2009年4月アーカイブ

最近は、読んでみたいと思う本がない。どちらかというと、書棚にある古い本ばかりを引っ張り出して読んでいる、読むといっても流し読みである。かつて読んだことがあるので、熟読・・というわけには行かないが、読んでみると思わぬところに眼が留まる。たとえば

「星の王子様」、数字のとことの意味を考えてしまって、幾度数字の意味を考えたか・・

「仏教正典」こんなものを・・と思うが、聖書も含めて奥が深い。

「屋根裏の明かり」ジエル・シルバスタインの童話?ナのだろうが、娘と『ボクを探しに」について話あったついでに、改めて読んでみたが、日本語に翻訳されているよ、その意味がかえって解かりにくい、訳者も同じことを最後に言っていたが・・・

「禅と日本文化」これは傑作であろう・・僕たち日本人を支配している思考や無意識に考える問題の空気の存在を、かなり明確に説明してくれる。僕のバイブルの一つかもしれない。

『結婚の起源』・・エレン・フィッシャーの最初の人類学書・・いまだに彼女は最先端を突っ走っているようだ。

「アラン経済随筆」誰・・それって感じだと思うが、幸福論は有名である。哲学者であるというより高校教師であった。人生について経済観念を友たって叙説していて僕としては面白い。つまずいたときに良い(ということは、つまずいているのかな?)

しかし、今一番読んでみたい本は「空ばかり見ていた』吉田篤弘(文芸春秋)である。最近出たのだろうが、タイトルが気にいってしまった。多分短編空想物語?どこかに売っていないか探しているのだが、ここでは見つからない・・

文学における海岸線

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「海岸線を拾う」という概念は、数学の分野では、ジョン・ナッシュのゲーム理論などにも見られる考えかtである、と思われる。ナッシュ均衡などは、大変興味深い考え方で、彼はノーベル経済学賞も受賞している。ノーベル経済学賞といえば、昨年受賞のポール・クーグルマンを思い出してしまう。彼はバブル崩壊後1991年からのの日本の経済金融政策を、ことごとく批判していたが「私の考え方は間違っていた」と今年に入って、謝罪し訂正した。なんとも謙虚でよろしい・・と、思ってしまった。

しかし、アルフレッド・ノーベル記念経済学スエーデン銀行賞(正式にはノーベル賞ではないようだが、ほとんど同じ扱い)は、経済学者というより数学者が受賞する場合が多いようだが、数学と経済学も海岸線なのかもしれない。

物理学と文学(もしくは現表学)とのインターフエイス(海岸線)はガストン・バシュラールの存在を無視できない。彼は詩的叙述を物理学において実現した、かなりの変人(良い意味で)である。僕はむしろ現代ポスト構造主義などの哲学や思想に大きな影響を与えたと考えている。ミシエル・フーコーはかなり影響を与えられたのではないのだろうか?

今後の文学への課題は大きい。かつて大江健三郎がノーベル文学賞受賞口演で「あいまいな自己」というような自己の文学の立場と考え方を示唆したが、これも文学における海岸線であったようにも思う。

やがて文学は宇宙とインターフエイスする時代が来るかもしれない。それは「エレガントな宇宙」や「宇宙を織り成すもの」などの著作(超紐理論)で知られている理論物理学者ブライアン・グリーンの言葉を介すれば・・であるが、いずれにしても僕の見識では皆目見当の付かない、むしろ神話的世界である。

しかし、一ついえることは、化学も数学も、あるいは物理学もそれぞれが単独で形成された学問ではなく、文学も含めて、互いに関係の深いものである。

いきなりクライミングの例えるなら、クライミングプロブレムの製作とか完登とかは、どのホールドをどのようにつかむのか・・という、単なる現象と難易度と達成感のみが物差しではないということである。そのような話をクリス・シャーマが来日したとき、平山さんとダイちゃんは、熱く語り合っていた。僕は少し離れて彼らの話を聞いていたが、彼らの話は、べノワ・マンデンブロのフラクタル概念について語り合っていたようにも思えたのだが、たぶん僕の空耳なのだろう・・

これで「ツゥアラトゥストラって誰」から「海岸線を拾う人」にいたる、コラムは終了します。深く考えると長すぎて、しまって(汗・・笑う)

海岸線を拾う人

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海岸線を拾う人とは、ボクがマンデルブロをイメージして自分勝手に彼を形容した言葉である。まるで詩人のような、あるいは文学者のような人をイメージするかもしれないが、ブノワ・マンデルブロは数学者にして、物理学者?なのである。何故ボクが彼に深入りしたのかと言うと「たとえば、恒に流動する海岸線の長さを実数に置き換えることは可能であり、その考え方を元にフラクタル概念が幾何学上に成立するなら、コンピューター上に海岸線を表現することは可能である」というわけの解からない考え方でコンピユータグラフイックを考え出した人なのである・・と、ボクは記憶している。・・と言うのも彼の考え方に共感して、フラクタル集合体とは?とか、」ジュリアナ集合などの幾何学と僕が接するきっかけを作った方だったので、今でもおぼろげながら、彼のイメージはボクの中で拡大の一途をたどっている。

すなわち、小さな物差しで海岸線の長さを計ろうとすると、どんなに小さな物差しを当てても、その実数はさらに複雑になり微妙な凹凸を計ろうとすればするほど、実数は長くなるばかりである。しかし、たとえば100キロ上空から長い物差しを当てるなら、小さな矛盾(複雑に入り組んだ形状は)統合されその実数は測定可能になる。・・と言う風に理解しているのだが、正しいのでしょうか?この概念をフラクタル集合と言うらしい。

と言うことは、ブラウン管に僅か501本しかない走査線上に曖昧な実数をフラクタルの概念を元に具現すればグラフイック化することが可能になる。と言うことを幾何学の理論のみではなく、コンピュータ上に表現で来たので、今日、僕たちは平面状に美しい映像を見ることができるのである。

すなわち、ベノワ・マンデルブロがいなかったら、コンピュータはいまだに数式の羅列であり、つまらない計算機械であり、ボクら平民には興味が沸かない科学者たちの計算道具にしか過ぎなかったのかもしれないし。平面に幾何学的な立体模様を描かれている・・と言う錯覚(この場合は視覚的現実とでも言うのであろうか)を見ることもできなかったのである。このことはエジソンがいなくても電気はあったし、電球もできたし、電話回線も確立していたのであるから、発明王エジソンよりも僕たちはベノワ・マンデルブロを崇拝すべきだと思うのだが、いかがなものでしょうか?

あいにくボクは幾何学どころか算数や化学も嫌いな?中学生でしたので幾何学なんて接することはありませんでしたが・・(ここに矛盾がある、嫌いではあったが小学5年生の時にはメビウスの帯とかクラインの管なる言葉を知っていた・・というか考えていた)

ボクは文学部であるから、マンデルブロは海岸線の束を統合して拾い集める科学者と言うことで「海岸線を拾う人」と命名したのであった。

そこで少し戻って、フラクタルを定義してみる

フラクタルの集合とは

1)不規則過ぎること自体に意味を持たない

2)次元なんて定義できない

3)視覚的にまったく他の存在と思えるものもフラクタル概念による集合と考えると、相似であることがありうる(自己相似)

4)フラクタルとは定義されるモノとは限らない

と、難攻不落の概念とでもいってよいかもしれない。すなわち定義することはできないが、そこにあるじゃ~ん・・というようなことである。

それは、ウイルス理論に似ているのかもしれない。それはウイルスは生物なのか反生物なのか、いまだに謎なのであるから・・しかし、ウイルスは常に進化の過程に存在して、進化のプロセスに影響を与えている存在せあり、生物にとっては恒に脅威の的である。今回の豚インフルエンザウイルスなども、その一例であろうし、反生物としてはコンピュータウイルスと言う表現がウイルスは生物ではないと言う概念の中に存在しているのである。これはあくまで一例である。

さて、最近ボクは「科学は素敵だ」と思うようになってきた。それは文学に対して科学は恒に先進的である・・と言う概念が崩れてきたように思うからである。

その先方は、ブライアン・グリーンという理論物理学者のコメントにも現れている。もし、時間があるのなら科学系の本も楽しいかもしれない。彼の本では「エレガントな宇宙」とか最近では「宇宙を織り成すもの」と言うのがある。科学的かどうかは別にしてSF小説も楽しいかもしれない。特にお勧めはアイザック・アシモフとアーサー・C・クラークなら何でも面白い、古典ならジュール・ブエルヌ・・も素敵だと思う。

最近では・・と言っても少し古いがコリン・ウイルソンは奥が深いが、20歳未満には危険な書物かもしれない。ツゥアラトゥストラって誰・・コラムを読んだ方には少しは解が見えるかもしれない。アウトサイダーを読むより、20歳未満は「時間の発見(竹内均訳)」はお勧めである。

海岸線を拾う・・と言う概念がどういう思索的概念なのかが、垣間見えるかもしれない。ま、人間が持つ想像力と言う概念のことであるが・・。

又、最近ではテレビンのドキュメント番組でも取り上げられたが人類学者ヘレン・ウイナーの書物も僕的にはお勧めである。

ついでだが、堀田善衛は特にボクが推薦する作家である。そこらの本屋では、どの本も多分売ってはいないと思う・・・。

海岸線を拾う・・と言う思考が君たちの科学や文学力を高めてくれるかもしれないと・・思う。

 

「ツァラトゥストラって誰ですか」

そんなことを考えたことって在りますか?
ボクが説明するのもおかしいけれど「ツァラトゥストラはこう語った」といえば聞いたことがある人もいるでしょう。中には読んだよ・・つて人も居るかもしれませんね?
彼(ゾロアスター)は人であります。しかもある宗教の開祖といわれてる人ですがその詳細は不明と言ったほうがよいでしょう(でも、説明します)
ツァラトゥストラという読み方はゾロアスターのドイツ語読みで、有名なニーチエの思想の背景を知るには重要な書物で、彼(ニーチエ)の著作です。又、この本を読むと「この人を見よ」に行き当たるのですが、やはりこの人とはゾロアスター氏のことをさしているようにも考えられます。少なくとも、私は、ニーチエがいうこの人=ゾロアスターであると考えています。
ニーチエの思想の中に存在する善と悪の共存思考、永劫回帰思想をニーチエ自信が展開するきっかけになった考え方で、ゾロアスターとはゾロアスター教をさすものと思われます。
ニーチエの考える善と悪は同一の神であり、あるいは人間の本性の中に存在する同一的思考を「善悪」といい。そのことについて踏み込んだ小説がゲーテの「フアゥスト」でもあると、ボクは考えています。
彼は善と悪は同一なる者と考えました。しかし、その考え方にいたるにはさまざまな紆余曲折があります。
ゾロアスター教の教祖はザラスシュトラだと言う人は宗教に詳しい人ですが、現代ペルシャ語で読むか、ドイツ語で読むかの違いで、実は同一人物だったのです(ザラスシュトラ=ツァラトゥストラ)と言うことですね。ゾロアスターとは英語読みでしょう(米語では在りません)
この宗教は光の象徴として、アブラ・マズダーを唯一絶対の神と位置付け、光の具現として火を敬うことから拝火教ともいわれています。
宗教史学的見地から考えると、ユダヤ教やキリスト教、さらにはイスラーム教等に多大な影響を与えた宗教史上最初の一神教とも言われていますが、それは後に人(宗教学者)が考えた説であります。

なかなか奥が深いですかね?


すなわち、悪いことをしたと言うことは、同じ位「良いこともしているのだ」と言うことです。しかし、罪悪感にさいなまれていると、善が見えなくなるのですよね。それが人間の想像力であり、時間や宗教の発見につながったのです。この話をするだけでも、相当長い時間を必要としますが、今回は削除します。
決して人間は悪のみではできていないのです。この考え方が後にブッダの思想に繁栄され、神の存在の無い宗教として仏教の成立にいたるのです。

ちょっとした古代宗教史学だったかな?

さて、ゾロアスター教の起源ですが、諸説が入り乱れていて、定説にはいたっていないようです。おそらく紀元前15世紀以後~紀元前6世紀頃にその宗教的背景が生まれ、宗教としての確立はアケメネス朝ペルシャあたりではないかと言われていますが・・なんともいえません。そのシンボル(ハラバハール)はまるで三国志の諸葛孔明を連想してしまいますね。孔明の知性もゾロアスターと関係ありそうな・・そんな気もします。(このあたりを解説すると、また膨大な時間が必要になりますので、カットします)

ニーチエはさまざまな人生の紆余曲折を経て、答えの見出せないまま、堕落と知性、思想と現実の中で苦悩した思想家であり哲学者であり、文学者であり科学者であったのです。

おそらく19世紀が生んだ人類の知性の一人だと、ボクは考えます。

ニーチェの人生はあまりにも人間的でありました。名誉や栄光(あるいは理性)より挫折と抑えられない衝動的行動(フロイトに言わせれば性衝動)と錯誤した人生を生きた、もっとも素直な、あるいは、もっとも人間的な生き方を模索した偉人なのかもしれません。

彼が、趣味で山登りをしていたことはあまり知られていませんね。又、ギムナジウム(Gymnasium)に通う頃は、音楽と国語に才能を認められていた・・と言われています。

ここでギムナジウムについて、少し説明します。もともとは古代ギリシャの体育学校のことを指します。身体を裸で鍛えることによって男性としての強さや知性、闘争心を磨く学校のことをギムナジウムと言います。ジム(Gym)はもともと男子専門学校(しかも裸で学習する)のことだったのですね。雑学でした。

体が弱かったせいもあって、たいそれた山には、その足跡を残していませんが・・裏山歩きなんてことはドイツ人のみならず、誰でもすることですから、あえて山登りをしていた・・という表現自体が大げさなことかもしれませんね。

ニーチエを考えると、歴史をさかのぼること100年。ゲーテについても書きたくなってきました。また、ニーチエ思想はナチス思想にも影響を与えたともいわれていますが、この辺はしっかりと検証したいとことですんで、いずれ加筆するかもしれません。特に「力への意志」とアドルフの関係(影響)については・・。

又、彼の思想にもっと多大な影響を与えたのはほかならぬ、たった一人の愛人?でした。ルー・サロメと言いますが彼女は、ジークムント・フロイト(心理学者)、詩人のライナー・マリア・リルケなどにも多大な影響を与えた著述家であり近代女性であったと思います。日本人だと、宇野千代とか瀬戸内寂聴のような存在だったのかもしれませんね。

タイトルと内容がリンクしていないような・・そんな取り止めの無いエッセイとなりましたが、なんとなく察してください。了

 

 

 

空気の読めない知性?

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最近の報道系の番組は、少し偏執的である。言葉を変えるならパラノイァと行ったほうが良い。一定の方向に全チャンネルがシフトしてしまう。一昨日のタレントの泥酔問題にしても然り・・である。と、思っていた矢先「アンケート調査によると国民の92%は騒ぎすぎで、タレントに同情的である」と冷静に分析している。言葉を変えるなら勝手にニュース性を強調しておいて、翌日には何事もなかったように平静に世論を自己分析している・・様な感じである。なんな「錯乱傾向を装っておいて自分たちは冷静であった」と言っているようで、言葉を変えるなら勝手に自己陶酔しているスキゾフレニー的といってよい様な気もする。1980年代前半なら、スキゾVSパラノと言う構図だったが、今のマスコミは勝手に偏執的に報道しておいて、勝手のどっちつかずの分裂思考に冷静さと知性を振りかざしているようで、奇妙に移るのだが、いかがなものだろうか?

空気が読めないの・・とは現代用語でKYと言われている状況であるが、報道機関が国民の空気が読めないようでは、そこには知性も理性も感じにくい。国民のニュース離れは、国民の側に問題があるのではなく、行動機関側にある、自負と偏見のような欺瞞(ぎまん)に根ざしているかもしれないと考えてしまった。

ことを西洋登山事情に移してみる。ヨーロッパアルプスは高速登山の時代を迎えているようだ、アイガーの北壁を一人で2時間何分・・、二人で4時間何分何十秒・・という記録が恒に更新されている。

一方エベレストもBCを出て1日で・・と言う時代は僕らの時代の目標であったが、16時間で往き来してしまった・・という状況のようだ。

さらに、冬の8000mを如何に落とすか(登頂)が究極の・・あるいは無謀の試みであった。友人とまでは行かないが、知り合いだった、植村さんはマッキンレーで、加藤保男さんはエベレストで、それぞれ冬の北風に返らぬ人となった。そんな冬の8000mも6座が登頂され、残すは8座である。記録は恒に更新されるもの・・と言えばそれまでだが、何処までアルピニズムは進化するのか、先は見えない・・というか目標は恒にそこにある。

一方、登頂をせずに、下山する登山者も多いと聞く。マナスルダウラギリ、ブロードピークなどの比較的易しいと言われている8000m峰でそんな登頂者が続出しているらしい(日本山岳協会編・月報)によると、ツアー登山でのことのようだが「登山者にとってはそこら辺で良い」という考え方が蔓延しているようでもアル。ここには自己責任、自己申告でしか登頂を決められない登山の精神は無い!

すなわちモラルが無いのである?それとも価値観の相違。でも頂上を極めていないのに「登ったはないでしょう」と思うのだが・・・されど登山、たかが登山なのかもしれない。個人の満足度を満たせばそれでよいと言う、空気の読めない・・あるいは空気を読まない登山風潮がここにあるようだ・・そんな気がする。

モラルはいらない・・のかな~と、ふと、思うのであるが・・・それでも登山は登山? 日本的な空気の読み方に対するギャップなのか、それもと空気を読めないのが日本の登山文化なのか?考えることは多い。

ジャヌー北壁などの登山で長きに渡り日本の登山界をリードしてこられたK西政継氏(故人)は「やはり8000mはあるピニズムの精神をもって、頂上に至りたい」といっておられた。

そういえば、一昨年、ヨーロッパ3大北壁を日本人で始めて登られたT田光政氏とお話したとき「向井君、最近のクライマーは岩壁に布団を持って行くんだってな!布団を敷いて何をするんだ。布団はXと寝るときに使うものだろう」と叱咤された。70歳を超えてもお元気であられた。私は「は~・・左様ですね」とうなずく以外に言葉が出なかった。

「スポーツ登山とアルピニズム」ことを水泳に置き換えると「最近はプールと言うところでお泳ぐのか、それが泳法泳術か」という昭和初期の水泳論のようにも思える。そういえば僕の論文は「現代アルピニズムと信仰登山」でった。「女が山に登って良いはずはない」という山岳信仰(女人禁制)と「山岳信仰なしに山に登ルことがアルピニズムじゃ」?という概念で上高地かにヨーロッパ型登山を紹介した、ウイリアム・ゴーランスやウオルター・ウインストンの精神は、何処にいったんじゃ!!と考える人が空気が読めないのか?空気の読み方には「スキゾ系とパラノ系」が居るようにも思うが・・それでも岩登りと石登り?

さまざまな登山の在り方を、もう一度問いただしてみたい気分になってきた、最近のボクである

さて、空気の読めない知性とは、どちらの側の人々なのだろうか・・当然ボクは、どちらにいても、空気は読めない事に、変わりは無い。

ちゃ坊主が優勝!

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ノースフエイスカップ・ロッククラフト川越予選優勝おめでとう

こんな見出しじゃ叱られるかな?ともかく彼の優勝はうれしい限りです。久々に個人的な感情です。http://blog.livedoor.jp/hiroakishimizu/ は彼のブログです。才能があり練習熱心で、でも風貌とは別にさびしがり屋で気持ちが優しい??勝てた原因はやはり故障のおかげでしょう?

これからも元気で、クライミング界に新風を巻き起こしてください。遠くから応援しています。

さて、明日26日の栃木クライミングカップはどんな波乱が起きるかな?皆頑張ってね!

騒ぎすぎ?

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SM?PのKなぎクンの件は、正直言って「マスコミの騒ぎすぎ」だと思う。彼も人間だし、大学時代や会社員時代のことを考える酒には破廉恥がつき物であった。マスコミの騒ぎ方と国民の間には大きなギャップがあるような気もする。特に報道機関の取り上げ方は、知性や理性を欠いている。このような報道をこのように取り上げることのほうが破廉恥で下劣である。国民の空気を読めていないのはマスコミの特に報道番組の体質に在るのではないか?と思ってしまった。特にメデイァはその影響力を鼓舞するがごとく高圧的に個人の失態をとことん追求しすぎる。容疑者に対する報道も被害者に対する報道や追求も度をこしている。以前もマスコミの理性と凶器?のようなコラムで書いたが、聞くにも、見るにも、読むにも耐えない、3面記事が多すぎる。

こんなことを朝から晩まで報道するなら、もう少し歴史的観点から1945年は何か・・とか。パレスチナの現状と未来・・とか。笑わない子供立ち・・とか、戦争や権力闘争、または金融工学理論によって多額の債権を持たされた背景とか・・、金融経済の限界とか。儲ける事の功罪もしくは儲けすぎは犯罪にはならないのか・・など、現在資本主義の盲点やその善と悪についてメスを入れるとか・・その知性とか分析力とかをこれからの人間社会に有効な秩序を生む手段として行使できないものかと、思うことが多い。

20世紀はさまざまな功罪を世界各地に残したまま突き進んできたようにも思う。特にエネルギー資源の浪費と西側の論理で取決められた(ヤルタやポツダム会談)戦争責任の所在については、10年ごとの歴史的検証に、100年事の歴史的検証を加えて再度検証すべき時代に来たようにも思う。

相変わらず宗教を国家紛争の手段として利用している大国の論理。平和と秩序の維持の為に??という大義名分に惑わされてはいけない・・と思う。かつて十字軍は何のために西アジアやイスラーム世界に進軍を重ねたのか?西側の論理に基づいた思考や教育では無く、理性と機構的均衡によっ検証すべき時代になったのではないかと考える。

「笑わない子供」とはイスラエルとパレスチナの闘争に巻き込まれた子供たちのことである。かれら子供たちはこの闘争を支持しているのか?子供だから・・という論理は成り立たない。むしろ子供たちの未来の為に倫理観は働かなくてはなるまい。

すべては秩序の為に??しかし、近代宇宙物理学の論理に言わせると、秩序からは宇宙は生まれなかった用でもあるし、日本書紀の序文を読み返しても、秩序という混沌に無秩序を与えたのは神という名の営利主義の派生が根本にあると歌っている。

平和への手段としていつも人類の選択は戦争であって、それは20世紀(1945年)を境に消滅したのではなく、100年後に歴史的検証すれば「1945年を境に、国家論という偽善と経済という名目の略雑の時代に、人類は突入した」と言われるかもしれない。

1945年は日本的には敗戦であり、復興へのカウントアップが始まった時間である。西洋史的には、第2次西洋人戦争をあえて彼らは「世界大戦」と位置づけ、ドイツの帝国主義をヒトラーとナチス党に擦り付けた時間でもある。イスラーム世界において1945年とは?

サン・デグジュべリやロバート・グレーブスなどの小説やその頃の時代背景などから,アラブやイスラームの世界やアフリカの精霊信仰などが垣間見れるが、歴史や政治的な検証とは程遠い。あえて物語から脱却して、歴史的事実と向き合う必要性もあるのではないだろうか。

ボクは大学時代から堀田善衛が好きだった。自分の脚で世界を歩きそこで生活して、そこにある文化を、自分の感覚と想像力で文学に置き換えた。彼の感覚と言うも記号(文学)を通して伝わる地域地域の文化の奥の深さは僕の心を震撼(震撼)させた。インドやギリシャ、スペインの石畳などから彼の感性が感じ取る4000年あるいはそれ以上の歴史観は、とてもボクの感覚では追いつくことのできない奥の深い洞察力であった。

(書きかけです)

 

 

インフラ整備と発展

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今日25日はノースフエイスカップ北関東予選がロッククラフト川越で行なわれている。裏情報によると190名の選手がエントリーしているという。果たしてどのような賑わいになっているのか・・?

それにしても、平山ユージさんと大ちゃんの人気はすごすぎる。予選の参加者は述べ1000人をはるかに超える勢いである。本来なら組織が運営するほうが集客効果があるというのが一般的な見解だが・・ロックの若手も多数参加しているが、あえてサンカを控えた選手も居る。理由は「参加者が多すぎて落ち着いて試合を楽しめそうも無い・・」と。確かに在る意味では的を得た見解でもある。いずれにしても、運営する側としても、こんなに多くのアスリートや子供たちの参加を読みきれてはいなかったと思う。うらしい誤算であろう。そして、予選ガ終了したら7月の本戦決勝大会であるが、期間的な猶予もあるので、十分な練習をつんで望めるし、ボルダーを中心としたジムにおける経済効果も相当なものがあるようにも思う。

とはいっても、ボルダーワールドカップ、ジャパンカップボルダー(ロッククラフト川越)、ユース選手権などへの選手の参加も飛躍的な増加となっている。ついでにいうならロッククラフト小山店で行なわれた下野(しもつけ)ボルダリングコンペ(栃木県山岳連盟主催)も100名近い選手参加(エントリーは112名)があり大忙しであった。

ちなみに昨日のロッククラフト川越へのアクセスは300件をはるかに超えていた。驚くべき数字である。

一方でリードのコンペが3月下旬から6月上旬まで密集している。参加する選手には厳しい選択を強いられることになる。コンペを主催する側の論理が参加する選手の背景や事情を考慮していないようでもある。

組織には組織の論理が当然あってしかるべきだが、試合に振り回される選書も親も大変である。「先生、どの大会に出たほうが良いですか」という質問になかなか明確には答えられない場合もある。組織からは「選手派遣をお願いします・・」といわれるが、多すぎると振り分けるのにも限度がある。それが最近の僕の事情かな~と思う。

ロッククラフトのジュニア選手は小学生クラス40名。中学生8名。高校生10名ほどが通学?している。ほぼ2/3は学校や専門クラブ活動(サッカー、体操など)との併用である。毎週月~金曜日の午後4時半~6時半はそう学生クラスでほぼ毎日10名前後がこの時間にクライミングを毎週1回~2回楽しんでいる。午後7時半~9時半は中高学生の練習である。その他土日の練習もあるのである。おおむね部活は3月に年間スケジュールが決まっている。しかし、クライミングの大会は、雨後の竹のように2~3ヶ月前に突然要項が発表され右往左往である。ノースフエイスカップのように、半年前に全スケジュールが発表されていると、練習や調整にスケジュールを組めるのだが・・・ということである。選手の結果や頑張りに大して大会総括で苦言を呈する主催者も多いが、背景を作っているのは、選手に複雑な対応を強いているのは、むしろ組織側の責任もあるのではないか?と私も自己反省をする。

組織としては・・という組織論を振るう前に組織として大会を運営する趣旨を明確にすべきだと思う。特に国際試合の派遣選手選考、県の国体などの代表選考、強化選手認定選考、単に親善大会・・育成もしくは練成大会など、選手にはっきりとした大会の趣旨を説明すべきである。

又、年間にどのような大会が年度計画として行なわれるのかを、組織(日本山岳協会)は各県やジムに大会の趣意書を提出させて公表していただけるとありがたい。

何事も発展の途上には、さまざまな問題が提起されるものだが、少なくとも競技としてクライミングに取り組む選手には1)練成育成 2)親善 3)選考 4)栄誉・・などのさまざまな意味合いを付加価値として表明すべきである。

参加選手の取り合いとか、組織の面子の・・ということは、選手や家族には無関係なことである。そんなことが現状に起きているとは思えないが、必ず付きまとう問題でもある。

一部の県では組織的な選手の育成も行なわれているようだが、均等な配慮がほしいと思う。

すなわちインフラの整備である。何事もインフラの整備なくして発展は望めない。クライミング人口の増加が烏合の衆の取り合い・・・あるいは今日の世界経済においての、実体経済と金融経済の格差社会をや荒廃を生むような状況には追い込みたくは無い。

もうすこし、時間をかけて、文化として根ずくどうな、そんなクライミングスポーツとして発展してもらいたいと思うのである。

選手育成の為に民間ジムは無償で協力せよ!・・というのは、まだまだ一部のジムを除いては無理な現状があることも組織の皆さんには考慮していただきたいとも思う・・・

久しぶりに辛口?コラムとなったかな?

 

 

右足の人差し指・・

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明日、ロッククラフト川越でのノースフエイスカップを皮切りに、関東地区での大会が目白押しとなる。26日(日)は栃木県クライミングカップも開催される。ここにも16名ほどの選手が参加する、下は小学3年生から上は40歳くらいまで、さまざまな思いを胸に大会に臨むわけだが、一部の選手を除いて共通する注意点がある。それは右足の指での石の掴み方と方向である。ハンドホールドをつかめない理由は、意外と指や手のひらの使い方ではなく、軸となる下肢の支点と動点、体幹部の位置バランスが重力の方向を認知しているのか・・という点に、さまざまな弱点が控えているのである。動作の形、動作選択の手順以前の問題が多いのであるが、選手はそのような視点に立って考えることはなかなかできないものである。

ハンドホールドをつかめるか否かは、結果にしか過ぎない。結果は日常練習の積み重ねの上に成り立つ論理でもある。試合で在るから「結果がよければ、すべて良い」という考え方はボクにはない。

イチローの言葉を借りるなた、3000本の安打も、1本1本の積み重ねでしかない。そんなことより、6000回以上の失敗のほうが重要である。練習とは失敗の連続であり、失敗こそが安打を打つ基本を教えてくれる・・とでも付け加えておく。

むしろ自分の感性あるいは「なんとなく、こうしよう」という考え方を信じて、失敗を恐れず、失敗することに挑戦してもらいたい。

特に、動作が不完全なときは、右足の人差し指でフットホールドをしっかりと掴んでいるか、踵の方向と位置は正しいかを目視して、納得が行ったら、始動すればよい、試合は制限時間がある。迷った時、信じれるのは自分しかない・・ということも付け加えておく。

さあ、皆、明日を目指して頑張れ!!

水着が記録を生むのか?

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昨年は「LRの水着が記録を生む」という評価で、水泳選手は混迷を極めたようだったが、今年の日本選手権は22の日本記録を生んだようだが、その内17は日本製の水着が打ち立てた記録であった。・・ということは、水着記録を生むのではなく、昨年「泳ぐのは選手だ」といった北島選手の言葉が妙に信憑性を帯びてくる。私たちは、科学的根拠という名の幻想に振り回されすぎているような気もする。世界経済についても同じことが言える。実体経済よりもアメリカの金融工学に根ざした科学的根拠による金融経済の幻想に振り回されすぎたのではないか・・という反省は必要な気もする。

さて、明後日、25日(土)は、ノースフエイスカップ関東地区の最終予選がロッククラフト川越で行なわれます、参加選手は190人とか??平山さんと大ちゃんのコンビは凄過ぎて、分けが解からないですね!!皆さん川越をご堪能ください!

コンカツ・・カツ丼?

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最近娘と頓珍漢な話が弾んでいた「ねえ、とんかつって興味アル」という風に聞こえたので「とんかつは興味・・という問題ではないだろう。あんまり好きではないし今は興味が無い」「な~んだそうか、最近の中高年は熟年恋愛が盛んなようだから、とんかつしているのかな~と思った」「え<とんかつってするとかしないとかの問題ではないだろう、正しい日本語だと、食べるか、食べたくないか・・好きか、嫌いか・・だろう」「・・・・」

怪訝そうに首をかしげ「んねえ・・お父さん勘違いしていない。コンカツと豚カツ?」「????なんじゃ、豚カツ?じゃなくてコンカツ??って・・・」「よくわからないけれど、就職活動みたいな感じの、結婚活動の略かな・・」「ぬぬう・・・」完全に解かっていない自分が居る。正に現代社会に適応していない。「お父さんって古代魚見たい、もう少しテレビ見なよ」「大きなお世話だ、テレには見ている、ニュースかドキュメントをね」

ボクは古代魚なのか?そう考えると少し納得してしまうことがある。30年程前にはクライミングの練習に大切な事は何かとかんがえて、サルの行動を研究(大げさかな)した。それから、哺乳類、両生類の行動様式の研究に進み。5年ほど前からは、蜘蛛やトカゲの運動方法へと進み、昆虫や節足動物、などに至り、ヒトデやウニ、など4億年前から生息している生物の行動などについて、その研究は進化したというか、古代化している。重力についても、ニュートン力学から宇宙物理学まで過去へとさかのぼってゆく。これは正にボクの趣味としての専門(歴史人類学)そのもののような気がしてくる。

たかがクライミングであったが、そのことを30数年考えていると、すべてが統合されてくるようにも感じる。

うに学?

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ウニとは4億年も節足動物として進化の形態を変えていない高度に完成された動物である、という考え方は成り立つのであろうか・・と、ふと考える事があった。そんな混沌とした話を文学的に考える事が多いのが僕の屁理屈学とでも言うのであろうか・・・数年前にはクモとは何か、なぜ8支(手足)を漏っているのか、それは、笑われ哺乳類とは違う進化の過程をたどったのか><?。あるいはゴキブリはなぜ3度の氷河期を経たにもかかわらず、1億6000万年以上も、進化のプロセスを経なかったのか?・・・つい最近はヒトデはなぜ星の形をしているのに、人間は食べようともせず、不気味な存在として忌嫌うのか?蛸は・・など、生物の進化の過程を文学的に追及する事が多い。それは単に科学を知らないからでもあるのだが・・・。

しかし、科学に対してもたくさんオ文献を読んだり考えた事は多い。むしろ文学より科学的な方面への知的探究心のほうが、僕は大きいのかもしれない。また、なぜウイルスは生物ではないのか・・という疑問も平行して目覚め始めていた・・さまざまな思考の果てに、ウイルスが人間の進化に与えた影響は計り知れないのでは?と思うようになり、いったん文学的宇宙物理学とか理論天文学を離れて、生物の起源から考え直ス事も必要ではないかと思い、生物とは無いか・・をその起源から探ろうとおもっていた矢先に、ウニの運動について目が留まってしまったのである。それは私がヒトデは嫌いだ(ヒトデは珊瑚を食べるとか、その形が怪奇的である、もしくは食べられないからというあいまいで個人的な根拠に根ざしている)からその考察を打ち切り、ウニは大好きな食材であるから興味がわいたのかもしれない。

そんな時、「ウニ学」という本に出会った。かのアリストテレス(古代ギリシャの哲学者)もウニの研究には余念が無かったようである。ウニはおそらく4億年もウニのままである。石灰質の甲羅(外骨格)のせいで化石も豊富であるし世界中何処の海にも生息している。古生代から今日まで進化の系譜をたどらずに今日にいたった生物は約750種あるらしいが絶滅した生物は7000種ほどあるらしい。いずれにしても科学的に根拠のある実数としてであるが・・。そう考えると人類は60万円から250万年の間と仮定しても、最も新しい生物に属するのである。宇宙で考えるなた、超新星のであろうか・・一番新しい誕生し立ての星といえる。

そんなウニの運動は不思議である。ここで説明するには膨大な時間がかかるので、割愛するが、その運動能力は規則性があり、全ての足に知能と感覚と全体を統合するバランス感覚を持っているとしか言いようが無い。

人間も含み哺乳類はわずか4本の手足の扱いに戸惑う。時にはつまずき、絡まってしまう?そういう息から考えて「昆虫はえらい。6本の手足を自在に操る・・いいやクモはもっとえらい、8本の足を自在に操る・・」とこんな事を考えていたら、ついにウニやヒトデの運動能力に行き着いてしまったのである。ウニの足は何本あるのか・・と僕は、数えた事があるのだ。一定ではないようだ。大事な事は実験と観察である。暇な方は数えてみるといい(笑)

数百の足がまるで完全に規則正しく制御されているかのように動くのである。その運動様式はアメーバやウイルスのように無秩序的ではない。そう考えるとウニには脳があるのだ。しかし、人間の知恵ではウニ脳を発見できない・・といったほうが正解なのかもしれない。ここの考え方は文学的考察であった科学的ではない。むしろ非科学手にナ着想でしかないが。文学的考察とはそのような考え方でもある。

ウニの話はここで終了する。話すと長くなりすぎるからである。

さてウニ学から・・というわけでもないが、簡単な事が推察される。それは運動とはあまり(余った足)を動かすという事である、ウニの足の1本1本の表皮には神経がありは連鎖による反射が固体(体)を動かすらしい。もうすこし解りやすく言うと。固体(体や脳)が足を動かすのではなく、足の感覚が体を動かすのである。もっと言うなら「足が動物を動かす」のである・・と、言う事である。

これほどクライミングという運動の基本的概念と合致する運動は無いのである。全ての神経が触手に対して、まっすぐに伸びていて、接触部からの感覚をダイレクトの固体(体)に伝え運動を起こせる仕組みこそ、クライミングに必要な考え方であり、基本運動のように思えてきたのである。

重力と方向。それを「脳と体をどう動かす」のか思考して運動するのではなく、足の先端感覚によって行われた行動自体が運動である・・という考え方、すなわち感覚的行動が運動の本質である・・という考え方をウニ学は教えてくれた。まったく、コロンブスの卵である。

コロンブスの卵・・といえば「宇宙を織り成すもの」という本がある。これも長くて非常に読み応えのある本であるが、宇宙物理学というよりは文学的宇宙論と言ったほうが良い感じがする。超弦理論やなど、解ったような解らないような、最先端の物理学がエレガントに語られてゆく。もうすこし仕事にゆとりができたなら、彼の本をどっぷりと読み耽って見たいものだ(ブライアン・グリーン)

方一つ考えたい事がある。それは1945年という時代の事である。世界史的に考えるとドイツの敗戦である。日本史的には終戦であるが、意外と私たちは日本の終戦について考察しない。なぜ日本が日本としての文化を継承しながら今日に至れたのか、また1945年にいたるまでの日本の武力行使を伴った海外進出について、われわれはいかなる考察を伴って歴史を検証しているのか、という事である。色あせ行く歴史を100年単位で考察する事も大事な歴史検証であるとおもうのであるが、5月の連休は読書週間にして、思いっきり難解な本を読むのもいいかもしれない。

もう少し、付記します・・・。

 

これは、3085本の安打を満塁ホームランで達成した選手の言葉である。その選手が誰かは言うまでも無い。彼は、安打を打ち続けることは「カウントダウンではなく、カウントアップ」であるとも言った。正に彼の概念というか考え方には、普通の人には無いものを感じる。当然目標は4000本を超えることであろう。しかし、そんな長い先については言及しない。あえて「毎日の積み重ねこそが、目標をうむ原動力である」とでも言いたげであった。3085本はあくまで通過点と言うことなのであろう。

僕たちは、野球が好きとか嫌いとか・・言うこととは別に彼をすごいと考える。正に彼の成功を予言した張さんの言葉を借りれば「天晴れ(あっぱれ)」としか言いようが無い。

そして、彼が言った言葉がさらに彼の魅了を引き出す「ボクは(何かを)持っているんですね」

そう、彼はここに来て初めて自分が普通ではなし得ない、特別な何かを持っていることを自ら認めたのである。それがあまりにも自然で謙虚な発言に聞こえるのは、あまりにも特別な言葉ではなく、彼にとっては普通の言葉だったからなのだろう。

しかし、彼だけが人類で特別な人間であるとはボクは考えない。いいや、人類という枠にこだわらずに考えると、存在すべてが特別なのである。

山や川などの地形も、動植物の生き方も、毎日沈む夕日や、咲いては散るサクラの風流も・・どれ一つとして同じものは無く、すべてが特別の積み重ね・・のように思えてならない。

ここのところロックの生徒の復活が多い、小学項の途中でやめたり、中学に入学して続かなかった子供たちが、復活してくるケースが増えている・・ということである。

そんな君たち一人一人に伝える言葉がある「君たちも、皆、特別な何かを持っているんだ。それを信じて、今できる事を続けることだ。続かなくてもいい、挫折する事も、あきらめることも、大切な経験なのだ。しかし、逃げてはいけない。自分の人生から、人は逃げられないものものなのだから」と・・しかし、それはボクが子供たちに伝えているのではなく、本当は自分に言い聞かせている言葉でもある。

こんな年になっても、いつも挫けそうになる。あきらめることができなくて、ずるずると引きずることも在る。怠けるわけではないが、サボることも人生には重要な栄養でもある。

そして、何かにつまずいたりしたら、ここに帰ってくる・・そんな君たちを、ボクはすばらしいと思う。

ボクも、君たちに負けないように、これからも、挫けながら、あきらめながら、自分の道を歩み続けてゆきたいな~と思った。

イチローの言葉より、成長した君たちの決意に引かれて、今日もクライミングの練習に付き合うことになるのだろう。

途上にて・・

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朝寝起きが悪い・・血圧が低いのか、少し体調を壊しているのか?いずれにしてっも、年末から、ほとんど休み無く、いろいろなことを行なってきたから、その反動が来たのだと思う。昨日もゆっくりと休んだが、休みでも、いろんな電話や仕事が舞い込んでくる。残念ながら儲かる話は何処にも無い。

そうこう考えながら、ボーっと、JFAのBWC関連の記事を読んで、ささやかながらの感動を覚えた。

すばらしい大会であったと思うが、さらにすばらしかったのは観客であるという北山氏のコメントである「MVPは観客である」とは名言だと思う。さらに、今後の課題として「国際大会の運営」という反省点を乱した山本氏の考え方も・・なかなか鋭い。

欧米の諸国に比べて、初めてのワールドカップの日本開催は1991年の神戸であったと思うが、それからここまで、とても長い道のりであったと思う。しかし、まだ道半ば?もしくは途上というのがクライミングを取り巻く環境であろうと思う。

まだまだ先は長いが、確実に選手成長はみられ、選手の世界との差は少ない。後は、日本人が文化としてクライミングをどう捕らえてゆくのか・・まだまだ、道の途中であることに変わりはないのである。

性格診断を受けた・??

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なぜか考えることが多くて、自分でも自分のことがわかりにくくなってしまって、自己分析をしたくなった。そんな矢先、ある性格診断テスト・・に妙にひかれた。理由は簡単である、本来は人類学者で、発達心理学や脳科学とのインターフエイスによって、人間の心理的な構造を研究している科学者であり、ボクも一時注目していた学者のテストであったので、受けてみることにした。すると・・以下のような分析脚気が帰ってきた

あなたはネゴシエイター/エクスプローラー(意味がわかんね~)

あなたは物事を大きく捉えて考えるのが得意で、どんな問題でも広く長期的な視点から見ることができます。また、たくさんの事を巧みにこなします。さまざまな素材をたやすく組み合わせ、また多くの要素を直線的にではなく網の目のように捉えて考える傾向があります。あなたは想像力があり、さまざまな仮説を立てて考えるのが好きです。

あなたは社交上手で、話をするのも人の話を聞くのも得意です。 他の人の表情や身振りや声の調子を正確に読み取ることができるため、人が望んでいることや必要としていることが直感的にわかります。

あなたはとても温かい心の持ち主で、大変面倒見のいい人です。そのせいで、友人や同僚を助けるために自分を犠牲にすることもあります。また、あなたは世界をよくするために何かしたいと願っています。

あなたは新しいアイデアや新しい体験を歓迎します。柔軟性があり、人当たりがよく、冒険心もあります。あなた自身は計画性のある性格を持ち合わせていますが、感覚的で自由奔放な人に惹かれます。

あなたは対立を好まず、お互いが納得できる解決策を見つけようとします。そしてネゴシエイターとしての手腕で、周囲の混乱した状況をうまくおさめることができます。

あなたは温かく思いやりがあり、刺激的でもあるパートナーです。

・・・・というものだった。う~ん、なんて言ったらいいのか・・ボクを知る人はこの分析結果をどのように考えますか?自分的にはかなり的を得ているような気もしますが、検査の書き込み方で、このようなコメントが帰ってくるなんて創造ができないくらい、簡単な質問の繰り返しに明け暮れるのです。およそ60分以上は設問に答えていたようにも思います。この人はボクが知っている、性差を研究をしている人類学者とは同姓ナだけで、違うひとかな~「ま、いいか」みたいな軽い感じで、最後まで『何度同じ事を聞くんだよ!」と半分怒りながら、半分あきらめながらの検査を受けていたのですが・・・

しかし、検査結果を送られてきて「ん、なんでこんなことまで解かるの」って感じで、相当納得してしまったのでした。大学時代もいろんな心理学の研究の検体になって、検査をさせられました(実は好きだったのですが)あったことも無い人が、まるで僕を知っているかのような分析をするなんて・・やはりこの科学者は『ただ者のではない』と思ってしまいました。

只者ではない・・といえば、1990年代~の日本の経済対策を非難し続けたアメリカの経済学者がこのほど日本の金融対策に対して謝罪したのには、非常に驚きました。確か彼はノーベル経済学賞を受賞した優れ者なのですが、自分の無知というか、考え方、見識の甘さを謝罪したのでした。

そう、彼が言っていた『日本にはおそらく数人しか、金融工学も含めて経済の本質を理解している学者はいない』とさらに『アメリカには世界の経済の最先端を研究している学者は500人をくだらない』とも言っていましたが、アメリカの金融工学の論理の曖昧さや経済対策の遅れは、日本の対抗の比では無く、最悪のシナリオだったと、謙虚に謝罪したのであります。思わずボクは「すげー経済学者だ」と彼を見直してしまいました。

そういえば80年位前にアインシュタインが「すべての事象を物理学で証明できないことは無い」と豪語していた話をどこかで読んだ記憶があります。すなわち「神はサイコロを振らない」といエピソードです。この場合の神とは物理学をさすのですが(とボクは理解している)・・しかし、1960年代の中国の山村に渡り、気の研究に浸っていたという事実もあります。

「神様はサイコロを振るときも在る」その不確実な要素が宇宙を創作した偶然であることの証明が、昨年のノーベル物理学賞の受賞につながったのだろうと、ボクは考えています。

考え方や発想に固執することも大切ですが、考え方のセオリーに矛盾が生じたのなら、考え方を改めることも重要な選択なのかも知れませんね。

以前に「諦めを科学する」という項目で(不確かな記憶ですが)「あきらめるとは、明らかに見極めること」と書いた記憶があります。

日本文化においても「侘び」と「寂び」とはまったく別な概念であること「わびさび」と同列で検証する以前に考えることは多々あるような気もします。このような考え方の多くは戦乱に終止符が打たれた江戸時代に開花した日本文化であります。特に千の利休、世阿弥などは江戸のというか、日本の近代文化に多大な影響力を与えた思考であるともいます。浮世絵などもそうですが、それらの文化を最初に評価したのは誰なのかを・・しっくりと考える必要もあると思います。

何もすることがなくなると、こんなことを考えてしまいますね。日本という国民の性格診断をすると、どんな性格が浮き彫りになるのでしょうかね?

相変わらず、なにを考えているのか解からない自分に困惑する毎日です。

明日は定休日です・・では、また木曜日に・・。

男子は、正式発表を待たなければなりませんが、村岡達哉さんが2位かな!!すごすぎ

女子決勝は、僅差で、野口啓代さんが、優勝です。おめでとうございます。

決勝には、女子の野口さん。男子は村岡さんが進出したようです。でも、相当辛い課題というか・・波乱が起きたみたいですね!

日本向けリザルトはhttp://homepage2.nifty.com/jfa/compe/ic/data/bwc_kazo2009.pdfです。

感想というか(以下4月13日追記)

詳しい話は聞いていませんが、野口さんもよくやりました。下馬評は優勝でしたから、そうとなプレッシャーがあったと思います。改めておめでとうございます。

村岡さんは、噂では実力者との事でしたが、まさか、ワールドカップで結果を残すなんて、凄すぎですね。これを機会に更なる躍進と、世界の頂点を目指していただきたいと思います。おめでとうございます。

日本のクライマーの努力の成果というか、クライミングは日本人の体格や洞察力にあっているスポーツといえるのか・・そのどちらもがあると考えられますね。

ルートにも強いクライマーはボルダーにも強さを発揮する可能性が、さらに高まったような気もします。逆に、ボルダーに強いクライマーもルートに取り組むと、コンペで更なるサプライズが起きる可能性があるというか、自分のクライミングの可能性が大幅に拡大するような気もします。

クライミングは在る意味では知的なスポーツといえます。セッターの思惑や意図を理解して、自分流の解決手段を短時間で見出す感覚や洞察力。それを瞬時に身体の動作に変換して表現する能力など、ひらめきも重要な要素ですね。

また、いかなる状況にも動じない、強い精神力、恐怖や重圧に耐える精神力などさまざまな要素を必要とするスポーツだと、改めて思います。

コンペだけがクライミングではありませんが、自然の岩が自ら無言で教えてくれるスポーツでもあり、あるいは宗教の修行僧のように、心の修行も大切なスポーツかもしれませんね。

力を入れる・・という強さではなく、岩の思うがままに身体を同化させる・・そういう『やわらかさ』あるおは『しなやかな』が求められるスポーツなのかもしれませんね。

今後の更なる躍進や、日本での認知が促されることを、期待して止みません。

最後に、大会を立案、運営管理した、埼玉県加須市市民の皆さんや、埼玉県山岳連盟の皆さんの尽力も並々ならぬものがあったと察します。こういう努力の積み重ねが結果を生むのでしょうか。これを機会に日本もワールドカップの定番開催国になるといいですね、選手の励みにもなると思います。

大会関係者の皆さん、本当にお疲れ様でした。ゆっくりと休養ください。

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こちらに詳しい事が載っていますがhttp://www.ifsc-climbing.org/index.php?page_name=resultservice&comp=09_WC_1&cat=ICC_FB

私は星を信じない

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「私は星を信じない」
そういったのは、天文学者である。
彼は天文学の最先端の研究をしている
銀河系の地図を作成している

「私が星を信じなくなったのは、12歳のときだった」
彼はいとも簡単に言い放つ
「そう、思ったとき、天文学者になろうと思った」
とも言う。
星は光を放つが、そこには生命は存在しない。地球は青くみえるが、自らの力で光を放たない。
そんな簡単なことへの疑問を感じない僕らは、星に生命を感じる。

銀河系のほんの23%が理論天文学によって解明されつつある。
僅か23%しか解からないのに、そこには、1億を超える地球型惑星があるという・・すなわち生命の存在があるというのだ。
言葉を変えるなら、私たち以外に宇宙人が1億種類居る・・ということである。
一億も宇宙人が理論上存在するなら、何故、人は私たち以外の宇宙人(我々も宇宙人)と会えないのであろうか?
何故、私たち以外の宇宙人は、私たち宇宙人(地球人)とコンタクトをとろうとしないのだろうか?
さまざまな疑問が沸く。
そんなにたくさん宇宙人が居るのなら、何故会えないのであろうか・・という疑問が一番大きい。
そこで、私は考えてみた。
もし、宇宙が地球の大きで、地球の23%の陸地に1億人の人間が居ると仮定して、その人間を陸地に均等に配分したら、日本の国土には何人の人間が居ることになるのであろうか・・と。
27万平方キロという日本の国土には2.6人ほどしか、人間は存在しない確率になる。
・・・・・しかし、宇宙は海と同じで容積である、すなわち空間が存在するのである。
宇宙の一つ、銀河系が解明される日も近いという。その100%を理論天文学で証明しても、銀河にたとえ100億の生命を持つ惑星が存在しても、彼らが私たちとコンタクトしていても、私たち(地球人)が他の地球型生命体とコンタクトできる可能性は、46億年前の出来事を究明するよりも、さらに確率の低い事のようにも考えれれるのだが・・・

あと22~3年でその確率をコンピユータは計算するといわれている。

「私は星を信じない」
そういった男は宇宙を研究している。その考え方は天文学の歴史を変えたとも言われる。
「何故、貴方は星を信じないのですか?」
と、あるコメンテーターが彼に尋ねた。
「簡単なことです。一番近い星でも100光年の彼方にいるのです。すなわち、私たちが見ている光は、光の速さで100年前の光です」・・・と。
こんな簡単なことを理解できない自分がいる。
「宇宙を構成していて、そして、生命を育んでいるのは、多くは惑星です。惑星を天文学で研究しないと・・」
歯切れが悪いような、控えめな・・彼の輝きはとどまることを知らない。

太陽系以外の惑星が天文学で確認されてから、歴史はまだ10年ほどしかたっていない。
それほど、私たちは、宇宙を知らないのである。
しかし、今から2500年ほど前には、すでに太陽系に7つの惑星があることを古代の天文学は証明していた・・のである。

子ども会の体験で、20名ほどが大騒ぎして、無事終了しました。見学なども含めると40人ほどが興味深々で見ていました。最初はオッかなびっくり・・という感じの子供たちでしたが、1時間も経過すると、興奮してきて、恐ろしい位の勢いで、汗だくで登っていました。6mの高さに挑戦する、ロープクライミングが特に好評で、疲れ果てて、グロッキーになっていしまっても「まだしたい~登りたい」とうるさすぎでしたね。マ、楽しく汗かいて遊べたんだから良しって感じでしょうか!

クライミングは見学するスポーツではなく、体感するスポーツだといえるのですが、まだまだ、不思議なスポーツ。あるいは、奇抜で危険なスポーツ・・という印象が親達には、ぬぐえないようでもあります。

今日は、ボルダーワールドカップ(ロープを使わないで、クライミングの技術を競う大会)も埼玉県加須市で行なわれていて、世界を相手に日本人選手が頑張って居るようです。おかげで、普通の日曜日よりは暇ですが・・。

クライミングスクールや体験コースが午後1時からとなりますので、よろしくお願いします。

普通になんとなく、しかも、気軽に・・夏のプール感覚で楽しめますよ!

潅仏会(かんぶつえ)

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潅仏会とは釈迦が誕生した日のことである。日本では4月8日がその日とされている。今から2500年位前のことであるから、正確には解からない。また、4月8日は花祭りとして、庶民は花を祭る。花とは桜をさすものと考えられるが、はすの花なのかもしれない。今年は釈迦の誕生を祝うかのように桜の花が満開である。桜の季節には北西の風が舞い込み春の嵐がつき物であるが、今年は穏やかな日が続いている。この日に何かを・・というわけではないが、最近「仏教正典」を読んでいる。なかなか面白い。何が面白いのか・・は、又の日に書くが、仏陀の生涯についてはさまざまな物語があるが、僕が最初に読んだのは手塚治虫の「ブッダ」である・・と思う。たまたまボクの行っていた大学が仏教系であったので、永平寺に参禅にいったりして仏教に興味を持ったのかもしれない。いいや、梅原猛の「地獄の思想」とう哲学書が初めだったのかもしれない。いいや鈴木大拙の「禅と日本文化」を読んでからだったのかも知れない。どちらかというと西洋思考ガ高かった僕が日本文化に興味を持ち、特に仏教文化に深い興味を持ったのは、逆にスーザン・べネデイクト?の「菊と刀」が原因だったのかもしれない。日本人より外国人の方が日本文化に詳しいことの驚いたことがあった。僕たちは外国文化には興味が沸くが、日本文化についてはあんまり考えていなかったような気がした。

「風流」「侘び」「さび」「猿楽と浄瑠璃の違い」など外国人からどれを聞かれても、答える術を持ってはいなかった。これではアカン・・と思い、風姿花伝や千利休を研究したり・・とりとめも無く、日本文化らしきものは片っ端から読んでみたが・・よくわからなかった。むしろ文化人類学からの接近で青木保の「タイの僧院にて」とか、堀田善衛の「インドで暮らす」などを読んでみて、感じた異国としてではなく臨場感を感じた事こそが文化の基層に流れる共通点なのかもしれないと思った。その頃は(20代の前半)は神と仏の違いさえも曖昧にしか理解しいなかった。それは今も同じかもしれない。和歌森太郎の本も読んだが・・・世の中わからないことばかり・・って感じで、それから30年たっても、何度本を読み直しても、理解できないことは理解できない。仏教正典などもその一つなのだろう。栃木県に千部が岳という山がある。一説によると弘法大師空海が経を千回読んでも、仏の教えはわからなかった・・という云われを持つ山らしい。山頂の近くに護摩壇跡があり、境地を開けない代わりに、不陀落山(日光男体山)を見つけた・・といわれるところである。なんとなく霊場っぽいお寺がある。霊気が漂っているが、一般的にはそばの名所となっている。信仰心も名所のなってしまっては、観光としてしか、見識を持たない日本人が物見遊山気分で真言密教の護摩を見物している。その真意を推し量ろうとする外国人の目線と、ただ、そばを食べにきてなんとなく仏教を見学しに来た日本人とのコントラッストが妙に面白い。ボクも仏教を知らずして、結婚式は友引で教会という輩の一人に過ぎないのだが、仏教文化を考えながら日本人としての血の記憶としての文化を、なんとなくブッダがら授かりたいものだろ、不信心ものである自分を問いただして見たくなる時節でもある。

桜の花に日本人の文化や風流を感じない人はいないだろう。なぜか桜は日本人の心情に合う。その何故が解からないから、何故を問う。悟りとか解脱には程遠いが、考える事の大切さを、桜の乱舞に教えられる思いがする。何の邪念も無く、ただ思うがまま、あるがままに咲いて散る。潅仏会を明日に控え少しは日本人の情緒に浸りたいところだが、ガキども(生徒)がジムをやかましく乱舞している。

栃木県便り・・

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花の季節は忙しい

巷では、高速料金の値下げで週末は観光ブームのようである。しかし、斜陽産業は多々あるようだ、花見には行くが、スキーとかスケートなどウインタースポーツは何処に行くのであろうか?

首都圏では我クライミングというスポーツは結構浸透していると聞く・・しかし・・ここはいつもと同じ・・。それでも少しづつ「クライミングをしてみようかな」って感じで、挑戦者は沸いてくる・・マ、ろうそくの陽炎のようでもあるが、新しい子供たちが楽しそうに汗をかいている。いい感じである。首都圏の勢いを地方に!!と、ここで叫んでも、盛り上がるわけでもない。

この時期は、離任着任、年度末、入学・・などなど、気持ちを新たにする季節というのか・・。
桜の花を愛する日本人の心情がそうさせるのか、花見の酒宴がピークを迎える今週末であろうか。桜の開花は僅か5日間。しかし、今年は15日間も咲いている花が多いと聞く。
ここにも地球の異変があるのだろうか。
咲けば散る。そんあ鮮やかな桜の花の行きかたにも、未練があるのだろうか?
そんなに長く咲くのであれば、桜の価値も下がるのかと思いきや、わたし達の心情は、以外や高揚する。咲き乱れ、爛漫を持続する桜。短くはかなく・・が桜の桜らしさ・・?
しかし、らしさが無くとも価値は変わらない。むしろ愛でる気持ちが不思議と持続する。
長く咲くことを未練がましいとも感じない。
なぜか自然に受け止める。
どうしてこんな矛盾を人は心情に抱えているのだろうか?
古に西行とという歌人がいた。彼は吉野山に多くの作品を残した。

吉野山 
昨年の日折の道変えて
まだ見ぬ花の道を尋ねん・・・・?

最後は忘れしまったが、なんとなく雰囲気はこんな感じであったと思う。

訳すると

去年のある春の日に訪れた吉野山の桜の花は見事であった。その花を来年も見に行こうかと思い、道知るべに枝を折っておいたが、今年は昨年とは違う道の、まだ見たことの無い桜の花をを尋ねてみようと思う・・・

という感じだったと思う。

この尋ねるという一字をとって娘の名前にした。尋ねるとは、不思議な意味を持っている。波の数は1尋2尋というらしい。尋とは波の数を数える単位のようでもある。
幾千という波が行き交う大河や海。その中でたった一つ、等身大の長さで人を愛したり、慈しんだりできる人・・尋とは等身大という意味でもある。

大それたことを考え実行する、あるいは目論む事より、ささやかで慎ましく、あるいは貧しく生きることのほうが、人生には深みがあるのかもしれないと思って懐けた。
それは娘への願望ではなく、自分の人生への願望でもある。

そう考えると、ボクは道を踏み外している。
娘も、わがままに育ててしまった。
しかし、わがままとは我侭である。自分勝手という意味ではなく、我在るがままである。
ささやかな細波が小さな波頭を作らない海には静寂しかない。静寂という孤独は人生に生きがいを与えるのであろうか?

少し位は道を踏み外して騒がしく生きてみるのも、また人生の醍醐味かもしれない。
現状を良しとするのではなく、常に不満足に生きることこソ、仏の教えなのかもしれないなどと、取り留めの無いことを考えてしまった。

昨日は娘と喧嘩をしてしまった。父としてではなく人間として娘に立ち向かったのだが、娘はそれを悲しい・・と思ったようだ。
伝えることの難しさ
教えることの難しさを
あえて、昨日、考えさせられたのであった。

花は咲く
人心の思惑も無く慾も無く
ただひたすらに
咲いて散る

・・・・・西行には程遠いが、今宵の心情とでもいえるだろう。クライミングで風流を楽しむって分けにも行かないか?

スタッフ紹介

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今年4月より、ロッククラフト小山店に新しいスタッフが誕生します。ロッククラフトの生え抜きの一人で今年から高校生になります。皆さんのお役に立てるかは解りませんが、ジムで見かけましたら気軽に声をかけてくださいね!!  よろしくお願いします

平井悠希(ひらいゆうき)インドアルート オンサイト 5.12a レッドポイント 5.12b

               インドアボルダー レッドポイント 1級

主な競技履歴

2006年jocアンダーユースb優勝 

2007年jocユースb優勝 アジアユースカップ  スピード部門2位(ユース日本強化指定選手)

2009年ユース選手権ユースA3位 アジアユース選手権日本代表 ワールドユース選手権日本代表

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花より団子

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最近の言葉は意味が解からない。娘は「花より男子」を「はなよりだんご」と読む。おそらくテレビドラマのタイトルなのだが、意味が解からない。「意味なんてどうでもいいの」と言われても、意味があるんだろうと考えてしまう。そこで「花より団子」って言葉があることを教えてあげると「見るより食べる」と訳する。確かに見るだけより食べれる物のほうが重要といわれれは世相を反映しているとも言える。しかし、夜空を見て「お父さん、きれいだね」って感じは「団子より花だよね」っていうと納得する部分もあるようだ「風流を楽し無より、現実に直面している」とは今日の世界経済かあるいは金融危機なのか、あるいは北朝鮮の人工衛星は本当はミサイルではなく花を咲かせる灰(花咲じじい)なのかもしれない。お互いに保護主義的傾向がガ高まり、人間関係は希薄になっている傾向がある。

みんなの利益なんて美談はG20にはありえない成果なのかもしれない。毎日28万食の食材をごみに変えている日本。世界には6700万人の自閉症患者がいながら、手を差し伸べることを拒んでしまう現代社会。自分の利益が優先で子供とか公共の利益は軽く考えてしまう、支配者階級?

貧しくも風流やささやかとか、わびしいとかつつましいとか、さびしいという日本古来の心の感覚に少しは目覚めてほしいと、花(さくら)は舞うのかもしれない。桜の花の咲くころは・・そんな古風な感傷に浸るより、団子(酒宴)のほうが大切なのかもしれない、花より団子ではなく、花も団子もほしいのが人情というものなのかもしれない。北朝鮮の更なる経済的弾圧をかける・・・太陽政策とは言わないがもう少し融和できる政策を選択肢に入れれないのだろうかと、すこし疑問を感じる。おそらく、北朝鮮ばかりではない、ソマリアやバングラデッシュ、インド、パキスタン、イスラエル、クロアチアなど世界のほとんどの国は花という風流を楽しむことも団子という経済的余裕もなく、その日、その日を如何に生きるのか考える事でいっぱいで、心に余裕などないはずだ。

おなじ宗教を持ちながらの対立も、幸せ(平和)には薄い(遠い)環境である。

もしかしたら貧困という風流の本質こそが「侘び寂び」といわれる日本文化の本質なのかもしれないと、ふと考えてしまった。

貧しいというほど、日本は貧しくも無い。つつましい・・という生き方の風流も古の文化になってしまったのか。

貧しくも、理想を求めて明治を切り開いた志士たちの遺産を、わたしたちは無駄にしないように、少しは風流を楽しんでみるのも良いかもしれない。

桜の花は、日本人の心のどこかに日本人らしさを伝えようとして、咲いては散るのかもしれない・・。

 

 

 

 

ユース選手権で成果の出たものも、出なかったものも、あるいは年齢制限で出場できなかったものも、それぞれ良い練習だったと思う。特に初めて5.12台をレッドポイントした2名は大きな自信につながったと思う。10回も5.12台をトライした者もいた。「今日一番頑張ったのは先生だね」とうまいことを言われて首が回らないほど疲れているけど、少しは救われたような気がした。もう少しスタミナを付けるともう少し上に行けそうな余裕を感じた。2ヵ月後位かと思われていた5.12のオンサイトも目前に迫ったといえよう、レッドポイントもほとんど2撃であったのはすばらしい。しかし、練習を怠ると元に戻ってしまうのだ。そこのところもよ~く考えて練習したほうが良い。特にスタミナは時々の練習では身につかない。気持ちが乗らない日も、ひるまず、休まず、続けることだね!!

お疲れさん・・・とは自分に言う言葉です。

真理の隣?

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続々・・というわけでもないが入ってくる。この季節は卒業と入学、さまざまな移動が行なわれる時期でもある。1年間楽しんでいた人が進学や転勤でこれなくなったり、舞い戻ってきたり・・と忙しい。

ボクは少し体調を崩してしまった。昨年末からの忙しさの生だったかもしれない。2年前の病気も影響があるのかもしれないが,あの頃よりはず~っと体調は良い。少し無理ができる体にはなったが慎重に行きたいものだ。4月は生徒たちも落ち着かない。進学して新しい環境に直面する。それは誰にもあることだが・・神経質になったり、希望よりも不安のほうが大きいようだ。

最近は体操関係のクラブやサークルに入っていた子供たちのクライミング体験がなんとなく多いようにも感じる。一方団体競技での人間関係に疲れた・・というか、小さな反抗期に直面して自分でも心の制御ができなくて反発する子供も多く発生する。親の心配も大きいようだ。

クライミングは個人競技であり、心と体と思考のバランスを育成するスポーツでもある。練習は全体練習ということはほとんど無い。自分のできるところ、楽しいと思えるところから始めればよい。

競技志向を持つことも任意である。難しい課題を制覇できたからすごいということでもない。自分の力にあった緩やかな変化であってほしいと思う。

しかし、スポーツだけでなく社会人になるとやはりいろんな形での競争が始まる。それは人間だ毛ではない。すべての生きとし生けるものに均等に与えられた事でもある。

金融経済がすべての上位に属する・・というわけでもないが、儲かることが勝ち・・というような社会になってしまったのは少し残念だが、そういうことに反抗して自分の生き方や自分が持つべき文化とは何か・・を考える人を育てたいと、生意気なことを考える。

ボクの教育方針は「教えないこと」である。

たとえば以下の問題に答えよ

三角形の内角の和は幾つであるか?

1)180度  2)180度に近い  3)180度ではない

この問題は、どの答えも正解なのであるが、その考え方に至るプロセスを大切にしたいのである。

単にそう教えられた・・という答えは解とはいえない。たちえ文部科学省が認定した答えだったとしても、選択する理由が大事なのである。それはある意味で失敗を恐れない・・という気持ちの強さや心理追求へのこだわりに趣をおきたいからでもアル。

ノーベル物理学賞を受賞された益川先生は「真理とは、空想や、そうあってほしい・・という願望では究明できない」といっておられた。宇宙人が居てほしいとか、居るはずであるという合間ナ考え方ではなく、何故、宇宙人が人間とコンタウトを取らないのか・・ということが証明されれば、その存在は否定され、そこにある確立の破れを証明できれば実在する。・・ということのようだ。

あるいは時間を移動する原理(タイムとラベル)は物理的に存在しない・・とか、彼の考え方には一定の方向性がある。

また、彼は「存在はアンバランスの中に存在する」と宇宙の存在を自ら証明した理論を元に説明する。

クライミングにもバランスは大切な要素である。ボクは常に「バランスを考えろ」というが、逆説的にいえばバランスの調和が崩れていることが現実である・・ともいえる。

バランスとアンバランスとは常に隣接する関係にある。お互いを否定はできない。

たとえば文学的に数学を証明するには「数学とは非現実の証明をも含む論理」であり物理学とは「存在を論理と実験で証明するものであって、仮想では物理にはなりえない」ということであろうか。

しかし、アインシュタインの考え方には仮想も含まれるし、曖昧な答え(あるいは思考)を数学的に証明することも可能なわけである。

もう少し話を戻すが、益川先生は「数学は物理学の論理を証明する手段ではない」とも言う。すなわち何事もかかわりあって存在しているわけで、労働者が下等で経営者が上位に属する・・という考え方も存在しないのである。

また、日本は順位付けは差別にあたる、というが子供の能力を数字や記号に置き換えて偏差値的評価をすること事態がまた、差別ではないのか?・・など、さまざまな思考にはバランスとアンバランスが共存する。

宇宙が100億光年前のアンバランスによって成立したのであれば、バランスは取れないのである。常に存在は乱れ、破れ、混沌とするのである。そのことが秩序であると日本書紀には書いてあるのだが、そう考えると文学もまんざら「捨てた門」じゃないと思う。

 なんか、理屈っぽい事を書いてしまったが、軽く読み流してほしいものだ。

 

 

フリークライミングスクール・ロッククラフト

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