スポーツの大会には、よく魔物が居るといわれますが。、今回のジュニアオリンピックには、多くの魔物が若者に襲い掛かった用でもあります。
しかし、それは興り得るべくして起こった・・ともいえる自然の摂理だったようにも思います。
ここには山火事がなかった・・。地震は初めて経験した・・というように起こりえないことでは無く、自分が経験していなかっただけのことでもあります。
魔物がすんでいたのではなく、結果を魔物に置き換えて、自分への救いにしてしまう背景には、練習や考え方の中に偏りは無かったか?という反省を促す神の啓示があると、前向きに考えるべきです。
何故、失敗したか・・・
そこには背景と原因が潜んでいるのです、そのことから目をそむけて同じことを繰り返していたのでは、何時までたっても慢心・・という魔物は君たちに付きまとい、離れようとはしないのです。
しかし、一方で、いくら良い練習を積み重ねても結果は練習の深さに比例して現れる・・というわけでもないのです。豊かな才能に裏付けられ、幸何度のクライミングを慣行でき、他の追随を許さない・・という実績さえ神は無視して結果を下してしまうものなのです。
豊かな才能は努力の結果ではなく、遺伝子が君達に与えたものであり、自分で育てたものではないのです。
それは、父や母、或いは祖先から延々と受け告がれた「血の記憶」にしか過ぎないのです。
アスリートにとっての豊かな才能とは、たゆまない練習によってのみ裏付けられるものなのです。
努力を怠れば結果はその通りにしか出ないのです。
今回のジュニアオリンピックではそんなことを強く印象つけられました。
良い成績を上げた子供達には休暇という名の「勉強時間」を与え「2週間よく頑張った。そのスタミナがあれば、勉強時間だったなんてことはないはずだ。宿題が出来るまでロックに来るな!!」と激を飛ばしました。
「ハイ」と元気よく答える子供達の目には、意志の強さを感じます。
筋肉に休息をあたえ、反省する期間、或いは新しい闘志が湧き上がるのを待つ・・。
クライミングは単にその行為のみが楽しいだけでは甘くはなれません。
ジュニアオリンピックに参加した選手が、特定の選手のクライミングを指し「オレは今まで強いことが上手いことだと考えていたけれど、強いという表現が当てはまらないクライミングもあるんですね」という話を聞いて少し嬉しくなりました。
「そう、強さもクライミングの要素の一つだが、弱さも、しなやかさも、緩やかさもクライミングの要素の一つなんだよ。すごいことに気がついたね」
という会話も高校生の生徒達から出たのには驚きを感じました。
思考が多様化して、柔軟化している証拠です。それはクライマーとは強いだけがその優劣を決定する唯一の物差しではない・・ということにも置き換えられるわけであります。
魔物と神とは紙一重。いいや同じ人物(神)なのかもしれません。
魔物にするか神になるのかは、その人の心の位置に起因するのです。
簡単なミスで失敗したら魔物が居た・・ということにナリ、ギャンブルで解決しようとしたら偶然の成功をを神が居た・・と思い込む。
そんな単純なことに一喜一憂するようでは真のアスリートとは言えない。
また「所詮コンペですから」と人工壁クライマーを揶揄するような発言をしたり「自然の岩にしか神がすまない」ようなことをいういう、自己中心的ナクライマーもいかがなものかと思う。
クライミングは今、小さな文化を形成しつつある。
JOCに勝つ意志を持たず参加することにも意義があり、勝つことへの執着のみの興じるのもまた、一つの大会のあり方だと思う。
今回の大会で観等のユースA代表の選手達がライバルと考えていた北海道の杉本君の精彩のないクライミングを心配し、そして彼にとってはふがいない結果(ユースAでは1位であるが総合8位似終わった)に
にもかかわらず「皆で玲君を胴上げしょうぜ!!」って話し合っていたり、ユースB1位の悠希が決勝で5位に終わり泣いている・・所にライバル達が集まって慰めあっているシーンを一番遠くから見て、胸に熱いものを感じたのは、私ばかりであるまい・・。
ユースB優勝か、或いは総合優勝も狙える位置にいた新田くんが悔しさで、茫然自失・・声もかけられない状態であった。結果は総合5位にもかかわらずユースB4位という高位置打破あるが・・
昨年は怪我を押しての参加で、女子で総合優勝できなかった京都の梶山さんは、復活(?)した。しかし、前年度チャンピオンの門間さんは決勝で小さなミスをして6位に終わった。中学生にも負けてしまったのでもアル
むしろ、女子総合2位JR優勝に輝いた坂本さんには、賞賛を送りたい
それぞれの選手に神や魔物が住んでいたり、取り付かれていたりする。
優れた才能も、努力や練習を怠れば、容赦なくその洗礼が下るのだ。
ジュニアオリンピックは年を重ねるごとにそのレベルが上がり、昨年は無名だった選手が上位に名前をつなれることもある。それは偶然が生んだのではなく、練習に裏付けられたものを感じる
戦いを終え、そそくさと引き上げる選手や引率者、表彰式が終わり,堂上げた賞賛を送る敗者たちや家族の存在。
どちらにも神や魔物が存在するが、少なくともラグビーの国際大会のように、ノーサイドのフエがなったら、戦いあった友情をあたため合う精神が、ここにアあったような気がした。
ボクは、選手の心の中に吹くノーサイドのホイッスルが聞こえたような錯覚を覚えて、清清しい夏の終わりを感じたのだった。
真夏の甲子園の熱戦は白熱する。
何時の日か、クライミングというスポーツが、日本の中でも小さな文化に成長する日を夢見て・・・・・。
小さな未来のアスリート達と向き合う日々は、戦いを終えた今日からも続くのだ。

