「何故だろう。それは何故かしら・・」そんな疑問が僕の少年時代には付きまとっていた。どうして黄色い蝶がいて、白い蝶がいて種類が違うのに、人間は肌の色に関係なく人間なんだろう?
微妙に似ているが、微妙に違う。クワガタ虫やカミキリ虫・・月はなぜ満ちては欠けるのか?疑問は常にきりがなく、僕の好奇心は際限がなかった。
そんな僕に不思議な答えをもたらし、新たな疑問を提案してくれたのが「科学」と「学習」という月刊誌であった。「はじめ人間ぎゃ~とるず」は僕たち人間の祖先の生き方を示唆してくれた。
それは「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などのSF漫画よりも僕の興味をそそったのであった。
それらの雑誌に掲載されている疑問は古代からそこにある真理でもあった。存在する事実を哲学で検証するようになって2500年、科学で解明するようになってわずか400年。それまでの人間はいったいどういうことに疑問を持ち、恐れ、あるいは畏敬の念を持ってあるがままを崇拝し、あるいは解明しようとしてのであったのか・・?
そんな疑問を、それらの雑誌はいとも簡単に実験で、アツイは論理で僕たち子供に「その真理」を導く手段としてさまざまな提示をしてくれたのであった。
最盛期には毎月2誌で670万部も売れていたと言う。今はその20分の1くらいか?
夢を示唆してくれる雑誌は価値がなくなり、現物としての偏差値(もしくは答え)こそが重要な時代へと突入していったのか。
疑問を持つことの価値観はうすれ、どういう答えを導き出せば正解なのか・・と言うことのほうが重要な時代。それが21世の価値観なのであろうか?
僕たちの今とは単に今であって、古代人の今はおそらく数万年を表す単位であった。
物事を想像するにあたり、その時間の単位が短ければすばらしく、時間をかけて1ミリしか進まないものは、出来が悪い・・と言う事なのだろうか?
今からわずか400年前には電気と言うものはなく、光としては、太陽と月、蝋燭と星明り、が全てであった。交通手段としては、歩く事、馬に乗ることが早さの単位であり、航海は船に乗る唯一の手段であった。遠くに行く・・もっと遠くに・・それはライト兄弟の飛行機に始まり、その発明の」わずか50年後には宇宙に船を浮かべていた。それから50年、今、最先端の人工衛星はやがて1000兆キロ先の太陽系の外れまで到達しようとする旅に出ている。無人飛行ではあるが・・・。
あまりにも早すぎる時間の流れに、私たち人類は付いて行けずに過去の人になってしまいそうな勢いである。
私たちの今は、わしたちの認知できる時間と言う概念を既に超えているのである。15年くらい前に「時間の発見」と言う本を読んだ。確かコリン・ウイルソンというSF作家であり科学者が書いた、科学の本であったと思う。そこには時間に発見が人間に文化や科学を発見させた事、宇宙には宇宙時間があり、地球には地球時間があり、人間には人間時間がある、その人間の時間は体内時間と時計時間に識別されるが、人間は体内時間を忘れかけている・・時計時間が時間の全てと人間は錯覚している・・と言う警笛が放たれていたのであった。その本を翻訳したのは竹内均さんという物理学者であった。確か科学雑誌「ニュートン」の編集長もされていたと思う。彼は硬苦しい科学者・・と思っていたぼくの目から、鱗を落としてくれたのであった。
おそらくそれ以後、僕はあんまり本を読まなくなった。読みたい本が見つからない・・と言ったらいいのか、読みたい本を発見するにいたる無駄な時間を費やせなくなったのか、ともかく僕の日常は加速的に忙殺されていったのである。
今でも思い出す、科学雑誌についてきたゲルマニウムラジオの作成でソビエトのラジオ放送を受信したときの驚き・・。鉱物の見本によって石がいろんな手段で生まれてきた事実。その石を原始の人は握り、投げ、あるいは加工して、やじりやなどの石器を産みだす。
いったいどれほどの時間を費やして、石とかかわり、そしてそれが青銅の加工に始まり、鉄の鍛錬、そして錬金術としての科学へと導いてきたのであろうか・・と。
その雑誌には素朴な疑問の種がたくさん詰まっていた。ダーウインは「種の起源」を宗教を返さず考えたが、僕は「科学」と「学習」によって、文学、宗教、哲学、そして科学・・へと導いてくれたのであった。
物事には順序がある。これから覚えろ・・と教える事はたやすい。しかし、どうしてそうなるのか、どうしてそれがそこにあるのか。そして、それはどこから来て、どこへ行くのか・・と言うことは、科学が証明したと言う事実の暗記でよい事なのだろうか・・と言う疑問が湧く。学習とは「そう言う事なのか」科学とは科学的根拠の論理性が全てなのだろうか・・・。
科学はいつも新しい発見を人間にもたらすが、科学で究明もしくは証明された事は、少なくとも宇宙の存在した始まりから「何も変わっていない事」を、今更ながらに人間が発見したと言い張っているにしか過ぎないように思われてならない。
「先生の話は性善説か性悪説のどちらが正しいとか言う水掛け論とか、地動説と天動説のどちらが正しいのか・・と言う話みたいで、ナンセンスだよ」と、ある子供にいわれて愕然として事がある。
それはその子が悪いとかいいとか言う問題ではなく、何故、子供に正解と言う答えのみを与える事を学習と言うようになったのか?という疑問が僕に目覚めさせたのであった。
確かに「科学」も「学習」も今の時代には無意味な発想か非効率な思索の方法論や実験を知っていたのかもしれない。
しかし、科学を目指すのも、学習の本質を知らなければ、子供たちに未来を示唆することは出来まい。誠に残念な事であるが、「科学」も「学習」も予備校や学習塾で記憶させられる事の質量が優先されることこそ学習となってしまったようである。
それは子供のせいではなく、子供のそれが教育だとしさする大人の知恵の浅さがなせる業ではないのだろうか?
そこのところを考える大人が少なくなった今・・を憂いで、経済の伴わない成功を目指す企業を目指す僕は、時代の放浪者(バカボンド)なのかもしれない・・と、思ってしまった。
しかし・・である。。
「夢は子供心に見るものではなく、大人になって追い続ける事こそ夢」と言った漫画家の先生の言葉が僕の胸に強く突き刺さった。昨日のことである。彼女は「1分間だけ私の人生を話させてください」と自分の生き様を語ってくれた。その彼女に僕は人生を教わったような気がして胸が熱くなった。
感性を形にする。それは並々ならぬ苦労の連続であったと思う。
わずか30年くらい前まで、漫画を読むことは良くない事・・であった。今は漫画から人生や哲学を学ぶ時代となったのだ。
それは「文学の死」であるのかもしれない。庶民が読む文学も変わってきた?それとも変わらないものもあるのかもしれない。しかし、文学の話をする環境が、僕の日常にはあまり見当たらない。
「科学」と「学習」の発刊日に胸を弾ませ、そして隅々まで読み漁り・・そこにあった夢と「はじめ人間」の漫画が」僕に与えた影響力は計り知れないものがある。
なんとも大きな星を失ったようでならないが、これも今と言う時代の成せる技なのだと、理解しなければいけないのだろうか・・と、考えたのであった。