何故、岩に登るのか?
そんなことを考え続けて30年以上の年月が過ぎ去っていった。、どこよりも高いこと。より困難を求めること。前人未踏こそ究極と考えること。クライミングの手段あるいはスタイルを守り抜き、その究極を求めること・・さまざまな紆余曲折を経て、1982年、僕たちは自由であることを目的として、リバテイ・クライミングスクールを設立した。僕たちはあえて、精神の究極を乾いたのクライミング方法に手段を特化させようとした。そこには、ロイヤル・ロビンスの精神としてのクライミングスタイル「ロッククラフトの基本的考え方」という書物が大きなインパクトを与えていた。どこを目指すのか、あえてアルパインスタイルというロッククライミングの方法論をすべて消去することから、リバテイは始まった。
本来は共存すべき一方のクライミングスタイルであり、僕たちが求める方法論を限定して、そこに自由(フリー)見出すことなど、論理の矛盾としか考えられなかったが、僕たちはその矛盾に、ボクは哲学で、そしてHは実践することで接近を図ったのであった。そこにいたるプロセスになんら論理的な背景は存在しなかった。ただ、何かを否定して、何かにこだわって、クライミングという行為の実現可能な究極を目指そうとした。
そこには、僕たちを進むべき方向に導く羅針盤など存在しなかった。
「とりあえず、サルの行動から研究しようよ・・ビデオ買ってさ」みたいな会話に踊らされて、ビデオデッキを買い、夜な夜なサルの行動(ありは生態)を録画して「サルは何故木から落ちないのか・・」を研究し始めた。僕は動物行動学やら身体生理学などの難しい本を読み漁り、上野動物園に通い「サル山」を眺めては休日を過ごした。
彼は毎日、体育館に行き、鉄棒運動でのトレーニングに浸っていた。
夜は、漫画家たちの楽園「トキワ荘」ならぬ、トキワ橋に通い、城壁の隙間に指を押し込んで、横移動の練習に明け暮れた。まるで黎明期のクライミングは日本の文化遺産の破壊的行動から始まった・・といっても良いかもしれない。そこにはクライミングの一流を自称するすべてのクライマーが連日大挙して訪れ、さながらクライミング界の社交場の様でもあった。
僕たちの目指す「リバテイ」という自由なクライミングスタイルの基本は岩の割れ目・・という弱点を如何について、そこに人間の軌跡を残すか・・ということを究極と考えていた。
その頃は「フリークライミングにおいて、フエイスクライミングは邪道」という概念が僕たちの心を支配していたようにも思う。
何かを否定して何かにこだわって、すべてが解決された先にはフエイスクライミングの可能性もあるだろうが、そのときはクラック、リス・・と言われる岩に引かれた割れ目を如何に忠実に登るのか・・というクライミング哲学の実践を目的として、スクールのプログラムを組み、生徒たちに実践させて喜びを分かち合おうとしていた。今思えば少々強引な思い込みでもあったが、僕たちは純粋に割れ目のぼりに、こだわったのであった。
難問はすぐに現れた、クラックを登る時の指や手のひら、あるいは手の甲などに負うリスクを如何に解決するのか・・という問題であった。
問題はそればかりではない、割れ目のぼりにいたるまでのプロセスにどんなクライミングルートをの登ったり、そのための練習を取り入れればよいのか・・という問題など、難問は多義多数に及んだ。
しかし、曖昧なスクーリングは僕たちの予想を上回り、スクールは1日6000円という値段にもかかわらず、満員御礼であった。装備もすべて持参、シューズ、カラビナ、8カン、などすべて自前、ロープは講習使用はスクールが用意する位で、交通費宿泊費食事など、すべては自己負担、さらにクラッククライミング講習を受けるにはカムロックフルセットを用意することを義務つけた。
強引な方法ではあるが、当時、文句をいう生徒は皆無に近かった。むしろオウンリスクを当然と考えていたのであった。
リバテイ・クライミングスクールの講師Hはすでにカリスマとなっていた。
仲間であり友人でもある僕も、彼のフアンであり、彼に対して崇高な憧れを持っていた。そんな関係は今でも続き、明日、彼の顔を見に行く。特にアポをとって行くわけではない。しかし、時間があればクライミング談義に時間を忘れる僕たちが25年たった今でもここにいる。
クライミングは感情表現の一つであり、難易度は単なる目安以上の何ものでもない。しかし、世間の評価は如何に困難を。如何に前人未踏を・・を評価の物差しにする。僕たちはそんな輩も相手にしなければ、プロとしてのクライミングは存在しない・・という世間の波にももまれていたのである。
経済が伴わない、経済を伴うのを待てば、僕たちは老化してしまう・・困難はどこにでも存在していた。
そんな彼と昨年の12月に会い、ボクは彼の思わぬ言葉に身を震わせた。
「もう一度、一緒に仕事がしたい」
それはボクにとっては夢のような言葉でもあった。
何故1992年にリバテイ・クライミングスクールを封印し、1994年にロッククラフトを立ち上げたのか、
それは彼の復帰まで、その名を封印するための手段でしかなかったのも、隠された話である。
クライミングは感情表現の一つにしか過ぎない
評価が目的ではなく、より困難が評価の基準でもなく・・・そんなことを思いこさせたのであった。
それは小山田大氏の今日のブログのコメントを読んだ後に感じた感情でもあった。
クライミングの感情表現の一つ・・として
2009年3月22日 ロッククラフトはアメリカからクリス・シャーマを招く。
迎えるのは平山ユージと小山田大である。
この3人のコラボレーション実現はボクの発想ではなく3人の発想である。
ボクは、彼らに3人にクライミングの休日を与えてみたかった
3人がプロとしての自分を捨て、僅か数日間、クライミングの愛好者として、自由な空間と時間を共有してもらいたかった。
そんな瞬間が、もうすぐ、ここにくる。
プロとしてのクライミングを脱ぎ捨て、3人の楽しい日本での休日の1日がロッククラフト小山店ですごせることを、ボクは希望する。
何を演出するでもなく・・・
そう30年くらい前、静かだった御岳渓谷で、H谷とすごした柔らかなひと時のような・・・休日のクライミング
そんな穏やかな、休日のクライミングをロッククラフトで共有できれば、3人のコラボレーションに1年以上も時間を費やした僕も、君たち3人も報われるのかもしれないな~と考えている。
楽しみな一瞬が、もうすぐそこに迫っている