暫定的であるが、自分の記憶が消えないうちに少しだけ、この言葉を記録しておこうと思う。
この言葉は詩人アルチュール・ランボウが自信の思索に対する考え方を表現した時に用いた言葉だと記憶している。しかし、近代ポストモダン、あるいは構造主義などを語るとき(1980年代前半頃から)しばしばこのような言葉が近代思想や哲学、社会学、あるいは記号論などを言葉で表現するときに用いられてきたようにも思う。擬似理論や反社会的表現としての官能表現・・それは,ランボウのみにとどまらず、詩人マラルメ、ボードレール、ホイットマンなどや日本では中原中也や宮沢健治などの詩や文学研究などのおいても、このような思考が不可欠であったようにも思う。
「調和しない緒力」という概念はクライミングにおいてその行動や運動方法を魔術的あるいは非日常的、あるいは懐疑的であり非科学的運動であり、疑似科学的とも捉えられているような気のする。すなわち、クライミング経験のないものにとっては、非日常的な行動様式、あるいは非科学的運動と考えてしまいそうなスポーツであると言えなくもない。
非科学的、あるいは非現実的と考える背景には「垂直を登る」とう概念を認識できないスポーツの非日常性が思考の概念に根深く存在するからに他ならない。
それは、クモが天井を這い回ったり、ゴキブリが壁を駆けぬけるような、あるいは蟻が意識を持って集団行動を行なっている可能な錯覚を覚えることと何も差異が無いようにも思う。
まして、天井をクモの様に這う・・という行為を目撃すると、まさにクライミングは悪魔的でありサーカスのような感覚を植えつけてしまい。非現実であると思考が帰結してしまうのかもしれない。
其処に介在するのは、昆虫はその行動様式に意識や思考を伴っては居ないが、人間がその行動様式を見ると、其処に社会構造の意識が介在してしまうという錯覚を覚えてしまう・・と言う事から起きる現象でもある。人間とは、他のすべての行動様式には思考や学習認識が働いていると認識してしまう思考回路が脳に内在しているからに他ならない。最近の脳科学の発展にま目覚しい成果が見えるが、その行動様式を機械工学に置き換えて、人工意識から人工知能へ科学を発展させるには、まだまだ、何も手立ても見えないのが現状でもあろう。
人間と、その天井に広がる大岩壁の間に調和という概念は存在しないのである。
そのような概念を作品に残し、自分の人生や思考意識そのものを芸術の領域に昇華しようとした芸術家も居る。池田満寿夫はそのような心の領域の矛盾、すなわち調和し得ない緒力を自分の作品(あるいは自分の人生そのものを作品)として記憶に残した芸術家であったのかもしれない。彼の生き方はすべてがエロスに支配されていて、家庭に飾るには抵抗感を感じる作品やテーマが多いのが一般的な考え方であろう。
そういう言う意味においてクライミングというスポーツ文化も、日本人の文化的思考概念では「調和し得ない緒力の束」となってしまうのかもしれない。
文学において、当初、ランボウやボードレール、あるいはマラメルやホイットマンなどの詩は懐疑的でありあるいは直接的な文字による性描写であり社会に同化しえない文学と考えられていたようにも思える。マラメルはいう「何故、言葉で詩を表現できないのか」・・という概念と人生のほとんぞの時間を向き合った詩人でもある。
調和し得ない現実としての文学の出現は、近年に始まった事ではない、日本書紀においても混沌であることの秩序性を、あるいは因幡の白兎という伝承文学における、差別や自衛、排他と共存など考えれば限がないほど、その中にある混沌とは、正に難解な秩序である。
近代思想を考えるとき、ドルーズの哲学やガタリの統計学的思考との融合が構造主義やポストモダン主義を巻き起こし?あるいは現代の管理主義を招いたのかもしれない。個人の守秘義務を尊重しながら、町には監視カメラが氾濫する現在は、正に人間の行動を機械的に制御できるかのように共存させようと人間社会に侵食しつつある。それはロボット玩具に愛着を見出したり、ペットと同じような感覚で愛情を感じ育てようとする人間意識の曖昧さ、あるいは思い込みの強さという幻想に近代科学は寄与していると言っても良いような気がする。人間は自然から遊離して機械化学と結合しようとしているのであろうか・・さまざまな疑問が沸き上がってくる。
科学の発達も個人情報の保護?とはかけ離れた「緒力の束」となって逃れられない現実に束縛競れているような気もする。科学や文明という、あるいは便利さという文明に身体の能力だけを「見えない剣」として身にまとい無謀な挑戦をするクライマーの行動の非現実性は、安全思考の現在では、やはり「調和しない緒力の束」となっているようにも感じる。
ロボット工学の先駆者であるA氏(歩行するロボットの下肢を1983年に実証した)は「思考を伴う人工知能を有するアトム(手塚治虫)は工学上ありえない概念である」と言い切る。それは人間が思考による思い込みであって、知識や経験によって学習する知能を機会では作りえない・・という考え方でもある。
クライミングという行動様式は、非現実的な人間の行動様式の認知意識に根ざす、特定な思考であって、非現実的な現象でも魔法でもなく、人間が成し得る事実である。
ゴキブリは気圧や風を体毛センサーで認識し、無意識に全速力で走る。その気は思考は介在しない・・と動物行動学者は定義している。蛾のオスはメスのフエロモンを認知するとメスの行動方向に追随する。其処にも脳の思考は伴わない。又、蟻は壁を登るとき、脚の先から粘液を噴出して、壁から落ちないように行動できるように仕組まれている。其処にも脳の思考は伴わない。あるいは水面に張力を与えることによってアメンボは水面に浮く仕組みを持っているが、ここにも訓練による脳の意識は存在しない。
人間の脳は25億以上の脳細胞で制御されている。しかし、昆虫の脳には10万個ほどの細胞しかない。その数は成人した人間が1日に失う脳細胞の数(20万個)の1/2ほどにしか及ばないのである、しかし、クモは3億6千万年、ゴキブリは5億年も生息しているのである、人間の700万年と言う歴史など、川面の泡沫であろう。
生物の進化の歴史をたどるならウイルスには及ばない、さまざまな説があるので、どの位の歴史をウイルスは持っているのかは皆目見当がつかないが、地球において最初のプルームの冬が31億年前だったとすると、ウイルスはそれ以前から地球に存在していたと思われる。ここでウイルスの概念ついて説明するが?、生物学上ウイルスは生物ではない・・のである。
身体において人間の日常生活を混乱させる背景にはさまざまなウイルスが存在するが、一方ウイルスの存在を確認しその対策が科学や医学を発展させたともいえる。あるいは生物の進化を決定付ける要素として、今後はウイルスの進化の過程をもう一度検証することも必要であるような気もするが・・・。
クライミングにおいて調和しえない現実として、強さと軽さ、速さと重さの概念がアル。強くありたい・・と追う概念は、過度の練習によって、筋肉量を増やすことによって実現されるが、クライミングという行為は重力によって、あるいは力学的エネルギーによって支配されている。この現実には軽いほうが有利である。一方落ちる前に掴めとか、落ちる前に上がる・・という概念には速さ(クイック・ファスト)という考え方が有利とも考えられるが、遅いとか緩いとか言う概念には到達できない人間の思考の錯誤が其処に介在している。すなわちスローとかスタテイックという速度認識のことである。それは体内を循環する血液が60秒で10万キロメートルも進むとか、月が時速2500キロの速度で軌道を周回しているとか、太陽系が2万5000キロで銀河系の軌道を回っている・・と追う現実?を認識できないことに由来する。人間とは科学的認識より感覚的認識による行動や感情表現に左右されやすい・・といことでもあり感情や感覚認知は非科学的ではあるが間違った考え方ではない・・という思考も重要な科学的究明のキーワードなのである。
すなわち、緒力との束という現実は、一見、非科学的あるいは非現実的ではあるが、其処のある現実こそ事実であり真実なのである。
「浄玻璃(じょうはり)の鏡(まったく曇りのない鏡)」に写せば、すべてが究明されるのかもしれないが、科学が幾ら進歩したとしても、浄玻璃の鏡に勝る純粋な透明度は作りえないのである。
練習は成果として筋肉の量の増大、あるいは測定数量の増加などを生むが,その代償として質量の増加を生む。すなわち体重が重くなると登りにくくなるしスピードは遅くなるのである。調和の難しさが其処にある。
この文は次回、さらに書き進めます、 ひとまず。。続く・・(3月3日加筆)