確か2006年のことだったと思う、フランスの就学者アンリ・ポアンカレ?が1907年ごろ提唱した、ポアンカレ予想が論理的に証明されたという話が、世界の数学会を驚かせた「その科学者は誰」と、まるでミステリー小説のような話が世界を駆け巡っていた。
それはグレゴリー・ヘルマンというロシアの就学者であった。
彼は優れた発想と類まれな洞察力によって、やがては数学史上の謎と言われる定理を次々と解き明かす可能性を感じさせる、豊かな才能を持っていたといわれた、しかし、数々の奇行や振る舞いによって、人間的な信用を失い、忽然と数学界から姿を消したには、まだ、30歳大前半のことであったと思う。
彼の恩師である、X氏はポアンカレ予想を解き明かしたのは、彼しかいない・・と確信するが、グレゴリーの実在を証明する手がかりは皆無であった。
10数年前にも、フエルマーの最終定理を解き明かす・・とう画期的な論文が発表されたが、その解明の根拠を検証することが、困難に等しい作業と労力を強いられるのが、現状とも言える。
なぜ、定理もしくは予想といわれるものの解明が困難なのかというと、たとえば「1つのプログラムによる証明に、4億個もの記号配列の矛盾を証明しなくてはいけないくらい、情報の伝達速度は1985年ころから急激な進化を遂げていたからである。すなわち、1秒の1000兆分の1という速度で、情報がコンピューター上を駆け巡るのである。
この速度を地球の誕生時間(46億年前)に設定すると、今日までを34分程度で映像化できうるくらいの猛烈な速度という計算になるからである。
このような超高速情報伝達速度によって、成し遂げられた業績は多々ある。
ニュートリノの証明や宇宙物理学においての糸理論やM理論、理論天文学による地球と月の誕生のシュミレーション映像化など、われわれはまさに驚異的な速さの時間を映像によってウオッチできるようになってきたのである。
また、数学においては、定数は常にどこかで変数を生む。すなわち、曖昧な集合体も理論化できるという考え方が発生して、ロトフイー・ザテイーのファジイ集合論やA・マンデンブロウのフラクタル幾何学による、コンピューターによる映像のグラフイック化などが可能になったと言っても良いと思う。
それは記号による理論の証明から、映像による論理の疑似科学化へと進んでいるかのようにも考えられる。
論理天文学者、小久保英一郎氏によると、世界には数百人の同様な志向を持った科学者がいるらしい。
その実態はなかなかつかめないが・・・。
疑似科学というのは、1970年代ころまでは、科学的な根拠のない考え方で「否定されていた思考、もしくは論理」であったが、今日では、それも科学的な手法の一つといわざるを得ないような気がする。
数学界において、グレゴリー・ヘルマン(あるいはヘレルマン)は相変わらず謎の人物である。
1970年代には南アフリカ出身の生命科学者ライアル・ワトソン「アフリカの白い呪術師」「生命潮流」などの著者や日本では梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」「水底の歌」などの生命科学や歴史的考察は哲学的ではあるが科学的ナ根拠がない・・などと一部に否定されていたが、かつての疑似科学(非科学的な研究)は新たな学問の方向性を示唆しているといえる。
我々はあまりにも長きに渡って、定数仮説に翻弄されていたのかもしれない。
それは今から2500年前に想定された古代エジプトのギリジャ系数学者ユークリッドの原論による定理からの束縛のことである。
この考え方は19世紀に「平行で交わらない曲線は交わることもありうるという考え方(メビウスの帯)」
や「クラインの管(この考え方は論理的には証明されていないと思われる)」の発想やヒルベルト・プログラムという考え方を生み、今日の数学界に多大な影響を与えつづけているのである。
日本の学校教育においては数学は相変わらず、ユークリッド幾何学の4定理による仮説方法が正しく、それ以外の考え方は間違いである・・遠い考え方によって教唆されているのが現状であろう。
すなわち「3角形の内角の和は180度」が正解であり、180度ではない、あるいは180度には近いが180度ではない・・という考え方は解とはみなされないのである。
曖昧を科学するという考え方は、発想に柔軟性を生むのだが、柔軟な発想より、偏重するマスコミ報道に右往左往する日本社会は、長い歴史に裏付けられた日本的文化を喪失してしないかと、ささやかな危機感を抱くのは、私だけではないであろう。
もともと日本の文化と歴史は「混沌の坩堝」を形成する。
日本書紀の冒頭を、たまには読んでみるのも楽しいひと時である。

