昨日は壁の増設に伴う強度計算をしてもらうために友人のHさんと朝から談笑しいていた。
Hサンは、壁のデザインを手がけるだけでなく、1980年代は日本最強のクライマーとして君臨していた。
あるいは当時、今となっては伝説のクライマー(大げさかな)となってしまった、檜谷清を抜き去る自信もあったのかもしれない。
はっきりいって尖がっていた。
そうこうしているうちに、まさに世界の頂点を極めるであろう逸材がリバテイクライミングスクールに入ってきた。
まだ、15歳の彼はいうまでもなく、クライミングを志す以前から、世界的な財産になる可能性を秘めていた。
Hさんは、僕が思うに「まける前に引退」を決めてしまったようだ。彼のプライドでもあり彼のすごさでもあると考える。
誰しも志をもってクライミングを始めたのなら目指すのは世界である。そうでなければクライミングではない・・と断言してはばからないHさんにとって、若き青年の出現は明らかな脅威であったのだと思う。
僕も15歳の青年の可能性には世界を感じた一人であった。
彼が入校して半年もたたないこと、講師であった檜谷さんい彼の可能性を聞いてみた。
「おそらく、後半年で僕を抜き去ってしまう可能性を感じる」と笑いながらいっていたが、そこまで急激に成長するほどクライミングは甘くない・・と考えていた僕にとっても、15歳の青年の習熟速度は脅威であった。
僕的には檜谷清が世界のコンペに参加して一定の成果を挙げてほしかったのだが、いずれにしても僕たちの年齢はクライミングはアルピニズムコ祖が崇高な時代であった。
正直言って、アルピニズムの否定からしかフリークライミングは想定できなかった時代背景があったのだった。
檜谷清と結果的にスクールを開港することになるには多くの偶然と試練が待ち受けていたが、僕も檜谷も覚悟の上のことであった。
彼は大きなホールバックに生活道具一式を詰め込んで勤めていた会社を辞めてプロクライマーとして生きる道を選んだのである。
すなわち退路を断ってから、現れたのであった。
リバテイクライミングスクールの創設と檜谷清をプロクライマーにするための僕の冒険は、彼の決断によって実行されたのであるが、そのときのエピソードをHさんはまったく知らなかったのであった。僕は彼とは、スクール創設時のそんな経緯も話していたような気がしたが・・以外であった。
Hさんに言わせると「僕は黒幕」なのだそうだが、そこにもクライミング界の都市伝説が存在していた様でもある。
僕は大きな夢を持っている、と解釈されされがちであるが、リバテイクライミングスクールの創設時から、ロッククラフトという名前の使用はある意味では夢でもあった。
それはロイヤル・ロビンスの技術書のタイトルでもあったからである。ロビンスとの出会いには、さらに12年の歳月を必要としたのであった。
ロッククラフトの精神・・そう考えながら、僕はいつか、檜谷さんと一緒にもう一度仕事をしたいと考えているのである。
クライミングスクール「ロッククラフト」校長の席は、彼のために空席にしてある。
いつかの日のために・・・。
それが25年前からの、僕の小さな夢・・でもある。
しかし、僕にとっては大きな夢でもある
Hさんにとっては大きなお世話かもしれないが・・
改めて、昨日のHさんとの話は楽しかった。
しかし、イニシヤルがHの人はクライミング界に、意外と多いのには驚くが、それは単なる僕の都市伝説なのかもしれない。

