なんとなく、生意気なことを考えてみた、途中で挫折するかもしれませんが・・・
1)科学構造(概念)の変遷
古来、運動とは継続的ナ練習の積み重ねによって、強化され、より早く、高く或いは遠くへ到達できるものだと考えられていた。
そこには生まれながら持っている才能(或いは遺伝子)がかなりの比重を占めていて、後天的には解決できない要素が多々あるとも言われていた。
たとえば、高所に強いのは、生まれながらに持ち合わせている才能であって、練習などをすることによって、育成できるものではない・・とか。
そんな論理(或いは現実)を打ち破ったのは、メキシコオリンピックでのある成果だったように思う。
特に人間が100mを10秒以内で走ることは出来ない。
高地では、5000m、10000mでは記録が出ない。
マラソンは酸素分圧の低下において、使者が出る可能性があり、危険だ。
空気抵抗が薄い(酸素分圧が低いので)揚力が少なく、幅跳びや、走り高跳びでは記録は生まれない・・などであったと思う。
それらの論理を覆す事件の一つに、走り高跳びにおける。背面とびがあった。
それまでの主流はペリーロールで、バーを胸で巻き込むようにして越える飛び方であったが、背中でバーを越える飛び方は幼心に、驚きを禁じえなかった。
その頃、テレビもラジオも真空管が主流であって、少しずつトランジスタタイプに移行しつつある時代であった。
洗濯機に、脱水機能がついたり、冷蔵庫が普及し始めている時代であった。
ゆっくりとした変化を感じていたが、ドレもこれもが驚きの連続であった。
昔のラジオは、真空管といって裸電球のようなものがたくさん、テレビくらいの大きさの箱の中に入っていて。茶の間にデンと構えていた。
裏のパネルをはずして、どうして音が聞こえるのかを確かめようとしたが、電気がついたり消えたりを繰り返す真空管の構造は怪奇極まりない状況であった。
中学生になった時、父がトランジスタラジオを買ってくれた。その大きさはお弁当箱くらいのち活気的ナ小ささであった。
科学はあくまで実験と観察の経過に伴い連続的に積層されて行くものだ・・という考え方がどうしても理解できなかった。結果として、ボクは他愛せつなラジオばかりではなく、真空管テレビも解体してしまって・・父にしっかりと叱られてしまったのを覚えている。
空気を伝わって電波が飛び、その電波が音や映像に変換される仕組みは正に魔法としか受け止めれなかったのである。
走り高飛びにおける、ソルベリーの背面とびも、考え付かない現実であった・・が、それが現実であった。
構造を科学するとは。ボクにとっては解体であり、父にとっては破壊であった。
仕組みを知るとは、まず、論理より仕組みの解体が基本になるとも考えたが、テレビやラジオ、扇風機nや自転車など、ドレを解体しても、基には戻らなかったし。それらの基本原理を解明するにはいたらなかったのである。
そんな幼い日の失敗に連続が、最近頭の中をよぎっていた矢先であった。
2)科学革命の構造
環境科学を専門とする、不思議な日本人のお客さんがクライミングの初心者コースを受けに来た。
いつものように向井節(理屈)をこね回し「人間の科学や文化の進化には、500万年前の、何故、の解明が必要とされている。それは何故人は木を降りたのか」ということの究明である」「その真理のひとつが岩を登る行為野中に隠されている・・」と始まる演説。
それを聞いて、話が弾むSrou君は
「まるで、パラダイム・エボリューションの講義を受けているようで面白い」といってくれた。
私は「そう正にパラダイムは、整然と積み上げられた構造連続の上に成り立つものではなく、常に変化(革命的)と、突然変異(或いは偶然)の元に成り立ち、構造化してゆくものなのだ・・」と試論を展開したが。
「正に、トマス・ハーンのパラダイムシフトがクライミングにあるなんて、驚きです」という感じになってきたが・・
「????パラダイムシフト?トマース・ハーン??
少しまってください。。ボクはまったくそれがなんだかわからない・・」
Srou君はいう「ハーンは環境科学においても、物理学においても、構造のシフトがパラダイムによって不連続に積層されているという考え方があり、それが人文科学にも成立すなんて考えてもいなかった。向井さんの話はとても面白い、もっと聞かせてほしい」といわれて驚いた。
9月にはいって、トーマス・ハーンのパラマイムシフト(科学革命の構造)なる本を読んでみた。そこにはコリン・フイルソンの「時間の発見」のような、或いはシモーヌ・ド・ボーボワール「第2の性」を読んだときのような衝撃的な印象は受けなかったが、思考のパラドックスが感じられ、とても興味深かった。
どんな分野においても、概念(或いは理論は)思考の領域からの脱却は難しい・・ということなのだろうか?
アラン(本名エミール・オーギュスト・シャルティエ、フランスの高校教師であり哲学者)によると、あくまで思考のの領域においてのみ、成立するもののようだが・・。
スポーツにおいて、選手強化、或いは技術強化のメソッド(教程)なるものは、基礎スキーにおいて、早くから導入されていたが、その他のスポーツは1970年代まで、古典的な武道や宗教じみた練習に支配されていて、科学的とは言いがたかった
3)何故、欲求が起きるのか
スポーツにおいて、興味を引かれたスポーツにのめりこむと、もっと強く、或いは早くなりたいという欲求が起きるものもいる。
それは消費行動において購買したいという欲求と心理的には類似してる。
消費行動には、一定の法則性があり、マーケティング論(市場性または消費行動)では広告宣伝の方法論として、広く知られているようだが、僕はむしろ、行動心理学の仮説として、子供の行動様式の解明に活用している。
アイドマ(AIDMA)の法則とは、Attention(注意) Interest(関心) Desire(欲求) Memory(記憶) Action(行動)ロ言うように、注意や興味を促され、関心を持ち、行動を起こしてみたいという欲求がおき、或いは記憶に残り、やがては行動に移す・・というように、人が行動(消費)を起こす際の一定の考え方の法則性を観察する、手引書のようなものである。
ねえ、この課題やってみない?というように、言葉で注意や興味を促しても無反応な状態に、何かの販促物(或いはエサ)を与えて反応を促す手段、と興味の段階が集中してゆく過程を推し量って「少し待って・・」「そろそろ始めようか?」「次回、トライしようか?」とか、欲求の段階を確かめるためのプロセスとして、活用しています。
欲求には様々な段階があり、アブラハム・マスローはその構造は緩やかなピラミッドを形成しているという仮説(欲求段階説)を提唱した。
このような心理学や消費行動理論などの考え方も、生徒の指導には応用させてもらっている。。というのが現状である。
生徒指導には教科書(教程、メソッド)と呼ばれるものがあり、フランス・メソッド、イタリアメソッド、債権ではオーストリアメソッドなどがあるが、メソッドの根本はそんなには変わりはない。
高度な練習教程に振り回されるより、身体の構造、身体の生理、心身の成長過程、言語やシステムの理解度などにあわせて、ベーレン(波の変遷過程)のように複雑に変化して、パラダイム(教程の枠組)をシフト(変遷)する視点がコーチには要求されると考えられる。
「だら~」という感覚も行動心理には複雑に作用する。
未完成な身体がもし機械であるなら、機械工学の理論に変数知を与えて、トレーニンフのプログラムを変遷すればよいのだろうが、選手または生徒は機械ではない。機械工学に基づいた理論を未完成(成長過程にある)身体の工学的補正、または、身体能力向上のために当てはめるのであれば、細心の注意を払わなくてはなるまい。
「登りたい」という意欲の持続こそクライミングの本質であり、高度な技術のパフオーマンスは、ロッククラフトの意志にそぐわない。
もっと解り易く言えば、難易度を究極のパフオーマンスでこなすのは、選手(生徒)が、プロもしくは、世界選手権などのコンペを目指を位置にきた時に、協会などの組織が対応すべき方法論であって、小中学生に強いるべきことでは無い・・と私は考える。
4)理論は偶然の結果にしか過ぎない
技術はつまらないことの繰り返しの中から生み出される結果にしか過ぎないと言い切ることは簡単なことであろう。しかし、論理は様々なパラダイムを積層しながら変革を繰り返し、それがコペルニクス的な様相
となって表記もしくは目視された時、覆される。
それは、メキシコオリンピック(1968年)の走り高飛びにおける、背面とびの出現であったり、マラソン競技における高地トレーニングの有効性であったりする。
今まで論理的に否定(効果が無い)されたり危険であるから導入すべきでない。という考え方はあくまでも思考の概念の問題であり、摂理とか理論とは程遠いことが多かった。
正にトーマス・ハーンが提唱した、科学理論とはパラダイム・シフトによって成立している可能性が高いような気がしてならない。
スキー技術においても、多くの変遷がシフトを形成している。
主なものを上げても、ベーレン(波乗り)、ダイアゴナル(ねじれたわみ)、カービング(切る)など様々な滑走技術が提唱され、それがオーストリア、フランス、イタリアンメソッドなどと呼ばれ、教程はそのつど書き換えられて、教わる側の混乱を招いていた。
選手の技術を機械工学的手法に置き換えて、或いは数値計測に変換されて、理論つけられてはいるが身体動作の技術は用具の変遷とともにも変遷しているのも事実であろう。
たしか、1940年代頃まではスキー板の操作に交互操作は反則であった・・という時代もあったようである(スキー板は原則として、2本をいったいとして操作すべきであって、交互に踏み変えて操作することを禁止していた規則があったようである)
水泳においても平泳ぎにおいて頭部が水面下に沈むことを泳法違反としていた時代もあった。
しかし、より早く、より高く、より強くありたい・・という選手自信の欲求と、それを追体験したいという観客の心理には、尽きることの無い欲求があるのも免れない事実であろう。
5)身体の限界と可能性
スポーツ理論はしばしば、高度の欲求によって破壊的現状を招きかねない。
スキーの滑降競技において、身体の限界を超すスピードでの滑走は、小さなミスが死につながったこともあった。
スポーツの限界と可能性は、選手自信が求める記録や、成果を求める世論の前に、常に諸刃の剣のように襲い掛かり、一部には身体や精神をむしば結果をモらたらした。
現代スポーツの精神が、1980年代後半ころからドーピングによって一部平等性を欠く結果をもたらしたともいえよう。
大リーグのホームラン数は、激減し、ツールド・フランス(自転車競技)正に渦中にあるといっても良い。
スポーツの原理は、選手に、常に平等にチャンスを与え、公平に分配されるべきでもある。
しかし頂点は、常に1地点しかなく、競い合うという原理は、たった一人の勝者と多くの敗者を生むのは、ある意味で健全な精神を生むための副産物であるのかもしれない。
「勝ちたい」という考え方を崇高なまでに高めて世界1という称号を得るためには、単なる身体の技術だけではなく、高度な精神の技術を伴わなくてはならない・・とも考えられる。
勝者は、人間としても尊敬され、応援される対象にならなければならないと思う。
凶暴な野獣のような瞬間と宗教の高僧のような平穏な境地を併せ持つことも、スポーツ理論には含まれるべきであろうと考えルが、いかがなものであろうか?
スポーツにおいて、研ぎ澄まされた肉体の限界が、精神や思考に破綻をきたすような地点であってはなら無いとも、私は考える。
特に成長過程にあるジュニア(19歳以下)の育成には、思考のバランスや発想の豊かさも指導の要素と考えるべきである。
また、民族としての文化や思想などの教育も、並行して行わなければならない教程でると考える。
スポーツ教育とは、頂点を極める身体技術の高揚のみが目的であってはならない。
よってスポーツ指導の教程は、機会工学や論理に左右されるものではなく、普遍的な文化との共存を図らなくてはならないと考える。
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ひとまず・・今日はここまでとします。
この考え方は草稿であって、現時点では、加筆、訂正、削除されることがありますことを、ご了承ください。

