2009年5月アーカイブ

1200年目の和解?

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鎮護国家の民心一体化を目指して仏教の布教を目指した800年代までは(奈良時代まで)仏教は修行を積んだ特定の人にしか会得できない崇高な理念であった。そこに二人の僧侶が現れる。最澄と空海である。きしくも二人は桓武天皇時代に遣唐使として、中国に派遣され仏教の真髄を習得するわけだが、微妙な温度差が生まれ、いわゆる大乗、小乗にその方向性が分かれてゆくのである。

民衆のすべてに仏教がある。それは信心の深浅にかかわりなく・・・と、

しかし、究極を求め祈祷をも含む・・と考える空海と、すべての民衆に布教すべきだと考えた最澄の方法論において、袂を分つ結果になってしまったようだ。そして、1200年の時を経て、二つの宗派が交流を始めようとしている。あえて敵対的として存在したのではなく、ただ真の仏教の方向性の違いが、我々庶民には対立に見えただけなのかもしれない。

政局においても同じことが言えるのではないのだろうか、韓国の盧元大統領の自殺は衝撃的な現実であった。

嘗て「大統領になるには強い心が必要だ。私はあまりにも人間であった」とアル・ゴアは言っていたが、盧元大統領にもそんな印象を受けてしまう。

決して政党の利害の為ではなく、まして官僚主体の国家でもない。

しかし、政権奪還が政党の使命なのか、自民党の政治が民意に反しているのか・・という問い明確に答えを求めるのも難しい世の中になっている。脱政党政治、2大与党政治。超民主主義奪還の為に脱超資本主義などと、1980年代のように新しい秩序に向けた新しい言葉が世界を飛び交うが、視点が民衆にあるのか・・と言うといささか疑問を感じる。

「ぶれる」もしくは「ぶれていない」。どちらが正しくてどちらが間違っている、という問題でもないような気がする。たとえば歴史は当時、10年後、100年後、1000年後の評価を受ける。今は間違っていると思えることも、10年後100年後には正しい判断だった・・と言うこともあるのである。

未来を予測することは困難を極めるのであるが、現状の対処的判断だけでは歴史は作れない。ドリらが良いとか悪いとか批判を繰り返すのみの議論を国民は望んでいない。

仏教界も1200年目に交流が始まろうとして居る。天の上から眺めている、最澄も空海も少し苦笑いをしているのかもしれない「こんなつもりではなかった」と、しかし、悪い話ではない。

空海に仏教を説いた恵果(けいか)も、ほっとしているのかもしれない。

ガリレオの誤算

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ある歴史検証によると、ガリレオはSF小説作家を目指していた形跡があるようだ。特に宇宙に対しては相当な空想力を持っていたといわれるが、それには背景がある。ガリレオとはイタリアの物理・天文学者で、哲学にもたけていた。彼を一番有名にしたのは「それでも地球は回っている」という言葉であろう科、しかし、その言葉は後世の人が作り出した造語とも言われている。いわゆるコロンブスの卵とかニュートンのリンゴのように、本人の意思ではなく、誰かが作ったエピソードなのかもしれない。

神学者コペルニクスの唱えた逆説理論から、地球が自ら回転している事を長い観察(2年8ヶ月あまり)から推察したのであった。其の方法には初めて数学を用いたのである。

地平線から敵の進入を監視する・・という見張り役のアルバイトが、結果的に天体の原理を推察する根拠になったのである。彼が最初に出版した本は「星の使者」だったと思うが、学術論文のタイトルとは思えない。まさに文学であり、SF小説を彷彿させる。

もっと解りやすく言うなら、毎日日没まで、地平線を10倍の望遠鏡で観察する仕事をしていたのである。それを天体(金星)観測に向けていて、あることに気がついたのである。それは2つあった。まず、金星が月のように、満ちてはかけているような錯覚。そして、金星が大きく見えたり、小さく見えたりする錯覚・・であった。ガリレオ自分が感じた錯覚を図面に表し「もし、この2つの現象が事実であったら、地球は運動している可能性もある」と考えたのであった。これらの推察を、彼は「天文対話」という本で表現したのである。まさにSF小説風である。

近代科学のもっとも重要な考え方、実験と観測という方法論を数学を用いて検証したのである。SF的科学がここに成立するわけである。

なぜ、私がSF的と考えるのかは、歴史的背景がある。すなわち、学問の頂点は神学であり、政治はキリスト教の概念に制約されていたのである。こんな時代にあえて打ち首になる事を想定せずに、国家に反逆する事を、彼ほどの知性が行うとは思えない・・というのが私の考え方の根拠である。

ガリレオは世界最古の大学といわれるボローニャ大学で学問を学んだ。彼には6人の子供がいたが、生計は苦しく学問(大学教授)では食べていけない時代であったので、見張り台でのアルバイトや小説を書いて、収入を確保せざるを得ない状況に追われていたようでもある。すなわち大学教授とは、其の頃、地位の無い、また収入の保証されていない職業だったのである。

彼の功績は天文のみではない。ピザ大学の教授をしていた頃、有名なピサの斜塔の上から、ロープをたらしたて振り子の原理の実験を行った。彼がいなかったら、時計という時間を計る機会の発明はもうすこし遅かったかも知れない。

また、ガリレオの発想がなければ、天体の楕円運動理論(ケブラーの法則)も発見が遅くなり、まして、ニュートン力学などは、100年遅れていたかもしれない。

となると、フーコーの振り子の法則も、いまだに証明されていなかった・・なんて事もあったかもしれない。歴史に「もし」は禁句であるが、ガリレオが「地球が天を回っているかもしれない」という仮説を立ててSF小説仕立てをしなかったら、逃げ場を失っていたのではないかと考えてしまうのである。

ガリレオの誤算とは、SF的に「地球回転仮説」を提唱した事が、あまりにも大きな反響を生み、宗教批判と捕らえられてしまった・・という誤算なのである。

宗教学者コペルニクスの仮説も、ヨハネス・ケブラーの仮説も・・さらにはアイザック・ニュートンの力学も生まれてはいなかったかもしれないし、実験と観察を数学的に裏付ける・・という科学手法の発見ももうすこし遅かったのかもしれない。

ガリレオの誤算は1994年頃まで引きずる事になる。すなわち、彼の死後350年間キリスト教は、天動説を否定した罪を彼に押し付けていたのである。

科学を数式で証明するという考え方は、ルネ・デカルトの方法序説とも密接な関係を構築する訳だが、このような話を事実至上主義的暗記にしてしまう、日本の教育制度ももうすこし、検討を要するようにも思うのだが・・・科学は「誤算」と「思い込み」によって裏づけられてきた事は、今日でも変わらないように思う。

私も、言いすぎには十分配慮しながら、コラムル?事を心がけようと、思う。

 

プラトンの策

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今日は頭が重いので、アランの経済随筆集を読んでいた。アランといえば「幸福論」が有名であるが、経済に対する洞察力も鋭い。彼は哲学者でありながら、生涯高校教師として過ごした。ソルボンヌ大学の教授となれる才能を持ちながら、教師の道を貫き通したのである。彼の教え子にはシモーヌ・べイユがいる彼女は「美の必然性」を定義した哲学者とも言われている。彼女の言う美は美そのものである、それ以上でもそれ以下でもない。美そのものをそのまま評価する・・ということの重要性を説いたのだ・・と僕は思う。また「美は恒に約束するが、決して何も与えようとはしない」美は何も与えない・・ということなのだろうか。哲学は難しい。

それとは対照的に「愛」がある「美意識についテ・」・という表現は、シモーヌニ始まりを見るのである。愛についても多くの哲学者や社会学者が挑戦した謎であった。スタンダールやラッセルなど文学と哲学の分岐点上に存在する愛に社会学者エーリッヒ・フロムが参戦して、混乱を極めた20世紀でもあった。

ちなみにアランは「幸福」を哲学線上に形而したのであった。

幸福、美、愛とは、少なくとも文学であり、あるいは宗教の理念ともいえるものであった。そのようなものを哲学や社会学に形而して検証する。それはモダン思想に進みポストモダンへと変化を促す。

思想とか哲学とかいうものは経済の発展というか、豊かさの代償として、確実にその価値を低くしてゆく。価値の基準は貨幣の量に起因して、正に21世紀には、経済の基準でありながら、1日に700億ドルもの仮想経済を産み落とし、見事にその仮想性を証明するにいたるのであった。アメリカ経済の荒廃の一員にはミセス・ワタナベという主婦の市場参入を見るわけであるが、経済学者の論理に合わない投資や売りを繰り返すジャパンマネーは200兆円ほどの規模であったとも想定される。

アランは19世紀に10年後を予測していた・・それがアランの経済随筆集である。彼は10年前に「それはプラトンの策であった」とも軽々言う。プラトンを読み尽くし、アリストテレスやルソーを読み、サント・ブーブやデーヌ、ルナンは無視し、スピノサ、モリエールや・・ラシーヌ、フォンテーヌなども物にした。といわれているが、彼は生涯を高校教師として、難しいことを生徒には教えなかった。

そういえば、大学時代の西洋哲学史の時間にK先生がキルケゴールの話をしながら「哲学もそろそろ、わかりやすい言葉で話せないモノなのか・・」と60分間思索に落ちてしまったことがあった。確か矢内原伊作の話に進んだときであった。ボクは偶然彼の「海について」を高校時代に読んでいたので、少しはまってしまった。

難しいことを難しく説明するのが学問?

もう少し、解かりやすい言葉で・・・と、1985年、デンマークにキルケゴールを尋ねた時「哲学の庭で彼がボクに同じことを語ったような気がした。そう、間違いなく気のせいなのだが、いまだに記憶に残るのは何故なのだろうか?

正に、プラトンが2500年前につぶやいた「策」が今でも呪文のように人間社会の混沌を表現して余りある、アランの哲学である。

良かったら一度読んでみるといい。アランは通称でエミール・オーギュスト・サルテイェ・・だったと思うが、いつもの通り、曖昧な記憶でも在る「幸福論」が有名だが、何でも良い。

文学に親しむことも重要なことだと思う。

ジャパンカップ新潟大会

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リード競技のジャパンカップ新潟大会に競技順が発表された

http://homepage2.nifty.com/jfa/compe/schedule/info/ljc09_order.htm

ま、家の選手も、ちらほら出場するようになってきたので、なかなか臨場感が出てきて楽しい。

参加選手もレベルが高く、久しぶりに良い大会になりそうな予感がする。世界レベルの選手からベテラン、そして今売り出し中の若手が競い合う大会はそんなにおおくはない。ジャパンカップは貴重な大会である。当然十分な調整をして望むのだろうが、10台の選手はやはりジュニアオリンピックに照準を合わせている様にも考えられる。

ユースの選手に大切なことは勝敗よりも、今の自分に足りないもの、そして更なる上にたどりつくには、何が必要なのかを感じる「クオリア」である。

感じただけでは上には行けない

教わるだけでも、それ以上は望めない

自分にしかできない事を「クエスト」するのは容易なことではない

また、見つけたものを継続することは、更なる困難を覚悟しなければならない。

Qualia(クオリア)とは、最善を感じる能力のことである。

Quest(クエスト)とは探求する精神をさす

Sustainable(サステイナブル、中学では習わない英語)とは未来に持続する可能性のことである。

自分の考えたことに、迷うことはない。

自分の感覚こそが最高のideaでありelegantな感覚なのである。

英語には、基本とは[Moving in the field] という格言が在る。簡単な言葉であるが、単純な動作ということではない。少し自分で考えてみてほしい。不明な英語は自分で調べなさいね。

 

 

 

クライミングの大会にも新型インフルエンザ対応についてさまざまな見解が発表されています。しかし,対オにおけるマスクの対応義務については日本でのマスク年完成生産枚数は1億4000万枚規模であり、4倍の増産体制が製造メーカーすべて50社に整ったとしても、年間国民一人が4枚しか使用できない枚数にしかなりません。ここでもほとんどの薬局スーパーで「欠品中、次回入荷の予定が立ちません」とかかれています。行政などの冷静な対応がなければいけないと思います。すなわち不可能な対策は意味がない・・ということです。

イギリスではすでに新型インフルエンザ対策ワクチンを9000万株確保したといおう話もありますが、自分の国民分確保したから良い・・という物でもないとないと思います。

世界的な見地に立った対応こそが重要なんだと思います。今回はメキシコに始まりましたが、いつ自分の国が発祥国になるとも限りません。特に生物の進化とウイルスは密接な関係にあります。単にウイルスが敵ではなく、ウイルスが生物全体の進化に貢献していたことも理解すべきことだと思います。

ハチは刺すから嫌い、くもの巣は嫌い、とかいっても益虫であることに変わりはありません。人間の利益を優先して善悪を判断するのではなく、地球の利益の為に何故淘汰があり、種の絶滅があるのかを考えたいものですね。生態系は理があって成り立つものです。もう少し自然界の公共性も考慮した議論と対応を、望みます!!      辛口かな?

地球号という宇宙船

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宇宙船地球号という名称は19世紀、アメリカの政治学者ヘンリー・ジョージの「進歩と貧困」とい書物の中に描き出された言葉である。その言葉を継承して?宇宙船としての地球号という言葉を一般に広めたのは同じくアメリカの思想家であるバックミンスター・フラーであると言われている。意外と昔の人はロマンチックな表現を地球に形容したものである。その地球が太陽系に誕生したのは今から、ほぼ46億年前、太陽の2次成長に伴い惑星配列と月を含む現在の環境が整うまで、ほぼ2000万年という想像を絶する速さで、いわゆる太陽系という光星集団が生成されたとも言われている。

今から、ほぼ45億8000万年前までは、地球の1自転時間は現在の1自転周期のほぼ5倍の早さだったという仮説も在る。そのような高速回転を地球がしていたのなら、地球上には生命は育まれなかったのである。すなわち地球は今から45億8000万年前に、太陽の公転周期と自転周期がほぼ決定したのである。

太陽はあれから(46億年前に誕生して)限りなく膨張を遂げながら光星としての成熟期を迎えようとしている。いわゆる赤色光星にこれから成長を遂げようとしているのである。おそらく今日から50億年先には太陽は3次成長期に入り、巨大化してゆく。その頃には水星と金星は完全に太陽に飲み込まれているのであろう。ということはすでに地球は灼熱の大陸と化しているのかもしれない。

さて、わが太陽の質量は、太陽系のすべての質量の99.99%をすでに占有しているのである。すなわち宇宙的規模で考えるなら、太陽系とはそのすべてが太陽であって、惑星の存在はないに等しいのである、地球の表面積において考えるなら、太陽系の質量における地球という存在は、地球の陸地におけるツバル共和国以下の面積でしかない・・ということである。

それが同でもよいことか、大変なことかはそれぞれの考え方に任せるが、ちなみに宇宙船地球号は自らの意思で太陽系を自転、公転しているだけではない。銀河系を太陽と共に自転、公転模しているのである。銀河の中心には太陽ではなく、我々の概念では「天の川」が存在する。それは無数の若い光星群で成り立っている。その数は釧路川に産卵する鮭の卵の数の比ではない。正に天文学的数字としか言いようがないほど、太陽の卵がうごめいているのである。

そう考えると、地球がいかに小さな宇宙船かが想像できよう。

ちなみに宇宙船地球号はその生成から今日46億年の間に、銀河系を何周したのかを考えたことがあるだろうか。ちなみのボクはさ仮説を立てて計算したが、おおむね20万回銀河系を公転したと言う答えを見出した。その速度はほぼ高速の4倍にあたる、すさまじいスピード(速さ)ではあるが、宇宙船間大和のようなイスカンダルまで到達する早さには程遠い遅さでもある。すなわち私たちの科学料では、光速の数万倍という論理を科学で証明するには至らないのである。

なぜなら、大マゼラン星雲は14万8000光年の彼方にあり、地球時間でいうなら1公転太陽系時間で帰還しなければいけないのであるから、計算したい方は計算してみるといい。

現実的宇宙理論で考えると、太陽は恒に核爆発をその体内で繰り返すことで、その莫大なエネルギーを放出している。おそらく人間が1年間に使用する化石燃料の消費量は太陽が放出するエネルギーの1ミリパーセントの使用が可能になれば、その10万倍ほどのエネルギーを獲得できるのである。太陽エネルギーの利用は宇宙船地球号にとっては正に無限のエネルギーになるのである。

そうなればイスカンダル星への渡航も可能になるのではないかと、ボクは想像する。

そこで考えだされたのが「宇宙の存在を、糸の揺れ、たわみから発生する」という仮説に元づく紐理論なのであるが、かなりエレガントな発想で科学というよりフアンタジー的な要素を含んでいると、ボクは考える。その発想は南部さんに始まりブライアン・グリーンに引き継がれてゆくのであるが、興味のある方は「宇宙を織り成すもの」(ブライアン・グリーン著)を読んでみるといい。

嘗てアイザック・アシモフは「ファウンディーション」という長編SF小説でハリ・セルダンなる歴史心理学者を生んで、宇宙の持続可能性を示唆した。手に汗握る傑作SF小説である。この物語るを読んで見ると、SFが近未来に起こりうる可能性を感じるのは、ボクの頭が非科学的なるガゆえのことなのだろうか。

自らの意志で地球が生命体として生きている・・という考え方は、バックミンスター・フラーとは対極をなす考え方だがNASAの化学者ジエイムズ・ラブロックの地球生命体仮説というのが在る。この考え方も化学者とは思えないエレガントなそしてスマートな仮説であるが、多くの科学者やジュール・ベルヌを超える小説家といわれるウイリアム・ゴールデンが「ガイヤ仮説」となずけたが、なかなか気の利いた名称である。少し反論するなら、彼がジュール・ベルヌを超えた小説家であるという考え方には賛成できないが・・・。

人間に潜む「狂気」が宇宙を滅ぼす原因になりうる可能性も考えながら、私たちは文明化した現在の科学力と有限な化石資源の消費による、今日の経済発展の代償を、対価として宇宙に支払うべきときが来ることも想定して、我々の未来を考えなければならないのではないかと考えるのである。

地球とはそれ自体が生命体であるのか、それとも、我々人類を含む生命体の乗り物であるのかは、ハリ・セルダンにような未来心理学者の出現を待たなければ究明しえない科学なのかもしれない。

しかし、それは科学というより文学といったほうが近いのかもしれない。

近い将来日本の大学にも文学部物理学科とか理学部宇宙心理学科のような新しい科学が存在する時代が来るのかもしれない。

すべての学問を総括する・・それはこれからの文学の氏名なのかもしれないと、勝手な憶測をしている、私がここに居る。

長くなってしまったが、誤字変換ミスなどは、ご容赦願いたい。

 

冷静な対応

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あれはボクは中学2年のことだった。4月に父の仕事の都合で転校する事になった。これから・・というときにさまざまな別れがあり、かなり落胆していた。新しい中学は標茶という町で、町の中央には釧路川が流れていた。学校の校舎は古く、今にも倒れそうなくらいであった。生徒も悪ガキがおおくて、喧嘩になれていない僕には厳しい環境であった。剣道が強く、スピードスケートが早く、マラソンも早く・・そして勉強も意外と強かったかな?そんな一見優等生のボクは、すこし心が壊れかけていた。ほぼ毎日いじめっ子が「オイ、ムカイ・・ちょっと来てくれるか」と、呼び出されるのである。

知り合いもいない、当然、友達もいない・・。心は完全に折れかけていたのだった。それを忘れられる時間は、剣道だったりランニングだったり、縄とにだったり・・・。でも、あんまり呼び出されて殴られるので、気持ちが理性を失ってしまって、2階の窓をはずして、呼び出すいじめっ子どもにめがけて投げつけてしまったのである。ガラスが割れるけたたましい音と悲鳴・・・。あいにくけが人は出なかった。

当然のようにボクは担任の先生に付き添われて、校長室を訪れた。気持ちが弱く、張り裂かれそうな気持ちを抑えるのがやっとだった。

何故、黙っていじめられていなかったのか、もう少し我慢できなかったのか、先生にいじめられている事実を話せなかったのか・・いろんなことが頭の中を渦巻いていた。

校長室には、教頭先生もいた。何を言われるのか、親の呼び出しもあるのか・・教頭先生はうるさくわめいていたが、何を言っていたかは記憶にない。ただ、担任の先生が、ボクが窓枠を2階から投げたいきさつを話した後、少しの沈黙があり、校長先生が言った

「元気がいいな」

ただ、それだけだった。

校長先生の名は一戸勲。彼の書いた色紙は今も会社に飾ってある

湿原に ぬくもり抱き 鶴翔る

教育とは何かを今考えると、一戸勲先生の、あの冷静な対応が今でも心に蘇る。

そのときの担任は羽柴先生であった、どちらもなくなられている。しかし、転校して友達もいない孤独な時間を埋めてくれた、見事な教育がそこにあったと今でも感謝している。

あやめ花咲く釧根の原野を染める朝ぼらけ・・・百田宗治の詩が今でも耳に残る。

優れた詩は幾重にも語り次がれるものなのだ。同じように優れた治世を行なった政治家は、庶民に語り継がれるものなのだと思うのだが・・・

ボクは今でも思うのだ。あの時の標茶中学での2年間は、ボクの人生でもっとも重い2年間だったようにも思えるのだ。あの日、ボクをいじめていた野郎どもは、今でもボクの一番の親友たちである事に変わりはないのだ。

昨年、20年ぶりくらいに釧路湿原を訪れた。あの頃の仲間が、ボクを迎えてくれた。「お前には随分いじめていただいたな・・今日は仕返しをしに来たぞ」と、皆で楽しい時間を共有した。

時間の経過が、辛い時を、かけがえのない時間に塗り替えてくれていた。本音で付き合う事の大切さを思い知らされた昨年のクラス会であった。

 

 

過剰反応じゃないの?

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関東地域での関西方面への修学旅行の延期や中止を検討している小中高校が2000校以上も在る、というニュースが先ほど流れた。過剰反応ではないかと思うが、通達元は教育委員会のようだ。文部科学省は『一律自粛の段階ではない、冷静な対応を」と呼びかけているが現段階では過剰すぎるように思う。娘の通う中学でもそんな話が出ているようだ。今後を見守りたいが・・・。

冷静な対応をすべき事は多々あるようにも思う。抑止力や核軍縮。世界的な人口爆発と日本の少子高齢化対策、食糧問題。極東地域での経済交流や支援問題など、国内では、民主、自民の民意を考慮して・・というより、やっつけ仕事ではない、持続性の在る政策・・総選挙で何処の誰を支持するか・・笑い事ではないコンカツ?

大切な事は後送りで、マスコミが騒ぐ事には敏感な国民感情・・冷静な対応をしていないのは、マスコミや報道番組ではないかともおもうのだが・・。

意外と子供たちは、淡々と冷静に対応しているようの見える。

ここへ来て戦後政治の集大成のようなみ自民と民主の党首対決は50年前の『おじいちゃんの戦い」の再来ではないか・・とも思える構図である。世論を無視した吉田。世論を背景に神の掲示を受けた鳩山の両孫対決である。こんなときに「議員の世襲を禁止せよ」とか「政権を取るてもの組織」だとかどちらを見ても、民意や世論を考えていない政治家ばかりのような気もする。

必ずしも民意を政策に反映させなくてはならないとも思わない。世論を敵にして、しかし民主主義を資本主義から奪い返す政治も必要な政治だと思うが。官僚政治は昔からの事で、つぶすもつぶさないもない。やはり官僚は」頭が良い!

何故、政治家と官僚が対決しないといけないのかも、僕らにはわかりえない現実だ。それも自分の父を元高級官僚に持つ鳩山氏が考える「官僚をつぶす」という民主政治とはどういう政治なのか、具体的な方向性を見せてほしい。

世論を無視し「国民はバカやろうだ」と言い切ったのは麻生氏のおじいちゃん吉田茂である。世論を「神の手が下りた」と味方に付けて総理になったのは鳩山一郎である。しかし、ここには実力の在る官僚が多々存在していた。そんな日本の優れた官僚も政治家をギャフンといわせる論理で攻めてもらいたい。

な~ナ^・・でのノーサイドほどつまらに試合はない。実力伯仲、理論には理論で、しっかりと対決して日本の将来の舵を取ってほしいと思う。

民主党も自民党も変わる要素を、国民に示さなければ、思わぬ伏兵に足元をすくわれるかもしれない・・。

政治力とは詭弁とか反論が上手いとかそういうものではない。事実は子供の目には事実としてしか見えないものだ。

アンデルセンや開口健の裸の王様にならないように・・もっと政治を行なってほしいと思う。国民が感じる直感は、なめると怖いよ!!  政治家諸君!

鳩山氏が民主党党首に

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なんとなくそんな気配を感じていたが、世代交代より自民党に強い民主党を選んだんだろう。しかし、思った以上に岡田サンへの投票も多かったようだ。内部にはまだ相当のわだかまりがありそうだ。決して彼らが言うように「一枚岩」ではない党としての現実がありそうだ。となると解散に向けての準備が進んでゆきそうで、自民党も奮起しなければなるまい。ボクは麻生自民と鳩山民主の対決を見たい。もし、政権与党が変わったら、本当に政治が変わるのか、その行く末を見てみたいとも思う。

鳩山さんの祖父は鳩山一郎といい吉田首相の後を引き継いで内閣総理大臣になった。そのときは自由党と民主党があり、鳩山氏の祖父は民主党の党首であった。政権与党を取るには、そのときの民主党も基盤が零弱だった。しかし豪腕吉田茂の「バカ野郎」発言「馴れ合い解散」「抜き打ち解散」など国民を無視するかのような言動は、国民の反感を呼び、世論が始めて与党から政権を引き摺り下ろした・・ともいわれている。

そんな祖父の下、鳩山由紀夫は何を学んだのだろうか?父、威一郎は大蔵省?の高級官僚だったと記憶している。父の元に、官僚の体制を熟慮している人間なのかもしれない。

又、祖父一郎は「若き血の清く燃え」なる妻に出した書簡集も出版されている。ロマンチストだったのかもしれない。吉田茂の退陣した後、第一次鳩山内閣発足後に、議会を解散して国民に真偽を説いた事は有名な逸話「天の声を聞いた」となって戦後史に新しい民主政治を招いたと言われている。

由紀夫氏には何かがあるのかもしれない。

最近、政治家の世襲に嫌悪感をあらわす政治家もおおいと聞く。しかし、もともと我らが村のお殿様は世襲が原則の日本文化である。世襲的な政治を大事にする土壌も日本にはあると思う。

一方、裁判員精度は日本の古来からある賞罰制度には反する考え方ともいえると思う。アメリカは開拓時代から、犯人か否かを民衆が決めていた。それはフランスにも同じである。日本では南町奉行所の大岡越前の守ではないが、裁くのは守(かみ)であった。このように、幾ら近代化・・とはいえ、近代化は欧米化することとは、一概には言えないのではないのだろうか。

新しい政治に必要なものは、民主主義を資本主義から奪い返す事ではないかと、最近、思う事がおおい。誰かの説ではないが、超資本主義の呪縛から民衆を守る政治こそ21世紀の政治のあり方のように思うのだが・・・。民主党には期待しないが、鳩山氏には期待したいと思う。

頑張れ「鳩山民主政治」

走性と刷り込み

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この考え方の基礎を築いたのはイギリスの行動学者(ノーベル医学賞受賞)コンラート・ローレンツに起因している。一般的に動物は(人も含めて)単純な刺激によって思考を伴わないで行われるものを反射といいう。スポーツにおいては「体が勝手に動いた」といわれる行動で、自分でもどうしてあのような行動をして自分を勝利(あるいは失敗)に導いたのか、理解しがたい行動をさす。

一方で、一定の刺激に対して特定の行動(あるいは解決策)を意図的に狙い、導かれた結果に対する結果を予測して行う場合を走性という。この場合は「なんとなく、あそこが勝負所だった」とか「あのチャンスを狙っていた」という表現で表される。

クライミングにおいてのオブザーベーションは、動作の基点から終了点までの刺激(ルートの読み方)に対する読みという創造性を具体化する思考的行動であると考えられる。

この具体的な行動様式にいたる過程(予測)において、予測と違う場合が生じたときの読みの変換作業の思考と行動の上手な人を「高い技術)と評価するのである。

この思考と行動の変換作業の全てのプロセスを走性というのである。

このような考え方で走性を発揮するにあたり、男女ではその行動様式と刺激に対する反射と認識の仕方は異なる、と人類学者ヘレン・フィッシャーは定義している。

走性を一定の方向に導くのは、脳に繰り返し行われた失敗に対する認識のレベルが遺伝子に継承されて男女差となって現れるとも、エレンは脳科学との共同研究で証明しつつある。

それは脳の内面で行われるクオリアという現象的側面に起因していと脳科学では考えられつつあるようだが、人間が「なんとなくそう思う」とか「ああいう感じで」という風に感じる感覚は科学では究明できない感覚であると考える科学者も一方では多々存在する。また、クオリアについての具体的な話も、難しいので、改めて行います。

すなわち想像力は、なんとなく無意識的にひらめく才能であって、実験によって例外なく証明する事ができたのなら、個性とか芸術性の意味合いがあいまいになるような気がしてならない。

脳に走性の方向性を導き出す行動は、すなわち同じ事の繰り返しによる学習効果とも考えられた。ローレンツの言う刷り込みとは、脳に記事見込まれた失敗の蓄積(インプリンティング)によって修正されるという事が動物の行動様式に回帰性を導きだし、種としての行動様式に一定の傾向を導き出し「あれは鮭科だとか、犬の一種だ」とかという人間(アツイは動物)走性という思考と行動を伴った指向性を生むものと考えられている。

もうすこし解りやすく言うと。「なぜ、あの時、あの行動を選ばなかったのか」という反省材料を生むのは、刷り込みといわれる、同じ事の繰り返しの中に生まれた失敗の事例に対する、個々人の認識の深さに、改善の方向性を示唆するものが存在する・・という事である。

少し難しかったかな?

少し難しいけど

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明日は「走性と刷り込み」という行動学の概念について、触れてみたいと考えています。マ、不明な点は練習中に聞いてくださいね。今日はお疲れ様でした。オール神奈川では拓が優勝でした。最近は調子がいいけれど、調子に乗らず、基本練習は休んじゃいけないよ~

現代登山史について

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昨日、「二人のアキラ 美枝子の山」という本が出ているのを知り、思わず注文してしまった。ボクが大学に入って登山を始めてのが1975年である。毎日本屋さんに通って、山岳関係の書物は手当たり次第に読みまくった。限られた財源から山の装備と書籍購入には惜しみなくお金を費やしたものだった。僕の先生がRCCⅡなどの元代表?をしていた事もあり、奥山章さんの話は秘話というわけでもなく、普通に先生の口から伺うことができた。先生のおかげで書物でしかあえないと思っていた多くの登山家の方ともお酒を飲んだり、一緒に山に行ったり、生意気にも彼らとザイルを組んで岩を登ったことも多数在った。

美枝子さんとの山行きも、そんな一つであった。いつもなら多数の参加者があるのが常であったが、彼女との山行きは、驚くほど少数の山行きであった。記憶が正しければ、7回忌の法要山行きであったと記憶している。あれだけの登山家を支えた女性である。その気丈さとたくましさはすごい迫力で、ボクを圧倒していた。彼女の口からは、遠い日の「二人のアキラ」の思い出がとつとつと語られたのであった。そんな、二人の登山家を育てた女性の物語をぜひ読んでみたいと思った。(5月10日)

1Lの鼻水

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鼻水は有害な存在でも、厄介な現象でもない。そんなことを解かっていながら、鼻水を止めたがる、鼻水をたらしている子供を「汚い」と考えてしまう。も、鼻水がなかったら、夜中に体は乾燥して枯れてしまうかもしれない。また鼻水は空気による感染を防ぐ有効な手段でもある。又、体温の上昇を抑えたり、上がりすぎた体温を冷やす効果もある。鼻水は毎日1リットルも体は作っている。必要だから作るのであって、人体は有害なものを作りはしないのだ。

たとえば、夜に人間が流す汗は、牛乳瓶2本分?「下それ以上ある。それでは体温の維持ができない場合もあり、それ以上の水分の調整には、鼻水が体温の調節に乗り出す。右の右の鼻にたまった有害物質を乾燥させて、いわゆる「鼻くそ」を作る。そのときは左の鼻は、オープンにしておいて、空気の湿度調整を図るのだ。鼻の穴は、2個あって一つの働きをする、だから耳は2個あるのに、鼻は穴が2個でも一つと勘定するのである。

毎日毎日鼻は1リットルの鼻水を流す。その水分は体外から補給されなければならない。すなわち鼻水を作るだけでも1リットルの水分の摂取が必要なのである。私たちはもう少し、水分の補給を必要としている。俗に言う「水太り」なんて言葉は、医学や健康には根拠のない俗語である。水分の補給は身体の代謝にも関係がある。単に体脂肪を少なくするとか、体重を減らすことによってのみダイエット効果は得られるのではない。

そういうことも考えながら日常を過ごしてみるといい。こんな、鼻水のことを考える以外にも、体の不思議は多々ある。よくないマスコミの煽動に乗る前に、冷静に科学的に、考えてみることも大切な練習である。

地球はどこから来たのか

おそらく46億年の昔、私たちが言う地球は、ここに生まれた。その気が遠くなるような歴史のはじめに最初に月を生んだという。おそらく今から45億8000万年くらい前の事である。月が地球の35万キロ彼方の軌道を地球と同じ速度で回るようになって、地球はその自転速度をほぼ24時間に設定した。

この作業は、やがて地球に、生物の進化を促すのであるが、驚くべき神がかり的な仕業である。もし、地球が唯一の化身である月を生まなかったら、地球には重力は存在することなく、その驚くべき速さの自転速度に数千年で消え去っていたかもしれないのである。

こう考える根拠は、理論天文学に存在する仮説でもアル。僕の創造もかなりの部分を占めているのかもしれないが。

おそらく、われらが太陽系は銀河系という宇宙空間を高速の数倍という速度で公転し、2億2600万年で銀河を一周すると言われている。その途方も無い速度を、私たち人間や地球のいかなる生物も感じることは無い。あまりにも不可思議で途方もない早さである。

夜空の星を見ていても、人間の目で数えられる星の和など知れている。おそらく6000個程度である。銀河系には恒星は2000億個ほどある。そんな銀河系のような途方も無い大きさの星団が現在宇宙には80以上もあると考えられている。しかし、それは人間の科学で想定された和にしか過ぎない。

さて、話題を宇宙から地球に戻そう。高速で回転する生まれたての地球が月を生んだ後、何をその大地に産み落としたのかは定かではない。しかし、32億年前には、大地(岩)が存在して、海のようなものが存在し、生命の起源である細胞の出現を見るわけであるが、その死骸の堆積が改定へと沈み、おそらく8億年前辺りには、化石燃料(石油など)が既に形成されていたのであろう。詳しい話は地球の歴史、地質時代でも参照していただきたい。

それは人類に産業を興し、科学の発展に寄与するために地球が生み出した資源ではない。われわれ人類は地球の許可を得ることなく、わずか200年ほど前から、それらの化石燃料を使い始め、そしてほぼ使いきろうとしているのである。

すなわち32億年もかけて地球が育んだ資源を、わずか200年で食いつぶしているのである。

人類の誕生とはいったい何時ごろなのであろうか?それははっきりとは解ってはいない。しかし、今のところの学説によると、西アフリカにホビートと呼ばれる平地を歩いた可能性のある遠類の誕生は400万年くらい前であると考えれれて居る。

しかし、文明というか石を持ち火を操り、時間の概念を持ち合わせたのは、1万年くらい前頃からとしかいえそうな痕跡は見当たらないのである。

さらに宗教とか時間測定、狩猟採取生活から定住へとその文化を進化させるにはあまり時間を要しなかったといっても良い。人類が築き上げた文明の痕跡は1万2000年頃からの可能性はありが、科学的根拠を見出すにはいたっていないのである。

最初の人類、わらわれの祖先が猿と分かれて独自の進化を促したのは、200万年くらい前だったかもしれない。はっきりといえるのはクロマニヨン人であり3万年くらい前であるのかもしれない。

3万年くらい前から1万年くらい前に急激に人類は石を削り、石を投げ、石に刻み、石を積む・・という文明化に目覚めたのである。

はじめの人類がなぜ木から石にその矛先を変えたのかも、解き明かせない謎であるが、私たちがクライミングという行為をスポーツとして楽しんでいるのも、こんな人類の人家の過程と考えるのは、私の思い込みの強さのなせる業なのであろうか?

ついこの間まで、クライミングは自然の石(もしくは岩)のみがその対象物であり、未踏こそがその行為の崇高性の尺度であった。

石は、地球が人類に与えた最初の啓示であり、地球上の最後のフロンテイアなのかも知れない。

もし、これが「賢者の石」であったのなら、神の啓示に頼るなら「われわれはその進化の過程に終止符」を打とうとしているのかもしれない。

20世紀中期に開発された核兵器はその数を肥大化させ、地球を幾度消滅させる事ができるのか計り知れない。

同じく20世紀中期に24億人ほどいた人類はその数をあと100年以内に100億人へと爆発させようとしている。しかし、日本人など一部の民族はその数を急激に減らそうとしている。それは民族の滅亡を確実に示唆している。

こんな人類の野望と偽善を地球は何時まで許そうとするのであろうか・・・?

最近はこんな事ばかりを考えているのである

地球は今

毎日人類は消費しているエネルギーは化石燃料に換算すると膨大な量になっている。おそらく、業革命に起きる以前とそれ以後では、創造のレベルを超えているような気もする。具体的には2005年度アタリで年間90億トン規模といわれている。産業革命以前は太陽エネルギーと少しばかりの焚き火位であったと思う。

太陽エネルギーは毎年地上に1兆2000億トン以上のエネルギーを地球に供給しているが、私たちはそのエネルギーの10万分の1以下の消費しかしていないのである。地球の地下資源を消費することなく銀河に存在する、200億個以上の恒星の・・その僅か1個の太陽エネルギーさえ科学的な利用が行なえてないのが現状なのであろう。

地球は今、温暖化の波の洗われている。その大半は人間が作り出した反資源であるCO2によるものではなく、地球の、おそらく6000年に一度の高温期が自発的な温度調節として行なっているにしか過ぎない。

地球を人間が守れるほど、地球は人間との共存を求めていないかもしれないし。一方、人間は抑止力による戦争会費の手段としの核兵器を最大4万発以上保有している。数字上は1989年以後24000発に削減されているはずなのだが・・・。

広島や長崎に投下された原子爆弾のレベルの数十倍の威力を1個が有する方が地球にとっては脅威なのかもしれない。しかし、それは人類にとっても相当な脅威である。

人間は人間を敵として、地球さえ消滅できうる核兵器の依存から脱却できていない。

それは地球の現状ではなく、人類の現状である。

今、人類が直年している課題は多い。それは、在る意味では地球が直面している課題でも在る。こんなときアイザック・アシモフのSF小説ではないが、歴史心理学者ハリ・セルダンのような数万年の未来の宇宙がどうあるべきかを理論物理学で解き明かす預言者の出現が必要なのかもしれない。

人が火を操り、石を積み、ゆっくりと築き上げてきた1万年からの歴史を僅か200年あまりの科学という名のエゴによって人類は存亡の危機に立たされている・・と、感じている人はいないのだろう。

第二次世界対戦の時もそうだった。「世界が戦争している」という実感を感じていた人は世界人口の僅か2億5千万人ほどしかいなかった、という人口歴史学上の仮説を唱える科学者も居る。

なんとなく人類は地球の審判の上に立つ。そんな気がしてならないのだが、いかがなものだろう?

 

ウイルスとクオリア

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人類学的な話をするときに避けては通れない話がある。それは性差の問題でもある。最近は文学的な歴史研究に科学がさまざまな証明を加えてきた。しかし、一方で「それは捏造です」「非科学的です」と実験が論理や法則性を翻すこともおおい。しかし、人間の想像力に科学がメスを入れることはできても、それを科学で証明することなど、できるはずがない。と、私は考えている。

そう言う見地かラ、以下の考察を展開するのであって、この考え方は15歳以下には閲覧を控えていただきたいと考える。また、以下は私の思索的傾向を意図したところでもあるので、論争の根拠とは考えないでいただきたいと思う。

想像力と科学「なんとなく感じる」の文学的接近

生物学的に考えると、ウイルスは生物ではないという。その根拠は細胞がない宿主を媒体として生息あるいは繁殖するが、その組織は一定ではない。ゆえに非生物という位置にウイルスは存在すル。ゆえに何かを破壊するような非秩序的行動はウイルスに例えられる。コンピュータウイルスは非生物であるからウイルスに該当する・・ということである。
ウイルスはピポグラテスの時代にすでに考えられていたようだ。おそらく今から2500年ほど前のことである。多分ばい菌の一種としてであろうが、細菌とは違う病原媒体という考え方でウイルスといっていたのかもしれない。
人間が存する限りウイルスは恒に我々の傍らに存在して、離れることを知らない存在で、恒に害をもたらすものとして人間には恒に嫌われる存在で在り続けるのであろうが、考え方を変えるなら、人間が恒に拭い去ることのできない「煩悩」とか平和に対しての「戦争」とか、あるいは愛情に対しての「憎悪」とかいう感情のように「いけない」という否定的な感情の根拠の5半数はウイルスなのかもしれない。
満たされていない、満たされたい。悪行を働いてしまった、よりよく生きたい。というように、恒に人間に反省を促し、善行に向かわせる触媒と考えるのは、行き過ぎた考え方なのだろうか?

異性に思いを寄せることは、いけないことではなく、性差による本能であろうと思う。
端的に行って、性交渉を忌み嫌うのは文化の概念であって、本来は種の尊厳的行為であると考えるべきであろう。
人権や価値観の多様化や文化の高度化によってもたらされる社会現象は恒に相対する価値観を生み出してゆくように思えるが、結婚の概念にしても、近親相姦や同性愛、性同一性障害なども、認める認めないにかかわらず、人類の歴史と恒に共存してきた概念であろう。
そういう考え方に一定の方向性を持たせ、モラルかあるいはインモラルかという考え方を形而したのは、おそらく宗教の出現によるところが大きいと思う。
その後、宗教の宗教性をどのように考えるかという学問の一つに哲学の存在を見ると思われるのだが、哲学は今から2500年くらい前には思考における人間の霊長的立場と考えられていたようにも思う、科学も文学も宗教を含む思想も哲学の領域に含まれていたのだと、私は考える。
それから2500年、我々は何処まで進歩したのであろうか?・・と考えると、それほどの進歩を感じない。
物質文明と化石燃料の消費による、著しい地球環境のマイナス方向への成長を招いていは居るが、科学が人間に招いたのは、楽と怠惰と大量消費による環境破壊と人間性の後退を招いたにしか過ぎないような気がしてならない。
しかし、一方で、視覚的に見える環境は激変した。
2000年前までは、ほとんどのオスがパンツをはいてはいなかった。それは単純に発情しているか否かが、誰の目にも明らかだったのである。デズモンド・モリスの仮説ではないが、男がパンツをはくことによって嘘をつく・・すなわち「発情を隠す」事が始まったと考えると、意外と単純なところに人間の理性の本質が潜んでいるようにも思われる。
最近の脳科学の躍進は目覚しく、クオリアの存在を科学的に証明する・・という科学者まで現れた。いいや、そういう考え方が、ここ日本では科学の最前線と認識されている。
人間の「なんとなく」とか「そんな感じ」という想像力認識を科学的に証明する・・と考える根拠がなんとなく幼稚に思われる。

言葉を変えるなら日本の天才たちの脳には科学的幻想というウイルスがはびこっているようにも考えられる。
確かに歴史学的検証によって過去を証明することは困難であり、進化論においても科学がその不合理性を科学的に証明している。
しかし一方人類学的な発想とフイールドワークによって検証されたことが、科学的に立証されつつあることも多い。

事実は実験のみでは証明できない部分がある・・という事と人間の想像力的思考(文学)との融合は、これ方さまざまな形で実証される時代へ突入の気配を感じる。

「宇宙を織り成すもの」など理論物理学の最先端を行くブライアン・グリーンの発言ではないが「将来はブンガク(文学)が物理を、あらためて証明する日」も近いのかもしれない。

最近のウイルス騒動に、冷静に対応できない、政府やマスコミや大人たちの言動に「ウイルス性を感じるのは、私だけの思い込みなのだろうか。
「あ、あの人裸だよ」と真実を見抜いた少年の出現こそ、いま、社会が必要としている「人」なのかもしれない。

(多分、今年のコラムは、こんなことを考えながらの展開になっているだと思われる、そのプロローグ的思考をまとめてみました)ロッククラフトでボクは、そんなこともたちを発見したいと考えています。

追記

まだ、難問がアル。15年前にに書いた「アウトドアにおける業態の変遷」という原稿は原稿用紙(400字)で240枚分で序説で終わってしまった。ボクは限られた枚数に文章をまとめるのが下手である。ちなみに大学の卒業論文も180枚も書いてしまって、先生に「80枚~120枚でまとめられない才覚は評価に値しないと,内容はともかく、大幅な原点対象だ」と言われて、口を尖らせてしまったいきさつがある。その後「修士論文としてなら、受け取るよ」と言われたが、内容より、枚数が重要なのかと怒りが収まらなかった。収まらないのは先生の方もであった「こんな生意気なこと書きやがって」と清書した論文で20回ぐらい殴られてしまった。そんな先生と3月に10年ぶりくらいにあったが「あの時は一番楽しかったな」といわれて、先生への恨みが晴れた・・ということもあった。

人生とは何処で、やり直しできるかはわからない。一見間違いと思える、人間関係のいきさつも、裏を返すと、意外と簡単に翻ることもアル。愛憎紙一重・・とでも言うのだろうか。一念で貫き通すことも人生には必要なことかもしれない。大学を卒業して30年が過ぎたが、歴史人類学への道はまだまだ遠い。ま、ボクの還暦祝いを先生はしてくれるという。それまで先生も、ボクも生きていれば、これ他の考え方を清書して、先生に提出してみたいものだ。

・・・一番、困ってしまうことは、これらの考え方の表題をどのようにすべきか・・ということである。今のところ「SMART SHIFT」という感じで、思考や論理は恒に画一された現象を指し示すわけではなく、時代や風土によって論理は変化するものであり、それは科学においても同様である・・という感じを一言で表すなら、そんなタイトルかな~と考えているが、なかなか難しい。300百に及ぶ書きかけコラムを整理して加筆するのも、かなり困難な作業にも思える。

 

 

午前11:05よりNHKで「ジャック・アタリ緊急インタビュー」というドキュメントがあります「文明化した・・」で少し触れた、フランス?の不思議なおじさんです。昨日(5月5日)も在ったのですが、なんとボクは微熱でム過ごしてしまいました。残念です。

考え方があまりに単純で?・・とてもユニークな方です。彼は確か、1980年代の多くをフランスのミッテラン大統領の政治顧問をしていて、ヨーロッパの経済圏統合などの事業の中心的な位置にいた人物です。実践的哲学者で最近では「21世紀の歴史」という未来学者のように、未来に起こりうる必然性についての本を出していますね。未来学者といえば、アルビン・トフラーやピーター・ドラッガーを思い出しますね。しかし私にとっての最高の未来学者といえばハリ・セルダンでしょう。彼ほど、はるかな宇宙の未来を論理的に創造した歴史心理学者はいないと思います・・。ァ、彼は、実在の人物では在りません。アイザック・アシモフのSF小説の人物です。興味のある方はぜひ読んでみてください「ファウンデーション」だったと思います。確か5巻位の長編宇宙SF小説です。ボクの一押SF小説かな?

話は変わりますが、昨日は体験クライミングに占領された1日でした。特に小学生の子供が多くて大変にぎやかでしたね。クライミングは子供たちの本能に近い運動なのかもしれませんね。しっかりと汗をかいて、遊び方を工夫して楽しんでいました。子供たちの想像力の高さには、改めて驚かされます。

一方、小学1年生でも、大人のハーネス(XS~Sですが)しか合わない子供が多いのには驚きます。習い事やおいしい物を食べさせたり、一緒におしゃれするより「オイ、お前ら、もっと運動させろよ!」ってに言いたいですね、ェ、誰に・・そりゃあ~親にでしょう(あ、言ってしまったか)

そういう自分も、娘には、甘いですがね(笑)

5月5日はあまりにも暇だったので、今年の思考的目標のウイルスと人間の関係についての方向性をまとめる作業をしてしまいました。考えて行くうちに方向性が変改してゆく可能性もありますが、ぶれずにまとめあげたいと考えています。その着想点となる考え方は

1)ウイルスとは必ずしも非生物ではない(当たり前のことか)し、生物の進化に悪影響を洗える有害物質とは限らない

2)この考え方は「ウイルス進化論」的な考え方とは志向性を異にする

3)その検証方法は歴史的であり人類学的でなくてはならない(専門家でもないのに生意気ですね)

4)「なんとなく」とか「~なように感じる」という思考(クオリア)は科学(特に脳科学)では追求できな  い(誰かを否定しているようですが、それは事実です)

5)あくまで自分の考え方であって、学問(アカデミズム)への挑戦とか、批判とか、そういうものではない

6)これらの考え方をまとめるにあたっては、自分の中では、未来への秩序と反秩序、あるいは文化の2面性の理解に対する洞察力や思考力を高めたい・・という意図がある。

7)序説で最後に申し上げたが「あ、あの人、裸だね」というような、事実を偽善や誤認しないような理性的な判断を必要とし、特定宗教を批判するような展開は、自分の意に反することである。

・・・・というような観点から、思考中に派生するさまざまな学問へは可能な限り接近を図りたい。

という風に考えています。

これ他の考え方は、一般的なコラムからタイトルを決めて、論証を進めてみたいとモ考えていますが、正直言って、今のところそういう自信はありません。

と、いうことです。興味のある方は、楽しみにしていてください、また、メールやジムでの直接討論にはとことんお付き合いしますよ(笑)

 

ちょっとした科学史

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ここでは今、オレンジのポピーがきれいですね。少し背丈が高いような気もしますが、僕の思い違いなのかもしれません。
 
タンポポの出現を見ていないのに、綿帽子が風に舞っています。それを発見したのは小学3年生の子供でした。
 
山間部では、山藤がきれいです。まだ、浅い藤色が空の青さに幻想的な淡い色彩を、私たちに惜しみなく披露してくれています。
菜の花も咲き乱れていましたが、そろそろ終わりかな。
昼は夏、夜はまだ浅い春のような不思議な季節感を感じますね
そんな朝の緩やかな時間に浸っていたら、
地球の自転速度を発見したのは、誰?と考えていました。
多分フーコーという人だったと思いますが、アリストテレスの考え方を実験的に否定したのですね。科学はここらアタリから急激に進化したのです。14世紀頃ですか(笑)
アリストテレス以来続いていた、哲学的科学が実験により実証、検証され、あるいは宗教的な概念によって否定されていた概念も大きな変革をもたらしましたね。
コペルニクス的転回とか、ガリレイの地動説や振り子の原理などの実証は、アリストテレスの大きさの違うオモリ(2つの球)と重力の考え方を否定し、地球と宇宙という球の考え方も否定して・・そして15世紀のいたるのです。
科学はアリストテレス以来2000年間にわたり、宗教と古い哲学の呪縛から開放されるのです。
アイザック・ニュートンは新たしい科学への重要な起点となりました。15世紀のことです。
ここから400年は駆け足で科学は発展を遂げ、さまざまな紆余曲折を経て存在の目視できない速さ、小ささ、創造できないほどの大きさへと挑戦をし続けるのです。20世紀の初頭にアインシュタインが考えた思考は理論物理学を形成し、そこから実験物理学へと発展してゆくのですが、科学がその発展の変遷にいかなるパラダイムを形成していたのかは、トマス・クーンが『パラダイム仮説(パラダイムシフト)』を提唱しなかったら、科学を歴史的に検証することはもう少し遅れをとっていたかもしれませんね。クーンは意外と知られていません。
 
こんな話が中学生レベルの科学史の変遷なのですかね?
 
ニュートンのリンゴでは在りませんが、些細なことに疑問を持つことの重要性を感じた、今朝の出来事でした。

世間は連休、ボクは連続勤務である。さすがに昨日は連休初日という感じであった。すなわち『すごく暇」であった。HPのアクセス数も今年最低である。しかし、スラックラインの問い合わせは、格別に多い。それがなければ、アクセス数はさらに半分・・という感じである。注目されているスポーツなのか、単なる流行七日の判断が難しいが、スポーツ関係者やアウトドアスポーツの関係者からの問い合わせが多いのだから、単なる流行では終わらないような気もする。

新型ウイルスに対する世界的な過剰反応は何処吹く風のような感じで、不特定多数が往き来するところには、人があふれているようである。ETCと家電のとアウトレットや高速道路のパーキングなどは政策の恩恵を受けているようだ。ここには、まったくプラスの影響は感じない(笑)。

老人家庭ではウイルス感染の可能性を考えて、食料の買いだめを指導する自治体もあるようだ。学校関係では、混雑する場所を避けるように、子供たちに指導があった。・・となるとここは適合地?

そんな矢先にある結婚式での祝辞の話が舞い込んできて、笑ってしまった。あまりにも的を得ているからである。以下その話を要約する

「・・・・・結婚とは山登りのようなものである。山あり、谷ありである。あるいは登ったら下りなければならない。下りてこなければそうなんである(笑い)。また結婚とは人生最大のギャンブルといっていい。最近は恋愛結婚というお試し期間があるが、登って下りてこない人が多いのは何故なのだろうか(笑い)。では、結婚生活において、何時が山の頂上なのであろうか?それは今である。後は、下るしかない(笑い)。そんなことを20年結婚生活をしていてやっとわかったような気がする(さらに笑い)。もし結婚生活に幸せがあるのなら苦労を重ね我慢を重ねた晩年に、ふ~と沸いてくる空気のような瞬間に感じるものでもあろうか(少しシ~ン)また、結婚はある意味では人生最大の冒険でもありる。人生最大の冒険を生かすには、お試し期間の存在は興ざめであろう。何事も試してみなければ解からない・・という論理はない。試さず、迷わず突き進む。それでこそ冒険である。正に人生最大のギャンブルとは結婚を指すのかもしれない。多少は寄っておりますので、不適切な表現がありましたら,祝宴の席でのことでありますので、ご容赦ください」

(鳴り止まない拍手)・・この挨拶をした奥様だけが意味深な感じでしらけていたかな?

なかなか素人とは思えないすばらしい挨拶であった。身につまされる思いで、ボクも感動してしまった。

要約すると「人生は山登り、結婚は人生最大のギャンブル、お試し期間などくそ食らえ、冒険は危険が多いほど楽しいのだ」ということなのだろう。

多少乱暴な言葉であるが、品行不公正なのが人間で在るとするなら、多少の間違いは許されたいものだ。

昨日書いたローレンツイの『文明化した人間への八つの大罪」たジャック・アタリ氏の「21世紀の歴史への提言」などは正に、間違いを犯すことを教訓として、文化の2面性を理解して、エゴイズム(保護的)に生きるよりオルトルイズム(利他的)に生きることこそ、21世紀の人類に求められている生き方なのかもしれない。

ある結婚式での見事なスピーチは、ローレンツやアタリ氏の言葉以上にボクの胸に突き刺さったのであった。

これは、一般的に動物行動学者コンラート・ローレンツの本である。この本は

 [1]人口過剰
 [2]生活空間の荒廃
 [3]人間どうしの競争
 [4]感性の衰微
 [5]遺伝的な頽廃
 [6]伝統の破壊
 [7]教化されやすさ
 [8]核兵器

について、彼の考え方が述べられているが、40年時を経ても、考えさせられる。ローレンツといえば「ソロモンの指輪」が有名であるが「人、犬に会う」とか「攻撃性」とか斬新な発想の動物行動学が展開されるが、彼は医学者でもある。すなわち科学的根拠に裏付けられた動物(人間学)なのである。今なら攻撃性が男女の性差(ジエンダー)に起因し、複雑な検証と思考を伴わないとならない重要な問題でもあるが、40年前では、あまり注目はされていなかったようにも思う。むしろジエンダー論といえばシモーヌ・ド・ボーボワールの「第二の性」のほうが有名だったかもしれない。

いまさら人間を動物といってもおかしくはないが、つい最近まで「人間は動物ではない」という観念が強かったようにも思う。むしろ「人間を動物と一緒にするな」って感じだったかもしれない。

特にパンツを履くことから、性差の象徴を隠すようになった人類は、生物の頂点に君臨する生き物として、その優位性を解明する為に、さまざまな学問的研究が進められてといっても過言ではないようだ。ローレンツは、動物としての人間の所業をある意味では予言していた・・・と言っても過言ではないように思われる。1999年たしか、ジャック・ワタリ氏が「日本経済や社会の構造を改善する努力を日本人はしないのか?」と警笛を鳴らしたことを、改めて考えさせられる彼は

1)日本の少子化問題

2)アジア地域における近隣諸国との親密性

3)アジア商圏の確立と友好

4)文化の二面性の共存

5)利己主義と利他主義

などについての日本の対応の仕方とか考え方の方向性を示唆していたのであった。

「何故、日本は確立しようとはしないのだ・と」警笛を鳴らしたように思う。

今、日本はアジア極東地域において、韓国、ロシア、中国などとの経済的協調関係の構築を迫られている。移民の受け入れのみではなく、ハイテク技術の共有、アジア商圏の確立、北朝鮮問題など、憂うことは多々あるが、方向性を持って進んでいるのであろうか?と、10年前に提言していたのである。「アメリカ寄りよりも、同胞であるアジアに寄ること」なども含めてである。そのようなことは1985年にヨーロッパ(フランス、スイス、デンマーク)などに行ったときに、ヨーロッパに共通通貨の確立も含めて共有商圏の確立を目指している。という話を聞いても、私は、ピンとは来なかったのである。

そして、昨日、ジャック・アタリ氏のドキュメント番組が5月5日~6日にかけてあるということをネットで知り、40年前のローレンツ氏の近未来の文明予測話(大罪として)を思い出してしまったのである。

利他主義とはオルトルイズム(altruism)のことであるが、民主主義において資本主義が肥大化して、金融依存が進むと、超資本主義的傾向が民主主義の凌駕してしまうと考え方を、バランス調整する考え方がオルトルイズムと考えられる。確かに今、日本の社会には民主主義の上に超資本主義が聳え立ち、経済成長なくして国民の生活は守れない!・・かのような仮想経済(金融経済)が人間の力ではコントロール不能な状態を作り上げている。

アタリ氏は思想家である。哲学者であるといっても良いが、実体経済に欠かせない概念はオルトルイズムであると考えて居るようにも考え得れるのだが・・残念ながら、彼のドキュメントは仕事の都合で見ることができない。

ま、縁があれば再放送で見れるだろう。注目の番組である?(見ていないのに本当かな?)


 

ボクは人間について考えることが多い。その始まりは文学との出会いからだったが、それが歴史や宗教そして人類学へと変貌してゆくが、頭の中にあるイメージは、何を考えていても「人間って何?」「どこから来たの」「そして、何処へ行くに」に集約さている。

もともとロッククライミングとであったのも、大学に入って「何故、人は石の文明を残したのか」という単純な動機からであった。巨石を重ね合わせ、石を投げて獲物をとる。石に色とりどりの石で記号や文字を生み、そしてグラスゴーやアルタミラなどの芸術を生んでゆく。もちろん石を投げる、石で相手を倒す・・という行為は戦争の手段としても用いられた。

モーゼの10戒ではないが、何故石に神の意思を掲示したのか?とか、2001年宇宙の旅に出てくる巨大な宇宙をさまよう石の映像は、多分、宇宙の始まり(ビックバン)を想定していたのだろうが・・子供の頃には衝撃的な出来事であった。

子供の頃はよく河で遊んだ、利別川や釧路川は石を拾ったり、水遊びをしたり、釣りをしたり・・ボクにとっては多くの行動と思索の場所であった。何処そこにあるアイヌ民族の痕跡や十勝石(黒曜石)で作られた鏃(ヤジり)なども、たくさん拾った記憶がある。自分でも十勝石を砕いて、包丁のようなものを作ったり、ヤジリのようなものを作った記憶もアル。おかげで指先はいつの切り傷が絶えなかった。

何故、こんなものを始めの頃の人間(古代人)は作ろうと考えたのだろうか、そしてそれらは何故、世界中に共通の文化としての、やじりや刃物などを石で作成しようとしたのだろうか?地域や風土が違っても、ほぼ共通の文化として、弓矢や斧などが世界中に存在することに、不思議を感じたものだった。

それが乗じて、大学は歴史学へと進むのであるが、ほとんど大学の授業には興味が沸かなかった。それよりも、山登りに没頭してゆくのであるが、ある人に「ヒマラヤには4億年前の貝の化石が在るんだ」といわれ「エエ~、それって、昔、エベレストは海の底だったの!」という驚きに変わった。

高校時代に地理や地学の時間に習ってはいたと思うが、まったく記憶にない発想に出会った興奮は、いまでも忘れられない。

考えたことのない発想は、やがてボクをエベレストに導くのだが『エベレストの頂上で貝の化石を見つけたい』という一風変わった発想であった。マ、エベレストは行ったが、その旅は、BCまでであった。その頃のボクは仕事で多忙で、ストレス蔓延、性格は破裂していたのだと思う。理性も知性も道徳的判断力も失っていたから、エベレストに行ったのだろ思う。

しかし、其処ではさまざまな人々とであった。1994年は商業登山の幕開けで、ロブ・ホール氏は一人数百万円でエベレスト登頂ツアーを行なっていた。自分たちで道を開かない、すべて他人任せの商業登山が僕たちの登山と奇妙に共存していたのである。相当な違和感を感じながらも『観光でエベレストの登頂も商売になるのだ・・』と心の中でつぶやいた。

ボクたちはエベレストの街道に散乱する、主にマンガン電池、水銀電池などを3万個ほど拾って帰ってきたが。そんな行為を商業化する気持ちはまったくなかった。

たしか翌年、ある人が『エベレストの(酸素ボンベという)ゴミを、日本に持ち込み、有名ニュース番組でほえていた...』その話を聞いて「ゴミ拾いを商業主義に転嫁する人も居るんだ・・」と思ったのであった。

エベレストに参加したとき、ボクの体は相当悪かったので、薬や注射器などを自前で持ち込んでいた。おかげでエベレスト街道沿いの医師とはさまざまな話をすることができた。特に記憶にあるのは、病原菌としてのウイルスは高地では、その活動が鈍るようだ・・と言っていた医師が居た。ヒマラヤにはA香港型も、ソ連型もない、すなわちウイルス性の病気はないらしいのである。

以前映画で、宇宙人が襲来し、人間の文明という科学力で対応しようとしても何の役にも立たず、ただ人類が宇宙人に占領されるのを待つばかり・・という断末魔に宇宙船が皆失速して、地面に激突する。後でわかったのだが『ウイルスが宇宙人を侵食したのである」その時、僕は思った「ウイルスは人間の、あるいは地球の見方なのだ!」と・・。

その思いと重なるようなことがここ5000mの高地には存在している。すなわちこの高さではウイルスは人間には無害なのである。ということである。登山はウイルスの危険性を考えることは無用なのである。

そのときひらめいた発想が「ウイルスは、ひょっとしたら生物の進化に変化をもたらすきっかけを作る、中間生物(注 ウイルスは細胞がない、DNAもRNAも確認できないので、生物学上は非生物と考えられているで学問上は生物と非生物の中間に位置するとは考えられていない)なのかもしれない」ということである。

なんとなく面白い発想だなあ・・と思い、日本に帰ってきてからそんなことを調べていると、やはりそんなことを考えている科学者は日本にも居たのである。

ま、電気もエジソンだけが発明しようとしたのではないから、いろんな疑問を持つ人は世界中に多数居ても不思議ではないのである。

その頃、わが社にはウインドウズ94が導入さて、インターネットが細々と日本でも展開されつつあった。ボクが居た会社はPCの導入は比較的早く、1982年のことであった。こんなもの宇宙にロケットを飛ばすわけでもないのに、こんな小さな会社に必要はない・・というのがボクの断定的な考え方であったが、パソコンとはそれ以来に付き合いである。とても長い。

そのころ、PCにもウイルスが出現しまるでインベーダゲームのようにソフトを破壊していった。PCのソフトがインターネットでつながって居なければ起きない現象であるから、コンピユータウイルスは生物学的定義(生物でなくても良い)には合致していた。また、ワクチンは病理学のみにおいての薬物でではなく、PC上にも必要な処方箋であり、しかし、恒にウイルスに遅れをとる・・という構図も病理学における現状となにも変わりはない。

そんなこんなで、4~5年前(新型ウイルスサーズの出現)頃から、改めてウイルスと生物の進化について考えるようになって来ていた。

ウイルス学は生物学上というより微生物学には毅然として存在する。いまだに宇宙人のような存在である。すなわちウイルスは多分ヒポクラテスの時代から病原体の一つと考えられているが、いまだにUFOなのである。すなわち、確認はできるが定義し分類できない存在で恒に亜種が出現し、宿主を媒介して人間に脅威を与えている・・のである。

しかし、それも考え方である。地球上の生命は、恒にバランスの上に成り立っている。ある特定種が地球を凌駕することはできないのである。それは人類においても同じことで人間のみが地球上ですべての生物の霊長に位置するという考え方は、僕に言わせると『理性的判断ではない』のである。

種は恒に変化して特定種が地球を占有した形跡は過去4億年においては見られない。さらに地球物理学が発展して、32億年前あたりまで地質やDNAもしくはDNAや生物の進化の形態が究明されたとしても、物理学上の根拠であって、真実は恒に闇の中である。

闇の中であるから『意味がない』というものではない。むしろ過去を究明することによって、人間と地球を明日に必要なワクチン(良薬)の生成が可能になるのである。しかし、前年ながら今のところはウイルスが恒に優先していて、ワクチンは対処的な処方箋でしかないのである。

ウイルスの恐怖に過剰反応するようになったのは、いつごろからなのだろうか?と考えると中世ヨーロッパに置ける「ペストの大流行」を思い出す。十字軍の遠征も、ユリウス3世も得たいのしてない黒死病によるユーロッパ世界の不安が強硬な歴史た文化を生んだ背景にあったのかもしれない。

そう考えると、今日の新型ウイルスのメキシコでの出現は、人類に一国の利害関係より強い国際間の協調を生み、宗教や人種、文化や利害における対立是正の良薬として、地球環境に貢献するのではないかとも考えられる。金融工学だの経済優先の民主主義よりも、利他主義的な傾向をを持った世界の創造こそが人類に残された選択であることを、新型ウイルスは私たちに示唆して居るようにも考えられる。

思考が飛躍するがウイルスとは、在る意味で、中世の暗黒を救った救世主であり、現代いにおいては宗教間戦争なども含めて、人間の新たな価値観の創造に一役を担う処方箋になるのではないかと考えてしまう。決して中世のヨーロッパの十字軍を賛美しているわけでもなく、1945年のヤルタやポツダムのよいな大義名分を作る為の戦後処理ではない、真の良薬開発への一助となることを切に希望する。

ボク本来の目的である、今年のテーマの一つ「ウイルスと人間の進化のプロセス」については、まだまだしばらく時間がかかる作業でもアル。

少し、硬かったかな><?

 

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