2008年10月アーカイブ

「なんとなく」という位置

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「最近、麻生総理の発言に『なんとなく~』という曖昧な発言が目立ち、一国の総理がそんな曖昧な発言を繰り返してよいのか?」という世論があると、ラジオで言っていた。

ボクは「なんとなく』という言葉は好きなので、多少多用しすぎる傾向にあるが、なんとなく麻生発言は、タバコの煙の軌跡を論理で説明できないような、そんな爽快さを感じていた。

「なんとなく」という言葉(あるいは現表)にはどのような真意があるのだろうか?

又、『なんとなく』を二字熟語に置き換えると『曖昧』という言葉でよいのだろうか?

またまた、それらの言葉を英語では、なんと言うのだろうか・・と、考えてみた。

「なんとなく」という言葉を行動心理学である人が定義すると、瞬間感覚と洞察的思考感覚の間の「適応的無意識」という領域に当たるらしい。瞬間的感覚とは時間にして、0.3秒以内での反射的行動や思考の事を指し、洞察的行動や思考は、2秒以上の時間的推移を経た思考または行動様式をさす現表(言葉)をさすようだ。

では「なんとな(あるいは適応的無意識)」という思考はどこに位置するのかといえば、0.3秒~2秒以内の時間的経過の範囲内で行なわれる,思考または行動様式なのである。

科学とは『いい加減』ではいけないらしく、明確に説明できないといけないようで、こんな定義がなされるようだ。

「いい加減」とは、どんな加減なのかというと、曖昧な加減ではなく「明確な加減」を指ししめす言葉

であるはずなのに「それでは曖昧で、よくない加減』であると考えてしまう一般言語の認識として舞う込みでは「不明確な現表」であると断定してしまうようだ。

曖昧がよくないとするなら、物理学においてアルバート・アインシュタインの「相対性理論」とは具体的なのかというと、「ほぼ(この表記も曖昧であるが)」100年近くも難解な定義といわれていた。

そもそもアインシュタインの「相対性理論」とはアンリ・ポアンカレやヘンドリック・ローレンツなどの相対性原理の物理学的証明であって、有名な数式があるが、ある意味で数学や幾何学を統合して、物理学へと発展統合させた功績と、僕は考える。

「宇宙は有限であるが、限りがない」とか「ここからもっとも遠い位置とは『ここ』である」とか「物理において『神様はサイコロを振らない』」とか数え上げたらきりがないくらい文学的表現に満ち溢れた言葉を合えて無機質な記号と数式によって表現した功績は多大であるといわざるを得ない。

今年のノーベル賞受賞者である、南部陽一郎氏のアインシュタインの相対性理論の破れの発見?による功績とは、わかりにくい表現であるが、わかりやすく表現すれば(かえって難解になるのかな)たとえば宇宙には誕生があり、存在の誕生とは拡大を示唆するが、あるいは縮小もありうるのではないか?・・という曖昧さは物理学において理論の証明になるのですか?という矛盾への問いかけに対する功績と、またまたボクは判断している。

もう少しわかりやすく説明すると南部氏は「ひも理論」の推進者、あるいは創始者といわれている。

いずれにしても物理学を文学で表現するのは、非常に難解であるが、文学は「メビウスの帯」や『クラインの坪」を言語や図形(あるいは絵)によって表現できるが数式には置き換えられない・・様な矛盾をはらんでいる。

そのことは『曖昧で』なんとなく表現してはいけないことなのであろうか・・

という思考のことを、この場で考えてみたかったのである(この場で考えるというより、ある意味ではまとめる・・といったほうがよい)

数学においての曖昧理論というのがある。いわゆる『ファジィ集合論』である。これも難解でユニークな論理であるが、たとえば1と2の間はどこにあり、それは不明確な部分ではなく、明快な位置を含んでいる・・という考え方である。(う~NN,説明するのが難しいのでもう少し僕の中で整理する日地洋画アルかな)

テレビのチャンネルは当初12しかなかったがそれを12チャンネルとていぎるけてよいのか?

チャンネルとチャンネルの間にある雑音、あるいはノイズはチャンネルではないのか?とか・・

脳科学において「明確な行動や論理は、アイドリング中に目覚める」というような考え方である。

文学においては、大江健三郎氏のノーベル賞受賞時の講演『曖昧な自己と私』(ボクの記憶が不明確であるのでタイトルが違うかもしれないが)のなかに見る曖昧な自己の表現としての文学の位置への提言は見事であった。

大江氏はサルトルに傾倒していたといわれるが、サルトルといえば、作家ジャン・ジュネの研究や妻であり社会学者あるいは哲学者である、シモーヌ・ド・ボーボワール(特に「第二の性」で有名)を思い出してしまうが、やはり彼らの哲学には曖昧であることへの挑戦が伺われる。その件も触れると、長くなるのでここでは割愛する。

すなわち『曖昧である』という現表(言葉)は不明確であると揶揄する考え方や『そういう考え方は論理ではない』という考え方を否定しているところの存在し、論理は『なんとなく乗り核の存在する真理であると考えている、文学、哲学、物理学者などが多い・・と追うのが現実である。

今回のノーベル賞を受賞した、益川氏の言葉が面白かった「今回の受賞は私が受賞したことより、私が神とも慕う南部先生が受賞されたことのほうがうれしい」とむせび泣いていた。

又『物理学とは文学と同じようなもので、文字で表現できないことを記号で表記しているだけで文学と何も変わらない」と言ってのけた豪快さにもあった。

いずれにしても重要なことは、文学や芸術において、作品が完成したことが終結ではなく、あるいは物理学や科学において存在が数式や実験で証明できたことが結論ではなく、存在自体の持続可能生(Sustainability)こそが重要な考え方であり思考であるということである。

 

多分、近い未来に銀河系宇宙に100億個の地球型惑星の存在を証明する理論天文学者が現れると思う、そこで証明されるのは、なぜこんなにたくさんの宇宙人がいるのに、人類は宇宙人に会えないのか・・という問題ではなく『なぜ、人類は宇宙人を認知できないのか』という立証でもあると思う。

宇宙とは地球の外側に存在する空間を指し示す定義ではなく、地球も宇宙の一部であるという考え方を持つことの重要さでもある。

この考え方は、少なくとも日本では、相変わらず天動説的な思考が支配しているという現実への直面でもある。

まさにコペルニクス的転回や「何故、りんごが木から落ちるのか」という疑問が近代科学へと開花して行くのではなく、アイザック・ニュートンが「何故、地球がリンゴに向かって落ちる可能性はないのか」という曖昧な思考こそが近代科学を生んだのではないのだろうか・・と考える思考をもつ事のほうが重要ではないのだろうか・・と僕は考える。

最近は「なんとなく」コラムを書きたくないような事項が支配的だったが、なんとなくまとめてみた。

 

 

 

 

[おはスタ:」の撮影

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東京テレビ(12チャンネル、午前6時45分~7時半放送)「おはスタ」の撮影があります。

タカダコーポレーションの大貫さんとおやき君がきて、皆さんと一緒にクライミングを楽しみたい・・

といっています。

・・と言うことで、ロッククラフトのジュニア会員、スクール生徒は、ぜひご参加ください。

金曜日以外の受講生でも参加できますよ!

撮影時間・・10月24日(金)午後1時から7時頃まで

注意、駐車場は東側の第2駐車場をご利用ください

    

 

フリークライミングスクール・ロッククラフト

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