ボクは人間について考えることが多い。その始まりは文学との出会いからだったが、それが歴史や宗教そして人類学へと変貌してゆくが、頭の中にあるイメージは、何を考えていても「人間って何?」「どこから来たの」「そして、何処へ行くに」に集約さている。
もともとロッククライミングとであったのも、大学に入って「何故、人は石の文明を残したのか」という単純な動機からであった。巨石を重ね合わせ、石を投げて獲物をとる。石に色とりどりの石で記号や文字を生み、そしてグラスゴーやアルタミラなどの芸術を生んでゆく。もちろん石を投げる、石で相手を倒す・・という行為は戦争の手段としても用いられた。
モーゼの10戒ではないが、何故石に神の意思を掲示したのか?とか、2001年宇宙の旅に出てくる巨大な宇宙をさまよう石の映像は、多分、宇宙の始まり(ビックバン)を想定していたのだろうが・・子供の頃には衝撃的な出来事であった。
子供の頃はよく河で遊んだ、利別川や釧路川は石を拾ったり、水遊びをしたり、釣りをしたり・・ボクにとっては多くの行動と思索の場所であった。何処そこにあるアイヌ民族の痕跡や十勝石(黒曜石)で作られた鏃(ヤジり)なども、たくさん拾った記憶がある。自分でも十勝石を砕いて、包丁のようなものを作ったり、ヤジリのようなものを作った記憶もアル。おかげで指先はいつの切り傷が絶えなかった。
何故、こんなものを始めの頃の人間(古代人)は作ろうと考えたのだろうか、そしてそれらは何故、世界中に共通の文化としての、やじりや刃物などを石で作成しようとしたのだろうか?地域や風土が違っても、ほぼ共通の文化として、弓矢や斧などが世界中に存在することに、不思議を感じたものだった。
それが乗じて、大学は歴史学へと進むのであるが、ほとんど大学の授業には興味が沸かなかった。それよりも、山登りに没頭してゆくのであるが、ある人に「ヒマラヤには4億年前の貝の化石が在るんだ」といわれ「エエ~、それって、昔、エベレストは海の底だったの!」という驚きに変わった。
高校時代に地理や地学の時間に習ってはいたと思うが、まったく記憶にない発想に出会った興奮は、いまでも忘れられない。
考えたことのない発想は、やがてボクをエベレストに導くのだが『エベレストの頂上で貝の化石を見つけたい』という一風変わった発想であった。マ、エベレストは行ったが、その旅は、BCまでであった。その頃のボクは仕事で多忙で、ストレス蔓延、性格は破裂していたのだと思う。理性も知性も道徳的判断力も失っていたから、エベレストに行ったのだろ思う。
しかし、其処ではさまざまな人々とであった。1994年は商業登山の幕開けで、ロブ・ホール氏は一人数百万円でエベレスト登頂ツアーを行なっていた。自分たちで道を開かない、すべて他人任せの商業登山が僕たちの登山と奇妙に共存していたのである。相当な違和感を感じながらも『観光でエベレストの登頂も商売になるのだ・・』と心の中でつぶやいた。
ボクたちはエベレストの街道に散乱する、主にマンガン電池、水銀電池などを3万個ほど拾って帰ってきたが。そんな行為を商業化する気持ちはまったくなかった。
たしか翌年、ある人が『エベレストの(酸素ボンベという)ゴミを、日本に持ち込み、有名ニュース番組でほえていた...』その話を聞いて「ゴミ拾いを商業主義に転嫁する人も居るんだ・・」と思ったのであった。
エベレストに参加したとき、ボクの体は相当悪かったので、薬や注射器などを自前で持ち込んでいた。おかげでエベレスト街道沿いの医師とはさまざまな話をすることができた。特に記憶にあるのは、病原菌としてのウイルスは高地では、その活動が鈍るようだ・・と言っていた医師が居た。ヒマラヤにはA香港型も、ソ連型もない、すなわちウイルス性の病気はないらしいのである。
以前映画で、宇宙人が襲来し、人間の文明という科学力で対応しようとしても何の役にも立たず、ただ人類が宇宙人に占領されるのを待つばかり・・という断末魔に宇宙船が皆失速して、地面に激突する。後でわかったのだが『ウイルスが宇宙人を侵食したのである」その時、僕は思った「ウイルスは人間の、あるいは地球の見方なのだ!」と・・。
その思いと重なるようなことがここ5000mの高地には存在している。すなわちこの高さではウイルスは人間には無害なのである。ということである。登山はウイルスの危険性を考えることは無用なのである。
そのときひらめいた発想が「ウイルスは、ひょっとしたら生物の進化に変化をもたらすきっかけを作る、中間生物(注 ウイルスは細胞がない、DNAもRNAも確認できないので、生物学上は非生物と考えられているで学問上は生物と非生物の中間に位置するとは考えられていない)なのかもしれない」ということである。
なんとなく面白い発想だなあ・・と思い、日本に帰ってきてからそんなことを調べていると、やはりそんなことを考えている科学者は日本にも居たのである。
ま、電気もエジソンだけが発明しようとしたのではないから、いろんな疑問を持つ人は世界中に多数居ても不思議ではないのである。
その頃、わが社にはウインドウズ94が導入さて、インターネットが細々と日本でも展開されつつあった。ボクが居た会社はPCの導入は比較的早く、1982年のことであった。こんなもの宇宙にロケットを飛ばすわけでもないのに、こんな小さな会社に必要はない・・というのがボクの断定的な考え方であったが、パソコンとはそれ以来に付き合いである。とても長い。
そのころ、PCにもウイルスが出現しまるでインベーダゲームのようにソフトを破壊していった。PCのソフトがインターネットでつながって居なければ起きない現象であるから、コンピユータウイルスは生物学的定義(生物でなくても良い)には合致していた。また、ワクチンは病理学のみにおいての薬物でではなく、PC上にも必要な処方箋であり、しかし、恒にウイルスに遅れをとる・・という構図も病理学における現状となにも変わりはない。
そんなこんなで、4~5年前(新型ウイルスサーズの出現)頃から、改めてウイルスと生物の進化について考えるようになって来ていた。
ウイルス学は生物学上というより微生物学には毅然として存在する。いまだに宇宙人のような存在である。すなわちウイルスは多分ヒポクラテスの時代から病原体の一つと考えられているが、いまだにUFOなのである。すなわち、確認はできるが定義し分類できない存在で恒に亜種が出現し、宿主を媒介して人間に脅威を与えている・・のである。
しかし、それも考え方である。地球上の生命は、恒にバランスの上に成り立っている。ある特定種が地球を凌駕することはできないのである。それは人類においても同じことで人間のみが地球上ですべての生物の霊長に位置するという考え方は、僕に言わせると『理性的判断ではない』のである。
種は恒に変化して特定種が地球を占有した形跡は過去4億年においては見られない。さらに地球物理学が発展して、32億年前あたりまで地質やDNAもしくはDNAや生物の進化の形態が究明されたとしても、物理学上の根拠であって、真実は恒に闇の中である。
闇の中であるから『意味がない』というものではない。むしろ過去を究明することによって、人間と地球を明日に必要なワクチン(良薬)の生成が可能になるのである。しかし、前年ながら今のところはウイルスが恒に優先していて、ワクチンは対処的な処方箋でしかないのである。
ウイルスの恐怖に過剰反応するようになったのは、いつごろからなのだろうか?と考えると中世ヨーロッパに置ける「ペストの大流行」を思い出す。十字軍の遠征も、ユリウス3世も得たいのしてない黒死病によるユーロッパ世界の不安が強硬な歴史た文化を生んだ背景にあったのかもしれない。
そう考えると、今日の新型ウイルスのメキシコでの出現は、人類に一国の利害関係より強い国際間の協調を生み、宗教や人種、文化や利害における対立是正の良薬として、地球環境に貢献するのではないかとも考えられる。金融工学だの経済優先の民主主義よりも、利他主義的な傾向をを持った世界の創造こそが人類に残された選択であることを、新型ウイルスは私たちに示唆して居るようにも考えられる。
思考が飛躍するがウイルスとは、在る意味で、中世の暗黒を救った救世主であり、現代いにおいては宗教間戦争なども含めて、人間の新たな価値観の創造に一役を担う処方箋になるのではないかと考えてしまう。決して中世のヨーロッパの十字軍を賛美しているわけでもなく、1945年のヤルタやポツダムのよいな大義名分を作る為の戦後処理ではない、真の良薬開発への一助となることを切に希望する。
ボク本来の目的である、今年のテーマの一つ「ウイルスと人間の進化のプロセス」については、まだまだしばらく時間がかかる作業でもアル。
少し、硬かったかな><?