,11Bくらいのレッドポイントは当たり前という感じでもアル。正直言って5.11bを登れたら名人の境地かと考えていたが、子供たちの潜在力と言うか、身の丈の高さに驚きを感じている。

最近は、特に金曜日であるが、母親たちもクライミングに参戦してきている。子供をつれてきて単なる引率・・ではなく母親たちが子供たちと一緒にクライミングを楽しむようになってきた。ほほえましい光景である。

この流れは、何とか継続して、もっとクライミングも「特殊なスポーツ」ではなく、普通に楽しめるスポーツになると良いのだが・・・まだまだ、日本でのクライミングの身の丈がどこにあるのか、或いは、どこまで伸びるのかは見当が付かない。

僕自身もそうであるが、クライミングが生涯スポーツとして楽しめる・・と言う時代の到来まで、生き抜いてみたいものだ・・と、思う。

身の丈・・といえば、今年から高校の授業料の支援(子供支援法)が国会で通過したようだ。「とりあえず高校まで・・」という考え方が支配的だが、自分の身の丈にあった教育を受ける・・という考え方とは程遠いような気もする。

勝敗よりもクライミングや人生に立ち向かう自分自身の身の丈を知る事を、ここで「培う事ができたなら」僕は幸せだと思う。普通に生きるのが人間以外の生物の生き方であるが、どうも人間は何時からなのか、自分の身の丈を過剰評価しているようにも思う。

自分の身の丈の可能性と限界を知る。それがクライミングというスポーツの指名なのかもしれない・・と、思った。

 

4月から私立高校への入学学待った、親孝行な娘(皮肉)である。今月は入学金などの手配で頭が混乱している。無理して笑っているが内心は僕のほうがはらはらである。追い討ちをかけるように車もエンジンが壊れてしまって配車にした。で、格安の軽自動車を買った。とはいえ思わぬ出費に頭が痛い。

なぜか毎週水曜日にさまざまなイベント(娘の入学などの)があり当分は休みがなさそうだ。

オリエンテーリングで子供手当ての件出の話があり、授業料の内9900円が減額されるようだが、我が家の家計にはうれしい政策であるが、日本全体で考えると、なんとも言いがたい。校長先生の挨拶では「私立不毛の時代」とか「少子化」とか学校経営には厳しい時代だという話ばかりが耳に残っている。高校のアル足利までは電車で40分くらいで、僕の高校時代の通学時間とはあまり代わりがない。ただ、驚いたのは、駅前などが閑散として何もない。喫茶店も外食レストランも・・唯一魚屋さんが1件開店の準備をしていた。こんなに景気が悪いのか?シャッターが閉まっていて貸し店舗の看板ばかりが目に付いた。

オリエンテーションでは子供たちが緊張しているようでもあったが、見慣れた顔もたくさんあった。ロックの生徒や元生徒も数人いたし、娘の同級生も10人くらいいた。何とか楽しい高校生活を送ってほしいと思う。

そんなこんなで昨日の休日はつぶれてしまった。来週の水曜日は卒業旅行で僕が那須ハイランドパークに娘の友達を送迎するのだが、車が軽自動車になったので、8人は乗れなくなった。誰か僕と一緒にハイランドパークに車を出してくれる人を募集したい(笑う)

来月になると長男、次男の大学の授業料が200万円弱かかる!

後数年を乗りきれば、何とかなりそう・・な気がするが、とにかく今は授業料の出費がいた過ぎる。正直言って」「笑えないのである。

そんなおやの心境を知ってかしらずか、子供たちは平和の日本を楽しんでいるのである。子供の成長は楽しいが、なんとも言いがたいのが僕の心境でもある。

私もカモメ

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人間が「空を飛びたい」と考えたのは何時の時代からの夢だったのだろうか?そう考えたときレオナルド・ダ・ビンチのあるデッサンを思い浮かべてしまう。それは人間の究極の夢だったのかもしれない。そんな夢を描いた二人の青年が飛行機を発明してから100年が過ぎた。当時、世界の科学者は「エンジン付きの飛行機など200年研究しても不可能」と断言していたという。人間はやっとの思いで自動車を手に入れたばかりで逢ったから」なのかもしれないし、彼らが自転車屋さんであったと言う背景もあったのかもしれない。誰もが「空を飛ぶことなど不可能」と考えていたのはほんの100年前の事である。

まして人間が鳥のように自由に羽を操作して空を滑空するなど、ほんの20年前には、御伽噺のような出来事だったのかもしれない。僕も1986年ころ、そんなスポーツに挑戦した事があった。それはすごくエネルギーのいる挑戦でもあった。

「これはロッククライミング以上の人間の夢なのかもしれない」僅かに空に浮かんだ瞬間は今でも忘れられない出来事であった。

それから20年、人間の「空を飛ぶ」という夢は確実に進歩しているようだ。同じように「素手で岩を登る」という夢も。少しは日常的になってきているのかもしれない。

「私はかもめ」とは初めて宇宙飛行をしたロシア(旧ソ連)の宇宙飛行士テレシコワの宇宙からの最初の交信であった。

時の流行語のもなった有名な言葉でもあるのだが、彼女は歴史に格言を残そうと考えて最初の交信にその言葉を用いたのではない。カモメとは彼女のコールサインであったのだ。1963年6月16日の事である。

宇宙と言うわけではないが、彼女も「私もカモメになりたい」と空を飛んだのかは解らない。人間の夢である「空を飛ぶ」という冒険は意外と近くに存在する。宇都宮スカイパークの指導者水沼典子さんhttp://www.skypark.ne.jp/05scl/06meet.htmlも空を飛ぶ夢を追いかけている。

パラグライダーというスカイスポーツにも世界選手権やワールドカップがあり今年は日本でもワールドカップが開催される。おそらく彼女は世界1を目指しているのだと、僕は勝手に想像する。

人間も時に夢を描く、空を飛ぶ・・という行為は、今は決して夢ではない。初心者でも簡単に空を飛ぶ体験が出来るのである。初心者体験コースhttp://www.skypark.ne.jp/01para/01course1.htmlもあるようなので、春休みには桜を空から見学してみてはいかがなものか

ちなみに、宇都宮スカイパークhttp://www.skypark.ne.jp/index.htmlのインストラクターはロッククラフトの会員でもある。やさしく安全に、しかも適切に指導してくれることと思う。

僕も今年は25年ぶりに「空を飛んでみたい」と考えているのだった。近いうちに人間も宇宙体験できる時代が来るのかもしれない

 

コロラド

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地球がここの大地を形成したのは、今から20億年前の事だった。そこには広大な高原が広がっていた。おそらく7000万年ほど前に何かの大きな地殻変動か隕石の衝突や、或いは大きな気象の変化などがあったのかもしれない。広大な高原には一筋の河が流れ始めたのだ。その河は今日まで絶え間なく大地を削り、その見事な景観を生み出したのであった。そこを日地はグランドキャにオンといい、そこを流れる川は先住民の言葉で赤い河(コロラド)と呼ばれたという。この河の名所にはもう一つの説がある。1540年当時スペイン領であった頃の発見者フランシスコ・バスケス・デ・コロナドの名から命名された・・と言う説もある。最初の探検者はその大地に金のないことを知り、不毛の大地と考えた。

1869年、アメリカの退役軍人で地質学者のジョン・ウエズレー・パウエルは始めてその地の科学的調査を始めた。そして、そこには7000万年から4000万年もの歳月をかけて、1200mから1800mもコロラド河が大地を浸食して作り上げた地球の歴史そのものが有る事が次第にわかり始めたのであった。

グランドキlャニオンが世界に知れ渡るのは、比較的新しく、1919年以後のことであろうと考えられる。前人未踏・・ではなく既に2万年~12000年くらい前に人類はその痕跡をそこに残しているのであった。

ここには眼下に7000万年の地球の歴史とコロラド河の下には、さらに20億年の地球が生命を宿る前に歴史が存在するのである。その光景を見つめていると人間の歴史はわずか1秒にも満たない儚さとは対照的に悠久の時間を感じたのである。それは1989年の事であった。

今の自分を省みると、生と死のほんの僅かに間に立たづむ自分が小さくも、或いはその一部であると考えると、大きくも感じたのであった。

う~ん、もうすこし僕もおおらかに生きられないのかな~なんて思ってしまったのであった。

花粉飛来

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今日は会社に着いたとたんに涙と鼻水があふれてきた。花粉が相当飛来しているのだと思う。目がねをかけていても効果がない。薬を飲んだが、なぜか眠たくなってしまうので、今日1日は大変だ。しかしほぼ快晴のお天気は気持ちが良い。

しかし、この時期は卒業と転勤の時期でもある。昨年ほどではないが、ロッククラフトを卒業する生徒も多い。一方で入学?というか新しく入ってくる子供もいる。なんとも言いがたい季節である。

出会いと別れは人生のセットでもあるが・・・。

今週もいろんなことが身の回りでおきた。娘の高校進学に向けての入学金を納めたり、征服の採寸に行ったり・・不調であった営業者を修理に出したら、修理不能・・如何したらよいのか見当が付かない。来週は娘の高校の説明会と、友達と卒業旅行?に行くので僕が運転手をすることになっている。那須ハイランドパークで1日遊ぶようだ。車は人数に合わせてレンタカーを借りる事にする。そうこう資金の工面をしているが、一番厄介なのは2人の息子の大学の授業料である。2人合わせて200万円弱・・なんでこんなにお金がかかるの!!!!

もうすぐ桜も咲くのだろう。今年も良い事悪い事が織り乱れて、気が付いたら1年が終わっているのだろうが・・年を取るごとに1年の短さを感じる、この頃でもある。

黒マグロが勝った?

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日本の黒マグロの消費量は尋常ではない。世界市場の実に80%を占めるらしい。単にマグロの漁獲高は1995年度の集計で191万トンである。このうち71万トンが日本によって消費されている。黒マグロは希少価値がありその漁獲高はは2万5000トン程度である。その80%が日本で消費されているといわれる。マグロは日本の食文化といわれるが主にマグロの消費は関東圏に絞られるようだ。黒マグロ、南マグロなどは高級料亭やすし店でしか食べれないようでもある。

食に対する発展途上国の理解が得られたのかもしれないが、高値で取引される黒マグロは発展途上国の重要な資源でもあるのかもしれない。

以前「ダーウインの悪夢」で誇張されて伝わった発展途上国の商業主義に対する批判や偏った認識によるナイルパーチによる生態系や自然破壊の問題もあり、必ずしも黒マグロの件は日本の努力(票集め)の結果と喜んでよいのか、疑問が残る。

歴史認識とか風化させない・・とか、さまざまな事件に対してそれぞれが思うことは、意外と違う。世界、国家、そして地域での考え方は同じにはなりえない。まして宗教や文化の違いは、交わる事を認めようとはしないのかもしれない。

CO2の問題などにしても自然環境が優先なのかインフラも含めて文明環境を優先するのか、本質を見極める知恵もこれからの人類には必要な学力なのかもしれないと、思ってしまった。

ロッククラフトが教える事?こんな取材を受けてしまった ロッククラフト.jpg

やっぱり、落ちた

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こんなに心が重たい事はないのだが、後ろ向きに考えるより、前向きに考えたいと思う。娘が公立高校不合格になったのだ。自分はそんな経験を味わった事がないので、娘の心情をどのように察してよいのかわからない。しかい、むしろうろたえているのは自分のほうかもしれない。こんなに心が重たいのは、どう表現してよいのかわからない。このような心境の親も日本全国にあふれていると思うが、多くの場合は「合格おめでとう」である。

高校受験が人生を決定つけるものではない。ただ娘の場合は流されてしまった。或いは自ら流される事を受け入れたのかもしれない。意外とさばさばしていたが、努力しなかったのだから当然の結果といえる。幸いにも私立が合格しているので、お互いそちらのほうに気持ちを切り替えることにしたが、娘はむしろ私立のほうが第一希望であったようだ。父としてはソフトボール部に入ってほしいのだが、本人は吹奏楽部に入りたいようだ。気持ちの切り替えが出来ないのは、むしろ父である私のほうなのかもしれない・・・・。これであと3年教育費が・・・である、息子2人が私立大学、娘も私立高校・・現実が重い・・ま、僕の子供だから、親に迷惑をかけるのは当たり前かもしれないが(笑)

合格発表には初めて言った。悲喜こもごも・・と言う印象であった。自分の時も行ったか否かは記憶にない、落ちるなんて事は想定していなかったからなのかもしれない。といっても勉強したかと言うと、大学3年くらいまでは授業のほとんどは楽しくはなかった。自分が、調べたい事、知りたい事はとことん調べて考える。それが僕流だったのかもしれない。それは今でも同じである。

昨日は、Tさんと歴史の話をした。彼も歴史には興味があって(教えるという立場にいるらしい)幕末から維新後の日本の政策についての思慮は深そうだ。彼が「幕末前後の民衆って強かったですね」といった言葉が印象に残った。僕も大学時代に偉人による歴史検証より、名もなき庶民の生き方にこそ歴史があるのだ・・という考え方の賛同して歴史人類学なる思考を考えていた。歴史人類学とはフランスのア・ナール学派が提唱した新しい歴史の検証方法である。といっても1970年代では新しかったが、今となっては古い考え方なのかもしれない。ル・ロワ・ラデユリなる歴史学者の考え方が斬新であったのだが・・

斬新といえば、昨日の小学3年生チームは練習に気合が入っていてすごかった。トップロープであるが、初トライの5.10bクラスをことごとく成功していたのである。そんな感じで毎日の練習にも力が入るといいのだが、スイッチが抜けている事が多くて困ってしまう。しかし、遊びながら確実にレベルを上げている子供たちは素敵である。僕も確実に年齢を上げているのだが、年齢に合ったレベルにあがるよう心がけたいものだ。

今日も長くなってしまった・・

それは、成功し得ない

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最近は娘の事で胃が痛くて、なかなかすっきりしないことが多い。今日は中学の卒業式である・・と言うことは明日は合格(不合格)発表と言うことだが、人生には色んな関門があるが、娘にとっては初めての関門である。努力を積み重ねての結果なら良しと思えるのだが、努力を怠った結果であるから、父としてはなんとも言いがたい。しかし、明日を待つしかない。それからの事は明日考える事にする。

しかし、こんなに胃がいたいのは、何とか僕も父である証拠なのだろうか?

困難は常に人生の前に現れては消える?  消えない困難もあるが・・・。

昨日、買い物ついでにレンタルDVDを見ていて、ワルキューレに目が留まった。1年ほど前に封切りされたヒットラー暗殺計画の一つである。一説によると彼の暗殺計画は43回企てられた・・といわれるがその真偽は定かではない。今、歴史を振り返ると、ヒットラーは少なくとも1945年4月29日まで生存していたのであるから(4月30日死亡)であるかた、彼の暗殺計画はことごとく失敗に終わったtのである。

当然「ワルキューレ」計画も失敗に終わったわけだから映画もそのようなストーリーで展開するはずである。そう思いながら映画を見ていると、結末が解っているだけに胸が痛む思いがした。

無の痛みは「それは成功しえない作戦」である事を歴史が証明しているからである。結末が解っている事ではあるのに私の不安は心の痛みとなり、最後までこの映画を見ることが出来なかったのである。

それは娘の受験発表見に行く事と同じくらいの痛みであると、自分では勝手に思い込んでいるからなのである。先週から毎日胃薬を飲んでいるのだが、胸焼けは収まる気配がない。

未来派予測できない・・と言うが、人間は常に未来を予測して行動する生き物でもある。予測すべき未来は可能な限り最悪ではない事を願うのだが、予測し得ない未来は、必ずしも幸福へとは導かないものでもアル。

十分な準備をして望んでも、達成できないこともあるし、何の準備をしていないにもかかわらず、偶然に達成してしまう現実もあるのだ。それは宝くじに当たるようなものなのかもしれないが、予測し得ない成功も、まれに起きるのである。

ヒットラーに関する文献は、随分読んだと思うのだが、なかなか歴史もその真実を浮き彫りにしてはくれない。ヒットラーはユダヤ人弾圧者としてその名を馳せるが、彼ほど自分のための国家つくりに没頭し、彼ほど多くの同胞や国民、そして有能な部下を殺害した独裁者は、20世紀にはいなかったのかもしれない。

かつて社会学者エイリッヒ・フロムはその著書「自由からの闘争」で独裁主義とは何かを検証していたように思うのだが、彼が後に言った言葉が面白かった「社会の構造を解き明かすことは、あるいは簡単だが、家族の幸せを願うためには、どの方向に、導けばよいのかは、いつも判断に苦慮する」・・と。

すなわち、人生とは「何が成功で、或いは、何が失敗だったのかは、終わってみなければわからない」と言うことなのだろうか?  そんな事を考えてしまった、昨日、今日であった。

坂本竜馬が流行っているようだが、最近、「竜馬の才能を見抜いた男」として勝海舟の名前が挙がっているのだが、どこにそんな歴史的根拠があるのだろうかと、疑問を感じている。竜馬の才能を見抜いた男は司馬遼太郎であるなら、納得がいくのだが・・。勝が師事した佐久間象山の門弟になった気配もない??文学と歴史の狭間で悩む事は多い(僕のことである)この件も、しっかりと今書きかけの原稿に綴ってゆきたい。

さて、今日はこんなに雪が降っているのだから「画期的なくらい暇であろう」と言う僕の予想は裏切られてしまった。開店休業どころか、ジムは、わいわいがやがやしている。このブンだと10時に閉店出来そうもない。

今日は1日、文筆活動に専念しようと幕末の文献を紐解いて、あれこれ時間合わせをしていたのだが、どれもこれも中途半端になってしまった。分からない事を分からないなりに調べて、歴史の時間軸にあわせて、誰と誰が本当に話したのかを検証して見るのも面白い。佐久間象山にしても然りである。なんとも豪快な人間である。むしろ司馬遼太郎が象山の才能を文学に見出していたら、文学史の竜馬象も変わっていたのかもしれない・・などと、相変わらず想像力だけで歴史を検証する自分流から、脱け出せない自分がいる。

そういえば今日は午前中に栃木県の公立高校の入試問題をトライしていたのだが、結構良い点数であった。確実に数学力は落ちているが、ほかはあの頃よりあがっている。宇高は無理だとしても・・

話は戻るが、僕も「竜馬の才能」を見抜いてみたい。しかし、司馬流ではなィ。むしろ竜馬の存在を歴史から抹殺してみる・・という手法で文学に挑戦してみたいのである。何年かかるか分からないが、そんな事を考えながら、時間の隙間を縫って、文筆活動をしているのである。しかし、考える時間が今の僕には少なすぎる。それが返って想像力を磨く文学的手法に向かわせているのかもしれないが、どこかに『僕も文学部歴史学科だった』という意味もない自負が内在しているのかもしれない。

強敵はわが腹中にあるのかな?そんなストレスで最近は毎日胃薬を飲んでいる。歴史を考える楽しさは、胃をいためる辛さにもなっているのかもしれない。

中学生のとき、僕が描いた夢の一つは文学者であったのだから・・・?

つまらないコラム?かな?

今日は娘の高校受験の後半戦であった。後半戦は面接と言うことで、終わるまで近くのコンビニで待つ事にしたら、なんと車のバッテリーが上がってしまった。ほぼ30分くらい、来店するお客さんなどに「バッテリーを貸してください」とお願いするもずべて断られてしまった。人相が悪いのか女性が冷たいからなのか??途方にくれていると、そこに、ヤンキーっぽいお兄さんが来たので「バッテリーが上がってしまって・・・」と言うと「急いでいるのですが・・」といいながら快くOKであった。彼が天使に見えた瞬間であった。今日は寒くて・・雪もちらつくけど、見かけでは分からないな~と、改めて実感した。

踏んだりけったり・・かは分からないが、アカデミー賞で地雷処理班の仕事を扱った映画が大方の予想に反して作品賞、監督賞、脚本賞などをとった。密かに僕も『そうなったら良いな』と思っていたのだが・・予想が当たって喜んでいた。地雷を踏んではいけないが・・自国が招く紛争解決手段への強烈なメッセージもこの作品にはあるようだ。

ドキュメント部門は「入江(the cobe)」という日本のイルカ料を題材にした作品であった。一見「不都合な現実」は見方を変えると善にも悪意にも取れるものだ。30年以上前の『グレート ハンター」という映画を思いだした。ショッキングな現実であるが、現実は常にショッキングなものである。正に『事実は小説よりも奇なり」である。

もともとアカデミー賞とは大衆賞ではないので、アカデミー会員の独断と偏見でも良い・・と僕は思う。アカデミーとは、もともとそんな考え方である。大衆が指示するとか収入が大きかった・・と言うことは評価の一部にしか過ぎないのである。

今回ノミネートされた作品の多くはアメリカ自身が抱えている膿みの部分である。家庭内暴力、人種差別・・そして初めて、作品賞、監督賞に女性が選ばれたのである。受賞者が女性である事が話題になる事事態にも差別と偏見が内在しているような気もする。

鯨を食べる、蛸を食べる。牛や鳩を食べる。動物は残酷で植物はやさしいのか?

歴史と伝統は、守る戦いと凌駕される現実の、常に狭間にアル。人の死のみが尊いのか、偉人や英雄の死が惜しまれて、量としての死は単なる死でしかないのか?

昔、アメリカン先住民の教え・・と言う本を読んだときの言葉が胸に響き渡る「死は、いかなる死も、死でしかない」

戦場での死も、病死も飢餓による死も、皆同じ・・と言うことであろうか

今回のアカデミー賞でそんな事を考えてしまったのだった。

更に『踏んだり、けったり・・」

それは、日本の政権与党にも言えるのかもしれない、金と政治の問題ばかりを追求する野党。野党も与党の裾野を崩せない。国民は「それじゃあいけない」といっているのに、寝耳に水である。

せっかく内閣総理大臣の椅子に付いたのに、失言や陰謀説を唱える部下(議員)の失態。自らも失態をさらけ出すかのような根拠を示さない発言に、どちらも踏んだりけったりの状況にあるのかもしれない。本音は「国民に蹴られないようにするにはどのような判断をするべきなのか・・」と言いたいのかもしれない。しかし、それじゃ政治じゃないでしょう。大衆の人気取りが政治の本質ではないのですかならね。この際、共産党以外はみんな解体して、新たな枠組みで政党を作り直す・「政治リコール宣言」でも、どなたか発信してみたらいかがなものかと、僕は考えてしまうのですが・・・

ある不登校が波紋を広げている。正に皇室ご用達の現場である。何時、どこにでもアルいじめとか暴力という子供たちの世界の話を・・、しかもそれは、宮内庁の中でも見解の相違があり、学校としても見解が違うようだ。このニュースは世界も取り上げているようだが、日本語の翻訳にもさまざまな見解の相違が有りそうだ。

ここで考えたいのは「質としてのいじめ」と「量としてのいじめ」に対するマスコミなどの報道に対する見解の相違でもある。

このような話は「そもそも公式に記者会見するべき問題ではない」なぜなら「波紋が広がってしまう」・・と言う理由からである・・。その通りという見解を述べるマスコミや世論の意見は多いが、よく考えてみると「波紋が広がる」ではなく「波紋を広げている」のはマスコミの報道の仕方ではなのだろうか??

おそらく、このような波紋を招いた責任を誰かが取らされて、うやむやのまま、小さな波紋に大きな反動の予兆を感じてしまうのは、僕の考えすぎなのだろうか

以前にも「報道の理性」とか社会の「理性と狂気」についてコメントを書いたことがあるが、僕も含めて、テレビ報道の「量」に本質とは違う「質」と考えてしまう、メデイァの功罪が存在するような気がする。

難しくもあり、単純でもアルさまざまな問題・・政治的結論を5月に先送りする事と同じように、報道する質と量に翻弄されない自分を見つけるには、困難な時代になったのかもしれない、と、思ったのだった。

選手はそれぞれの道に進む・・しかし、躊躇するまでも泣く、次の大会への準備をしなくてはならないアスリートもいる。全力を出しつくし、燃え尽きて、新たな人生に向かう人も居る。この体系での悔しさを次のソチに向けるアスリートもいる。みんなそれぞれの道を進むわけである。

注目されて惜しくも銀メダルに輝いたフイギアの選手は「ソチに向けて準備に入ると、躊躇せずに断言した」4回転へのこだわり・・?

フイギアスケートはスポーツなのか芸術なのか?

そんな当たり前な疑問が僕の中で再燃した。今回の大会は芸術性が勝利を収めたが・

・4回転といえばハンマー投げの世界チャンピオンが彼女の大学にいる。強い見方のなりそうな気もする。彼女が目指すのは芸術性よりアスリート魂なのかもしれない・・と、思った。

少なくとも、勝敗は別として、バンクーバーオリンピックに参加した全ての選手に「お疲れ様・・そしてありがとう」と感謝の言葉を贈りたい。

 

今回の大会では控え室での選手の過ごし方がわずかだが放映された。淡々と自分の出番まで調整する選手を、まるで隠しカメラが盗撮しているがごとく自然に映し出された。そのシーンに僕は注目した。自分の出場時間に合わせての調整の難しさが、スピードスケートやスキーのアルペンやクロスカントリー競技にはあるようだ。時にクロスカントリーのリレーでは、自分の順番を待つ選手がスタート地点にエアロバイクを持ち込んでウオームアップをしているのには驚いたが、そんな事は日常(普通の事)なのかもしれない。

少し残念だったのは、スキーのアルペン競技に男子回転以外に日本選手の参加がなかった点である。スキー人口は多いはずなのに、なぜ世界レベルにならないのか?とても疑問であった。

それに引き換え、マイナー競技である。リュージュ、ボブスレーなどの支援を受けられない競技選手の努力には頭が下がる思いがした。結果は別にして、頭が下がる思いがした。

世界との差・・それはスポーツを支援する環境なのかもしれない。ドイツなどは200億円もの国家支援を受けているという。日本は20億円程度の強化資金とか。パララリンピック参加選手に至っては、ほとんど国家的な支援はない・・と言う。総額2億円とは大会参加費用の一部にしかならないような気もする。日本にもスポーツ省の設置が望まれる。

スポーツの話題は野球や夏のワールドカップサッカーに移り行きそうだが、僕自身としてはサッカーの日本代表にはなかなか興味が湧かない。外国のチームの動向のほうが気になる。夏になると気持ちが盛り上がるのかも知れないが、僕の気持ちは日本チームの応援と言うより、世界のチームへの興味が高い。

野球といえば、大リーグである。当然僕の興味はイチローと松井である。イチローは今年も200本ア安打を打つのだろうか?松井は30本塁打100打点が成果の目安であると思う。チームの対決と言うより、僕はイチローと松井個人の成績に注目している。目が離せない2010年でもある。しかし、オリンピックやワールドカップサッカーがあると売り上げが・・と言う法則がある。今年はその法則が崩れて、楽しい秋を迎えられると良いのだが・・

家庭の事情も今年は大変なのである。長男が大学留年、次男も大学生、長女は高校受験である。家計は今年、来年と火の車・・である。どのように乗り切ればよいのか手立てが見えない。「ねえ、お父さん、大学って遊ぶところじゃないの・・」っていう衝撃的な発言に言葉を失った。さらに「お金払っているんだから、授業に出ていれば卒業できるんだよね」には追い討ちをかけられた・・・。父が甘いのか社会が甘いのか・・まさに日本は平和である事に麻痺しているようだ。

テレビを見ていても、バラェテイ番組が多い。メデイァの公共性ってナンなのだろうと、改めて考えてしまう。先週は栃木県では食中毒が発生して400人以上の園児などが大混乱したが、ニュースではほとんど取り上げられていない。ニュースにも流行があるのか?テレビ局も公共性より経済優先なのであろうか?

チリ地震などにおいても、国家の利益、経済優先は貧富の差をいっそう深めている。人間性とか文化性は置きざるにされているにもかかわらず、日本はわが国の伝統や文化を鼓舞しているように見えて笑ってしまう。マスコミの理性は、独善的な狂気に変貌している事に、メデイァ自身が気づいていないような気がするのだが・・いかがなものだろう。

政治に目を移しても、金と政治ばかりが国会で強調され、政権公約や基地移転問題は期日まで先送りで議論はしないのだろうか?まったくみっともない国会中継ばかりが目立つ。

そう考えると「美しい」とは、純粋に世界の頂点を目指すアスリートの心の中にしか存在しないものなのか、気の早いマスコミは早くもソチへのカウントダウンを始めている・・・・。

 

フリークライミングスクール・ロッククラフト

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