女子ソフトボールは、私たちにさまざまなドラマと感動を与え長柄、日本の優勝に終わった。
「いつかきっと勝てる」
そう信じて、粘り強くマウンドの立ち続けた上野投手の淡々と闘志を押し殺したかのような、粘り強い投球には、胸が痛くなった。
決勝リーグは連投が重なり、最速120キロのスピードは100キロまで落ちた言われている。
今年の7月まで、僕の娘もソフトボールをしていた。3月(中1)には2試合で5ホームランを打って、皆を驚かせていた。しかし・・
「面白くない・・」と、いとも簡単に退部届けを出してしまった。
「やがては、日本代表も・・:」という周りの声は、娘には届かなかった。
ただ、ボールを遠くに打てる才能は、10年に1人の逸材とも言われたが、今、ただの「わがままな娘」である。
父としては、少しでも折インピックでのソフトボールを観戦してもらい対・・という思いも通じない「ソフトはつまらない方見ない」と一刀両断である。未練などないのだ。
「最近わかったんだけど、私は裏と表の意味がわからなかった」と、思い出したように言う。
そう、興味がまったくないまま、一番走らされる・・という、ソフト部の方針に惹かれただけで「ソフトボールがしたい」という感覚ではなかったのだった。
コーチに「お父さんの説得が鍵です、才能があるのですから」という思いも、僕に説得できる能力もなく、ただ、無力感だけが漂った。
そんな複雑な思いを抱きながら、日本チームの活躍を見ていた、まぶたには、娘が試合に出ているような、幻影が駆け巡っていた。
これは、やはり夢だったんだ。
それでもいつの日にか
「お父さん、バッテイングセンターへ行こうよ!」
と誘われる日を夢見てしまう、浅はかな父親がここにいる。
今年の4月?に「8年後のオリンピック種目にソフトボールが復活したときは、皆さんの中から、代表選手を出したい、それがボクの夢です」といった中畑清さんの言葉が、ボクには少しむなしく響く・・。
何とかつなぎとめることができなかった、父としての自分を少しは責めてみる他、一方で、自分も日本代表を夢見て激しい練習を重ねていた頃があった。
「あの辛さは、娘には味あわせたくは無い」
という思いも、心のどかで交差していたのも事実である。
いま振り返ると、娘にソフトボールをやめさせたのは、父としての自分の思いが、そうさせたような気がしてならない。
相変わらず、なんとも複雑な秋の気配でもある。
ロシア軍のグルジア侵攻という微妙な国際情勢の中,北京オリンピクは開催された。選手にとってはさまざまな、あるいはかつて無い微妙な状況におかれたままでオリンピックは進行している。まさにtouch-and-go situationがそこにある。 古代ローマにおいて、オリンピックは戦争を回避する一つに手段であったように、クーベルタンがオリンピック憲章を提案した120年前も、毛界はまさにtouch-and-go situation の状況下に置かれていたのだろう。 日本にいると世界が国境紛争まみれで、一触即発状況にあるなんてことは創造できない。 1980年、私が始めてネパールに行くとき、先生は「世界で国境紛争や冷戦も含めて戦時下に無い国は、日本とネパール王国しかない。そんな世界情勢もわからずに、歴史を語るな!」と叱咤されたことを思い出す。 自分の野望、あるいは夢のために、あるいは純粋なアルピニズム(精神を含んだ登山行為)のために登山することを、もう一度考え直してみなさい・・という考え方を学生だった自分は、想像すらしていなかった。 国際関係史のY先生が「世界平和は「力の均衡」の上に、微妙にバランスが保たれているだけで、世界は平和な状態ではない事を、皆さんは理解していない・・」と言われたことも、実感として沸かなかった。 チベットとネパールの国境近くには、軍事基地が存在し、国境付近の山岳を登山する隊にはサーダーという軍事将校が引率するのが義務化されていた。 ネパール王国においても、小さな軍事基地があり、自動小銃を持った兵士がそこにいたのであった。 1979年パキスタンとインドの国境付近でスリナガール洲にあるカシミール山脈のヌンクン山域にも、同じく、国境紛争が火種となって存在していた。 しかし、同じく、そんな状況下に世界が存在する・・と言う認識を、私は持てないまま、遠征計画を遂行していた。
そんな微妙な関係は、2008年の今日も世界中に散らばっている。
純粋なのは、スポーツの精神の中でしか表現できないのだろうか・・と、つまらないことを考えてしまった。 4X100は感動的な日本陸上の歴史の紐を解いた出来事だと、改めて純粋に眺めてみたのであった。
選手の健康管理
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昨日の韓国対キューバ戦の決勝は見事な韓国の気迫のこもる勝利であった。李(巨人)の活躍といい、9回のボール判定に対するキャッチャーの抗議は勝てば英雄、負ければ国民からの批判を浴びそうな、ぎりぎりの抗議であったと思う、まさに手に汗握る好試合であった。歴史に残る好試合であった。
一方、日本マラソンの選手の男女の棄権など、選手の健康管理管理には、後味の悪さを感じる。 徹底した走りこみによる故障者の続出は、単にマラソンだけの話ではなさそうな気もする。 自己ベストを更新する、水泳の選手たちを尻目に「今、できうるベストで戦えた」と敗退する選手には、何があったのか・・。歴史的といえば男子4x400mの銅メダルは、まさに奇跡的なメダルでもアル。 選手の健闘をたたえたい。
クライミングにおいてもさまざまな故障と戦う選手もいる。 かつての自分もそうであった。 過酷な練習を自分に課して、才能もないのに世界を目指していたあの頃の練習は、いま振り返っても「ありえない」練習であった。人の10倍20倍という練習量が世界へつながる唯一の未知だと信じて疑わなかった。 しかし、身体能力の限界は体に多くの損傷を与えたのも、事実であった。 しかし、それは自分が望んだ道であり、決して後悔はしていない。あれ以下の練習であったなら、世界の入り口さえも感じられなかったと思うし、世界の遠さも、感じられなかったと思う。
ボクも始めての海外遠征のときは腰痛が悪化していて、コルセットなしでは歩けない状態であった。 その主たる練習は走りこみによる、心臓と血管の強化である、無尽蔵なスタミナの確保であった。通常のクラブの練習以外に、ほぼ毎日、ランニングだけで20キロ、しかも背中に11キロの荷物を背負って、舗装道路を走っていた。 アルバイト先までの片道30キロの道のりは、自転車で走っていた・・。 名古屋から甲子園まで高校野球を見に行くのも自転車で往復するくらい、練習は日課であり、遊びも練習であった。
才能の無い僕の練習を支えていたのは、未踏の岩壁を登るという夢であった。
オリンピックに参加する選手も、見果てぬ夢をおっているのだろう。 しかし、それはボクのような既存的な夢ではなく、日本代表としての夢である。選手の背景にはオリンピック委員会や各連盟、協会がついている。 そういった組織に加盟している選手に故障が多かったのには、考えるところがある。 逆に零弱な基盤を持ちながらも、メダルを獲得した選手や支援者には敬意を表したい。
特に、陸連には、選手を故障や不調に追い込む背景については十分な検討や原因追及、反省を促し、今後につなげてもらいたいと思う。そのノウハウを一般に公表して、他の競技団体の選手育成にも役立つようにしてもらいたいものだ。
今後、クライミングの強化が進むと、同じようなことが発生する可能性も秘めている。 選手の強化のために、必要以上に選手の肉体に強度の負荷(持続可能性のない)を加える練習は、今後再検討しなくてはいけない時期もくるような気がする。
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