僕の「ほぼ日記」は統一性のないタイトルで始まる。無いのを言いたいのか、何が主題なのかが自分で読み返してもわからないことがある。時々誤字や変換間違えを発見することもあるが、おおむね、なんとなく読み返してしまうので、見過ごしてしまう事も多い。困ったものだ。
先ほどフランシス・フクヤマの「歴史の終わり」について少し触れたが、彼に関するネットでの検索結果は3000万件にも及ぶ、これはすごい数字であるがたまたまテーマ性のない言葉であるために多発しているのであろうと思われる。ここに登場するマルクスやヘーゲル、ニーチエなどの思考に対する解釈の仕方が面白いし、20世紀を民主主義VS全体主義VS共産主義との対立構造によってシフトされる時代と一位置づけて、やがては世界が民主化へと向かい、博愛精神に満ちた緩やかな世界国家に統一され、宗教や文化、民族間による武力紛争もなくなる方向へ向かっている、という考え方である。
なかなか面白いが、専門的な考え方を必要とするので、重い本かもしれない。
博愛とは日本における民主党党首の鳩山氏が好む言葉であるが、根底に民族主義とか特定の宗教を持たないと理解できない言葉でもある。
博愛を与党連立の基本に打ち出した事は、既に火種の元になっているようでもアル。選挙前に連立と選挙協力をしなければ、こんな事にはならなかったのでは・・と早くも嘆きや愚痴が民主党からもれている・・と言う話もある。それは、結果として300以上の議席を確保したが、選挙前は必ずしも圧勝するという考え方はなかったのであるし、ある新聞が「民主党320議席確保」などと書いて、民主党の大勝に対しての抑止を促した・・という考え方も見え隠れする。まさに保守から革新的野党が与党になるには、新聞社も必死の抵抗記事を書くのであろうか?なんとも大人(知性や教養のアル人や組織)の考え方はおくが深くて、僕には計りかねない。
当然、このような結果になれば民主党内部から「連立は必要ない」と言う声も上がる。まとまらない部分は決してまとまらないのだ。そこ(秩序)にはカオス(混沌)が存在するのだから仕方がない。まして、民主主義政治体制である、専制君主制や全体主義などのように余計な理論を武力によって威嚇はできない。そこのところが統一性を欠き、官僚の言う「お時間がありませんので・・」と妥協を強いられる根拠を生むのである。
おそらく、鳩山お坊ちゃま君は、科学者としての思考が高いので、自分に都合の悪い議論は聞き流し、おとくいの洒落でかわそうと考えるのだろうが、そこには揚げ足をとる、野党やマスコミ関係の評論家が要らぬ火種の温床を作りかねない。
といって言葉を慎んだり、慎重に選びすぎると、鳩山氏の言葉で無くなり、かえって歪曲されてマスコミが伝えるって事になりかねない。まさに「歴史の終わり」にふさわしい論争が政治の上で始まろうとしている。
もともと民主主義は緩やかな合意なのでるから、絶対的なリーダーがいたのでは成り立たない。すなわち強いリーダーの存在は専制になったり、全体主義的な傾向に傾くのである。それは民主主義と言う言葉が使われる様になってから、2500年も引き継がれている歴史的事実である。
その概念の確立のための歴史が、今、始まろうとしている・・と言うのがフランシス・フクヤマ氏の「歴史の終わり」と言う考え方である。要約しすぎたかもしれない。
鳩山氏は、アメリカに存在する博愛主義に感銘を受けた・・と言うが、それは彼らの持つ宗教に起因している。残念ながら、われわれには宗教がない、何でも、その時のご都合で、神にお願いしたり、祝福を受けたりする。すなわち、ウエデイングドレスを着たいから、教会で結婚する。自分の持つ宗教が仏教なら仏前結婚が筋だと思うが・・
そいう文化を持つ国民に、博愛精神は、なかなか理解しがたい。理想の宗教のように感じてしまうのだ。
確かに、国民が選んだ政党である、敗れた政党がとやかく言わないでほしいと思う。一方連立という関係があったから、7名の当確者を出したのではないか・・という見解もアル。独自路線を進みぶれていないのは常に健全野党を目指す共産党だけなのかもしれない。
それぞれがそれぞれの利益のために政治にかかわりあうのである。しかし、民間企業はそれどよいのだが、政治家がそれでは困る。選挙制度も根本的にとは言わないが、小選挙区と政党選択の制度を少し見直してほしいと思うのだが・・・
政治は常に「てんやわんや」である。どたばたする事が政治の本質であると考えると、このどたばたの終焉にこそ真の民主主義が見えてくるのかもしれない。
評判の悪い政治の事をブログに書くのは、しばらく止めたいのだが、20世紀の歴史検証には重要な事なので、まだまだ、核かもしれませんが、よろしくお願いいたします。
勝っても負けても(追加8月31日深夜)
勝っても負けても難しい舵取りを強いられる。負けたことのない自民党は野党としての方向付けをしなければならないが、誰を党首に担いだら良いのか、暗中模索状態であろう。もともと幅広い意見や思想に裏付けられた政党である。その思想の幅も広く、まさに鵜の集団である事を露呈しつつある。しかし、鵜は鵜と言う種類の集団でもある。必ず再生の道を選択して、望むべき方向性を描き出す事だろうが、民主党がリベラルで行くなら、同じ道は選択できない、保守は保守として進まなければ、自民党の存在感は薄れそうだ。かといって敗北した原因が保守主義的な背景が党内にあって、国民から遠い位置にいた・・と言うことなら、保守的要素を拭い去るような変化を国民に指し示さなければならないだろう。ひとまずは徹底的に当選した議員同士で議論して反省し、新たな国民の支持を得られるにはどのような政策を打ち出して行くべきかを考えなければなるまい。
生まれ変わるには時間がかかる。来年の参院選挙までに立て直す・・と言うようなやっつけ仕事では、国民に解体される覚悟も必要であろう。「野党が気楽でいい、なんでも反対していればその存在価値がある。しかし、与党はそんな気楽な政党ではない」と以前言っていた様な立場に立たされるのだ。ここは、腹をくくって、気楽な野党で緩やかに与党の政策手腕を眺めるのも良いのではないかと、僕は考える。自民党に投票した国民も「そんなに急ぐ必要はない、しっかり国民の話を聞け」といっているのだ。もう、天の声みたいな政党では許されないのだ。
公明党も方向性が微妙である。党首と幹事長が落選したのである。誰が号令をかけて党をまとめるのか・・会議の招集方法までわからない状態なのかもしれない。
敗因を生んだ過去までさかのぼり、十分議論して議員自体が顔を出してきてほしいと思う。少なくとも自民党と連立して公明党の存在はわかったが、所詮コバンザメの御利益のような感じである。依存型政党ではなく、自立した政党として、ただくっつくのではなく、健全野党としての力をもう一度見せてほしい、とおもう。
連立与党となる政党諸君にも物言いたい。あなたたちは自立した政党として国民に選ばれたのだろうか?ひヨットすると民主党との連立関係と選挙協力の恩恵によって、当選したのかもしれない・・と考えても良いと思う。こんな事を言うと「少なくとも私は、そうは考えていない」と全否定されそうであるが、あなたたちも健全与党ではなくコバンザメ与党なのである。
日本における民主主義も少しは成長したように思う。これは歴史の終わりではなく、民主主義の新たな始まりである。
政治家が就職先として議員になるのではなく、国民の利益の具現者として、真の政治家を目指してほしいと思う。
しかし、一方で大きな志をもって初当選した140名近くの?獅子もいる。崇高な理念を持ち、初志を忘れず国民のための政治を行ってほしい、私たちも、単なる傍観者や観客として立った一票を行使するのではなく、有効な1票として国政に参加する国民になりたいものだ。

