2007年12月アーカイブ

東洋の魔女の影に
東洋の魔女とは東京オリンピックで宿敵ソビエトを下して金メダルを獲得した、日本女子バレー代表チームの愛称である。
彼女たちのバレーは、徹底的に守り抜く・・という戦術に特化されていたといえる。
それは、体格的に劣る日本選手の能力を最大限に引き出した基本的な戦術でもあった。
すなわち、スパイクによって得点を重ねる・・という考え方ではなく、俊敏で体格の小さな選手にできるSustainbability(持続可能性)を金メダルに結び付けるには、何が基本となるのか?ということを実践した激しい練習の成果とも言える。

そこには「世界の舞台で勝てる強さを身に着ける」ために必要なものは何か?
という大松博文監督の戦略があったのだった。
鬼の大松とは、彼の妥協を許さない練習に対する執念が表れている。

世界のクズ
そのころ男子バレーはというと、1961年の欧州遠征での22連敗など、低迷を続けていた。
マスコミは女子の賞賛に対して「世界のクズ」と罵声を浴びせていたのであった。
東京オリンピックの記録映画には銅メダルの男子バレーは一コマでてこないばかりか、東京オリンピックバレーボール祝勝会にさえ招待されていなかった。
すなわち、オリンピックとか世界大会では、優勝以外はクズという時代背景がうかがわれる。

2900日の戦略
1965年、男子バレーチームの監督になった松平康孝は・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・続く

中学1年の僕の娘は、毎日、朝練習、そして通常練習・・さらに「打てない4番バッター」としてバッテイングセンターでの練習を重ねています。さらに12月からは投手としての専門教育(練習)も重なりました。
本人の意思とは別に期待の大きさに本人は気持ちが負けそうになる日々を送っています。

娘には才能があるようで、大きな期待の渦中にいます
母の強いアスリートの血を受け継いでいるようです。

父としては、何もできませんが、毎日自主的に練習ノートをつけて、ランニングの方法とか、予備練習、クールダウンのこと、ストレッチの仕方など質問は多義にわたります。
正直言って、娘のがんばる姿には感動を感じます。
練習は、12月28日まで、そして新年は1月5日に練習試合が入っています。どちらもソフトの名門高校との対戦です。
涙がかれるまで、徹底的に打ちこまれて、あるいは三振の山を積み重ねて「打てない4番」と叱咤され、多くの挫折や試練を経験してほしいと思います。
父としては『いつ、負けてもいいんだよ』と心で思っていながらも、あえて無関心を装い
「そんなことで挫けていてどうするんだ!!」
と、言葉では叱咤しています。
教えることの苦しさ、難しさを胸に秘めながら・・の日々は、コーチの宿命かも知れないと考える毎日です。

優れた選手あるいは人間とは・・

「どれだけ多くの試練に打ち勝ったのか」ということに尽きると思います。

優れたコーチとは
「どれだけ多くの愛情を選手に注げるのか」に尽きるような気がします。成果としての代償は求めない。

「頂点に立つ」結果を積み重ねることよりも
試練の積み重ねこそ、人を人に育てるものだとW・ノイスは「エベレスト(その人間的記録)」の中であらわしています

また。ブラウニング(イギリスの詩人)は

わたしの中の何ものかを超える
さらに、ほかの何ものかなある
それが私の中で、私を
鎚にも耐え、鍬にも耐える
強いものに鍛える

と語っておりました
ブラウイニングの言った「何ものか」こそが、頂点に立つべき人間が持っているべきものであって、それは山に登る時、人間が持っているものであり、山の仲間によって示されるべきものであり、それこそが人格の中核を成すべきものなのである。
・・とも語っています。

登山、あるいはクライミングという行為は、人格の形成に、もっとも重要な「何か」を感じさせてくれるものなのです。

エベレストの頂点は人類によって1953年に極められました。
しかし、その代償には大きなものがあります。
人類としての初登頂をはたしたヒラリーは
1970年台からネパールでの学校施設の建設を行い。1990年代からは植林事業を展開しています
1080年代にヒラリー卿の息子とも話をしましたが、優れた人格者でもありました。
1994年、ヒラリー卿と頂上を極めたテンジンの奥さんや息子さん(登山家)や孫とも話をしましたが、
テンジンの奥さんの言葉が印象に残ります。
「神を征服したという考え方は、私たちにはありません。
エベレストの登頂は私たち一家やシエルパ族には経済という反映をもら足しましたが、祖先から引き継がれてきた、古の教えとか文化は近代文明によって凌駕されようとしています」
そう、孫はアメリカやイギリスに留学して高度な学問を身につけた。結婚に対する考え方も、恋愛が心の中心に存在していた。

古い文化の継承の重要性、それはアル・ゴア(アメリカの元副大統領)の「不都合な真実」でも語られている「あららしい脳と最先端の技術によって成し遂げられる科学的な革新は、予測不可能な状態を引き起こし、古い脳によって継承された文化的革新は見えないゆっくりとした速度で良心的な変革をもたらす」・・と。

われわれはもっと持続可能性について検証すべき時代に突入したのかもしれない。

子供たちの「未来の地球環境」のために、もう少しゆっくりと考えたいものだ。

知育的側面からの接近

| コメント(0) | トラックバック(0)

知育の概念

クライミングという運動を4歳児から施して6年の歳月が流れた。
この経験の中で生まれたいくつかの要素を児童心理学学的側面から接近してみると、面白いことが多々発見された。
発見というのはおかしな表現でもある。私たちが気づいていなかった・・といったほうが懸命であろう。
知育というと、私たちは乳児、幼児期、または児童期から思春期までの範囲でしか認知しないが、知育とは、徳育、体育、と同じで、生涯にわたって考察しあるいははぐくまれるべき考え方であるともいえる。
一般的に教育原理的側面から使用すると、それは、学校教育の制度に即して施されるもののようでもあるが、制度が前提であっては、一貫した知育教育は難しいのが現状でもあろう。
特に情報化社会がここまで進むと、乳幼児期の子供でさえ、膨大な情報処理を必要としてしまい、古い脳(あるいは海馬)を使った生物としての遺伝子により継承されている能力は、新しい情報によって凌駕されていることに気づいている親や教育者も多いように感じる。
人間も生物の一種類であるのであるから、生物学、あるいは動物行動学からの接近も必要なな時代であろうとも考えられる。
さらに、教育原理における教育学的見地からの児童心理、あるいは青年心理ではなく、社会学的側面からの心理(社会心理学)との融合も、必要不可欠な時代になったと考えられる。

知育教育の選択は、乳幼児の本能的な欲求に即して施されるケースは少ない。
むしろ教育を与える側の心理行動がその様式を決定つけているともいえる。
すなわち親や社会がどのような子供を望むのかということが知育教育の原点でもあり、教育原理の根本をなしているようにも見受けられる。
文部科学省による教育指針の変更は多義にわたり、システムとしての教育を国側は子供たちに教唆している。
教育を受ける側の反発は、教育を施される側(児童本人)からのものではなく、親の誤まった考え方に根ざしている様でもある。
親の誤まった考え方を助長しているのは、商業主義にはしる、情報化社会から得られた情報による扇動
がその起因であると考えられるが、情報の選択をできるほどの時間的な猶予を、両者には与えられていない。

まさに持続可能性を探りながら、持続可能性を自らの手で削除していることに対しての警笛は放たれないのが現状のようでもある。


0歳からのクライミング
社会の便利性は更なる向上と進化を促している。
朝、目覚めると、着替えや歯磨きも自動で行われ、出勤にもロボットスーツを着込んで、100mを6秒で駆け抜ける時代はもうすぐそこ・・に来ている。
宇宙への関心も高く、地球の外界を宇宙と考えた時代は去り、地球も宇宙の一部として、研究が重ねられ「宇宙から見える唯一の世界遺産、万里の長城」なる考え方は2004年に消滅した。
すなわち、宇宙とは地球に対してどのくらい遠いところなのか?という考え方が変わってきたのである。

同じことは重力につても言える。
アイザック・ニュートンが「りんごが木から落ちること」で万有引力の法則を発見したのが科学の始まり・・といわれているが、実はアイザック(ニュートン)は地球がりんごに向かって落ちる可能性も同時に考えていたのである。
すなわち、重力は一方に向かって引き寄せる力ではなく、双方によって引き合う力の存在を科学的に推論したに過ぎない。
そのことが後のアインシュタイン仮説につながり、ブラックホール仮説や、ビックバン仮説などを生み、天文学は宇宙物理学へと変遷し革命的な進化を遂げているのである。
宇宙において太陽系以外に惑星が発見されたのは1995年以後のことであり、人類はまさに宇宙の入り口を論理的に証明できるとところにたどりつた・・だけなのである。

地球の気象
地球はおよそ46億年前に生まれたと言われるが、地球の歴史はそのほとんどが未知であることに変わりはない。
今日からおよそ2万年の間に2度の高温期ガ観測され、その平均温度は現在より10度も高かったのではないかということが、温暖化する地球がわれわれに教えてくれた。
それは地球は温暖化することによって南極の氷が地下3600mから採取できるようになったことに起因する。それは2004年のこと、まさについ最近のことである。地下3600mまでの氷の成分を分析することによって、80万年までの大気の状況が科学的に究明で来るようになったのである。
まだ、地球物理学も0歳児の知育に入ったところ・・といえるのではないのだろうか?

コンピューターによる情報分析能力の肥大化は多くの憶測や推論を生み、根拠を検証できないくらい拡大し続けている・・ともいえるのであろう。
まさに、ここにもビックバン仮説が存在する様でもある・。

クライミング運動の知育仮説
そこで話をクライミング運動に戻すが、クライミングという運動は人間がその他の哺乳類から霊長であると位置付ける事から始まっている。
すなわち人類は万物の霊長であり、進化(知性)の究極であるかのような錯覚を覚えたことに起因している。
たとえば蜘蛛は、おそらく4億年も糸を紡ぐ、あるいはゴキブリは1億2000万年も生存しいくつかの氷河期や高温期を普通に通過しテイル・・と考えると、人間が地球の温暖化でじたばたする姿は、かれら側殻見ると滑稽に見えるのではないだろうか。ということである。

壁を登るからクライミングである。という考え方は人類の冒険や探検の定義が「より過酷な局地へ人類史上初」という幻影に躍らせられている結果とは考えられないのだろうか。
地上5000m以上にもアンモナイトの化石は存在する。
人間の到達ばかりが人類の歴史としても、地球本来の歴史には、なんら意義を持たないものなのかもしれない。人類のエゴがそこにある。

4点支持、3点支持、2点支持そして1点支持・・それらはスフインクスの問答ではないが(朝に4、昼は2夕暮れには3・・)0歳からの子供の身体運動運動を観察してみると、クライミング運動の根拠は、すでにそこに存在している。
人為的な概念による論理的な方法ではなく、哺乳類としての成長を如何に遂げるのか・・ということを、生まれた乳児はすでに知りえているのである。

大人の側から「子供を如何に育てるのか」という知育的教育がそこにあるのではなく、
子供は如何にして成長するのか・・ということをすでに知っている。という事実こそ重要なのである。

大人が有効とおもえる効果的な玩具をあたることではなく、不確実なあるいは根拠のない、バリアー(障害)の在る環境を与えることこそ、乳幼児に大切な知育環境ではないのだろうか?

そんなことを考えながら、子供の成長に伴う試練を与える環境こそ、クライミング運動においてもっとも有効な知育環境と考える。

0歳からのクライミング
「え、0歳からクライミングができるんですか?」
「そう、できるんですよ」

大人の概念からのクライミング施設ではなく、子供の成長を促す施設としてのクライミングジムが日本にもあったらいいな~と思うのですが

いかがなものでしょうか・・・・

フリークライミングスクール・ロッククラフト

このアーカイブについて

このページには、2007年12月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2007年11月です。

次のアーカイブは2008年1月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。