2008年2月アーカイブ

確か2006年のことだったと思う、フランスの就学者アンリ・ポアンカレ?が1907年ごろ提唱した、ポアンカレ予想が論理的に証明されたという話が、世界の数学会を驚かせた「その科学者は誰」と、まるでミステリー小説のような話が世界を駆け巡っていた。
それはグレゴリー・ヘルマンというロシアの就学者であった。
彼は優れた発想と類まれな洞察力によって、やがては数学史上の謎と言われる定理を次々と解き明かす可能性を感じさせる、豊かな才能を持っていたといわれた、しかし、数々の奇行や振る舞いによって、人間的な信用を失い、忽然と数学界から姿を消したには、まだ、30歳大前半のことであったと思う。
彼の恩師である、X氏はポアンカレ予想を解き明かしたのは、彼しかいない・・と確信するが、グレゴリーの実在を証明する手がかりは皆無であった。
10数年前にも、フエルマーの最終定理を解き明かす・・とう画期的な論文が発表されたが、その解明の根拠を検証することが、困難に等しい作業と労力を強いられるのが、現状とも言える。
なぜ、定理もしくは予想といわれるものの解明が困難なのかというと、たとえば「1つのプログラムによる証明に、4億個もの記号配列の矛盾を証明しなくてはいけないくらい、情報の伝達速度は1985年ころから急激な進化を遂げていたからである。すなわち、1秒の1000兆分の1という速度で、情報がコンピューター上を駆け巡るのである。
この速度を地球の誕生時間(46億年前)に設定すると、今日までを34分程度で映像化できうるくらいの猛烈な速度という計算になるからである。
このような超高速情報伝達速度によって、成し遂げられた業績は多々ある。
ニュートリノの証明や宇宙物理学においての糸理論やM理論、理論天文学による地球と月の誕生のシュミレーション映像化など、われわれはまさに驚異的な速さの時間を映像によってウオッチできるようになってきたのである。
また、数学においては、定数は常にどこかで変数を生む。すなわち、曖昧な集合体も理論化できるという考え方が発生して、ロトフイー・ザテイーのファジイ集合論やA・マンデンブロウのフラクタル幾何学による、コンピューターによる映像のグラフイック化などが可能になったと言っても良いと思う。
それは記号による理論の証明から、映像による論理の疑似科学化へと進んでいるかのようにも考えられる。
論理天文学者、小久保英一郎氏によると、世界には数百人の同様な志向を持った科学者がいるらしい。
その実態はなかなかつかめないが・・・。
疑似科学というのは、1970年代ころまでは、科学的な根拠のない考え方で「否定されていた思考、もしくは論理」であったが、今日では、それも科学的な手法の一つといわざるを得ないような気がする。

数学界において、グレゴリー・ヘルマン(あるいはヘレルマン)は相変わらず謎の人物である。

1970年代には南アフリカ出身の生命科学者ライアル・ワトソン「アフリカの白い呪術師」「生命潮流」などの著者や日本では梅原猛「隠された十字架 法隆寺論」「水底の歌」などの生命科学や歴史的考察は哲学的ではあるが科学的ナ根拠がない・・などと一部に否定されていたが、かつての疑似科学(非科学的な研究)は新たな学問の方向性を示唆しているといえる。

我々はあまりにも長きに渡って、定数仮説に翻弄されていたのかもしれない。
それは今から2500年前に想定された古代エジプトのギリジャ系数学者ユークリッドの原論による定理からの束縛のことである。
この考え方は19世紀に「平行で交わらない曲線は交わることもありうるという考え方(メビウスの帯)」
や「クラインの管(この考え方は論理的には証明されていないと思われる)」の発想やヒルベルト・プログラムという考え方を生み、今日の数学界に多大な影響を与えつづけているのである。
日本の学校教育においては数学は相変わらず、ユークリッド幾何学の4定理による仮説方法が正しく、それ以外の考え方は間違いである・・遠い考え方によって教唆されているのが現状であろう。
すなわち「3角形の内角の和は180度」が正解であり、180度ではない、あるいは180度には近いが180度ではない・・という考え方は解とはみなされないのである。

曖昧を科学するという考え方は、発想に柔軟性を生むのだが、柔軟な発想より、偏重するマスコミ報道に右往左往する日本社会は、長い歴史に裏付けられた日本的文化を喪失してしないかと、ささやかな危機感を抱くのは、私だけではないであろう。
もともと日本の文化と歴史は「混沌の坩堝」を形成する。
日本書紀の冒頭を、たまには読んでみるのも楽しいひと時である。

知的情熱大陸・・地球 

Exploration is the physical expression of the intelectual passion.

なんだか解らないでもないが、難解な言葉でもある。

確か「1億個の地球」という本を書いた理論天文学者がいる。
それも日本にである。
銀河系に地球型惑星がどのくらいあるのか?ということを自ら考え出したCPを駆使して計算したら、1億個だったということは驚きである。
そんなに多いのか?いいやそうではないのか?
という疑問を銀河系を宇宙を地球に置き換えて確率を計算してみた。
地球の面積から海の面積を引いて、陸地に人間が1億人いると仮定して・・と
それは15000k㎡に2人という確率になる。
人間には雌雄があるから・・と考える。
もし日本に人間という地球型惑星の雄と雌がいるとしたら、確率は2,2人??
もし、それが男女であったなら・・
銀河系に1億個の地球型惑星がある。
われわれが出会う確率は・・・限りなく0なのである。
ここに時間の変数を加え、面積ではなく、銀河系の体積まで加えると・・・
考えるだけで気の遠くなる確率ではアルが、2010年から数年後にはそんな探検への実験が始まる。

私たちは、そんな同時代の地点に存在している。
限りなゼロに近い確率はわれわれの心を捉えて離さないことだろう。
冒頭の言葉は「探検とは知的情熱の肉体的表現である」と訳するらしい。
その科学者の名前は小久保英一郎

望遠鏡を覗くことなく、宇宙の存在を論理で解き明かしてゆく。
「数億光年前に消滅した光の残像を観測しても、意味がない」「現実に向き合うには、物理的な情報により計算された時間の現実、それが理論天文学」というようなことを語っていた。
46億年まえに地球が月を生み、僅か2000万年という時間で、今日の状態に配列された惑星の生成過程をシュミレーションした科学者である。

もし、地球に月という衛星がなかったら、地球は1日が4時間出会ったらしい。
地球と月の関係がなかったら・・生命の誕生はありえなかったのだ。

しかし、月は地球との関係を地球の公転(1年で)にあわせて、僅か1mづつ地球から遠ざかったいるのだ。

宇宙の壮大な「時間を考える手段」を僕は歴史学的手法に置き換えて考える。

まるで日本書紀の神話的世界が、理論天文学によって解き明かされる瞬間に立ち会ったような、錯覚に陥る。

すごい科学者が、日本にもたくさんいる。

日本もまんざら「捨てた物じゃない」

と感じる今日この頃である。

こんなことを考えながら、今日の出店準備はおおむね完了した。

さて、来週からも忙しいぞ~~~~

半信半疑で窓を開けるが、期待を裏切って?雪が降っている。「うわ~雪だ」というと娘が飛び起きてきた。
雪空を見上げながら、わくわくして朝食の準備に取り掛かる。日曜日の朝は遅い・・といっても朝食は8時である。
娘は庭で愛犬?と遊んでいる。深々と降り積もる雪の音に二人(犬と娘)の楽しい会話が心地よくこだます。

雪を見ていると、思い出す風景がアル。
一つは高校3年のとき、お互いに進学が決まって、離れ離れになる僕たちの将来を、どのように積み上げてゆけばよいのか解らなかった青春の思い出である。
何度も何度も、お互いの家をつなぐ橋の袂を行き来した夜のこと・・今ではかぐわしい思い出となっている。

雪といえばスキーである。
北海道の田舎出身の僕は幼稚園のころからスキーを楽しんでいた。夢はオリンピック出場であった。
毎日毎日、スキーを履いて幼稚園に向かった。
僕のスキーは本格的で、ほかの子供とは違って、歩きにくかった。スキー靴を履くのも、脱ぐのもとても時間がかかった。しかし、滑るとその性能は抜群であった。
誰よりも速い自分が素敵であった。
スキー場にはほとんど歩いていった。
スキー場?にはリフトなどなかった。それは中学3年まで同じことだった。
高校から歩いて4キロのところにスキー場があっら、僕たちはあるいは走って、あるいは無免許バイクで、サッカーの練習が終わるとスキー場に向かった。
リフトに乗るのは1日1回~4回くらい。
ほとんど毎日、歩いて上った。
それが練習の基本であった。
「1本1本のすべりを大切にしろ」という支配人の教えがあった。
友達は北海道大会で、中学3年の時に優勝していた。
とても追いつかない・・僕はスキーの練習は何茶って・・で、本業はサッカーであった。
僕と彼はいつも同じところにいた。サッカー部でスキー愛好会。
高校1年で彼は北海道選手権に高校生の部で優勝した。僕は驚きだったが、新聞にのみだしは「XX敗れる!!」とあり、友達の名前は書いてはいなかった。
全国大会では彼は28位?で大敗した。
北海道大会でのXXは全国で2位に入っていたと思う。
新聞の見出しは「XX、山形県の海Oに続き2位」という感じであった。
僕は友達に聞いた「やはり全国大会はレベルが高いのか?」
すると「前惜しみではないが、雪の質が違った。僕たちが滑っているのは氷という雪で、赤倉の雪は重すぎた・・下手だから転んでしまって・・」「え~!!転んで28位かよ」
しかし、その友達は公認されていない高校のスキー愛好会であるので、正式な強化選手には選ばれなかった。
しかし、彼は僕の知る限り「誰よりも早く、誰よりも美しいスキーヤーであった」
1985年にフランスのナショナルチームと一緒に練習したが、僕の中では彼の方が強いスキーヤーであった。
しかし、全日本の公式選手には認定されないまま、ユニホームを脱いだ。
大学で僕は山岳部に入った。雪は大好きで、毎日雪山に入っていたかった。
やはりリフトに乗ることより、自分の足でゲレンデを歩くことが好きであり、それを基本としていた。
幼稚園から大学卒業まで・・歩くことが滑ることの基本である・・ということのこだわりを貫いたが、スキーの実力はまったくの素人のままであった。

雪といえば北岳バットレスを思い出す。
1979年の11月13日火曜日のことだったと思う。
前日の夜から降り続いた雪はバットレスを白く染めていた。
下部岸壁からピラミッドフエイスを経由して、第4尾根へ、そしてマッチ箱のコルから中央壁側のルートをたどって、楽しい雪の岸壁クライミングが続くはず・・であった。
T君は3年生で「向井さん一緒にエベレストへ行きましょう」などと、いかにも僕が連れて行ってあげますから・・と言いたげな、強い2年後輩であった。
J君は愛知県の高校国体選手であった。夢はフランスのスキー登山学校を出て、プロになること。彼はとは内緒で大学時代にスキーにいった。愛知県の代表はどのくらいうまいのかな~と思っていたが、残念ながら僕の方がうまかった。
枯野プライドは崩れかけたが、必死に食らいついてきた。
「上には、常に上がいるんだ・・もし君が北海道なら、地区予選さえも突破できない・・」
と僕は厳しく叱咤した。しかし、彼は必死に僕に食らいついてきた。「リフトを使って、何本滑ったか・・なんて何の自慢にもならないよ、自分の足で雪を踏みしめないと・・」
誰かに言われた言葉を、まるで自分の言葉のように使う自分がいた。
僕は彼には、大学卒業と同時に「フランスに渡ってほしい」という、大きな夢を託した。たくましい3年後輩であった。

その二人をあの日、僕は北岳バットレスで失ってしまった・・。

いいやそうではない、「僕が殺してしまったのである」
当時の僕は、大学山岳部のコーチとしての責任重さを認識してはいなかったのだと思う。

厳しい判定が下されたのであった。

僕は中学3年までは、スケートも毎日練習していた。
当時、500m48秒程度の自己記録は、あまりにも普通であった。1970年ころの中学記録は45秒?・くらいであったと記憶している。
同世代にには、エリック・ハイデンという怪物がいた。
彼はアメリカ人として始めてのメダリストでもアルが、唯一500mから10000mまですべての種目において、金メダルを取ったという意味において、怪物でもある。
レークプラシット大会のことであるが、その4年前の大会では20位前後の大敗を喫し、まったく無名な選手であった。
彼は医者を目指す一方でオリンピックをも目指していた。
枯野コーチは公認されたいない女性であった。
男性の選手のコーチを女性がする。ということ自体も言語同断、常識はずれのことばかりであった。

彼の練習はヨーロッパの練習とはまったく違う、非科学的で独特の方法であった。横に押すという考え方のスケー技術で
しかし、その練習の繰り返しが、ミスをしたときのバックアップへとつながる・・という方法で、すべての基本練習は曽木に集約されていた。
夏でも10000mをその方法で1時間半、冬はスケートリンクで80000mの練習を、毎日こなした・という。
もっとも単純な練習方法である。
10000mを1時間かけてゆっくりと進むなんて、僕には今でも考えられない。僕は10000mを30分で走り切る練習を毎日、20000m(20キロ)積み重ねる・・という無駄な練習を積み重ねていたのだから。

雪を見て、さまざまな思いが頭の中を駆け巡る。
今日は悠希の全国大会でも在る、昨日は回転競技で80位以下の成績である。今日の大回転では得意な身体性能を生かして、体重の軽さというハンデを超え、50位以上の成績を残してほしいと思うが、もし彼女が北海道の選手なら、北海道大会を通過できるレベルにはいないと思う。
2月5日からは気持ちを切り替えて、クライミングの練習に入るわけだが、昨年のように、怪我だけはしないでほしいと、この雪にお願いするしかない自分が歯がゆい・・。

フリークライミングスクール・ロッククラフト

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