桜の花の咲く頃 1
桜の咲く頃になると、出会いと別れが一瞬の出来事のように交差する。
「卒業おめでとう」・・そして「入学おめでとう」
新しい社会への期待が子供達の表情にも表れているが、若干の不安も隠し切れない。
子供を見送る親の進境も複雑である。子供であることには変りないが、子供は確実に成長しているからである。自立、或いは親離れ。子供を思う親に進境は、子供以上に複雑なのであろう。
クライミングの授業は、淡々と進むが私の心境も複雑である。
「先生、ボクは中学にいったら、テニスをします。今までありがとうございました」
T君は、淡々と感謝の意を言葉に代えて、笑顔でそう話した。
身長も、出会った頃は僕の肩より低かったが、今は目線が同じ位になった。相変わらずアトピーの痕が痛々しいが、それも、彼が持って生まれた才能である。
彼には左脳に若干の障害がある。協調性に欠け、我慢することが苦手であった。
何でも疑問を持つのだが、疑問を持つことの真意は理解していないようでもあった。
しかし、彼は誰にでも挨拶をする。そして、溶け込んでしまうのである。
迎える大人たちも優しい・・・彼がクライミングで学んだのは、高度な技術でもなく、健常な身体でもない。
挨拶が出来る子供になった。
かつて全日本のサッカー監督だった、長沼さんがいった言葉がある「一流選手に必要な技術は、挨拶が出来ることである」・・・・・ジャイアンツの川上監督も同じ事を言ったという。
そんな話をある小学校の校長先生から聞いた。
Tくんは挨拶が出来る、それは人間として一流(適切かどうか?)になれる証拠である。
彼は一番成長した。今年は7人の6年生がロックを卒業した。中学校に行っても継続する子供は4人いる。T君はクライミングはやめるというが、彼は挨拶が出来る子供に成長した。
それがとても嬉しかった。
「さあ、いつものように右の壁を10回登ろう」
「ハイ、わかりました。これが最後ですね」
なんとなく寂しい感じがしたが、僕も強がって、淡々と、彼との最後のレッスンを開始した。
いつもと変わらぬレッスンが、淡々と夜桜に輝くように進んでいった。
午後9時10分、T君との最後のレッスンが終わった。
「ありがとうございました」という笑顔は、キラキラと輝いていた。
咲く花の 花を散らせと吹く風の・・・そんな哀れみを知る、今日この頃である。
人生に一流も二流もない 2
私は1980年愛知学院大学を卒業した。その頃の先生は若く、厳しく、常に僕達を叱咤し激励し、ともに悩み苦しみ・・そして喜びを分かち合った。
青春を山に賭けるなんて、少し照れくさい合言葉ではあるが、彼の教えには何時も山の存在を感じていた。法学者として、パキスタンやアフガニスタン、ネパール王国などを旅して、宗教と法律、文化と性差についての研究に取り組んでいた。
或いは趣味が高じてが法学者の道を選んだとも言っておられた・・
学者になりたかったわけではなく、単純に「山に登りたかった・・とも言っておられた。
私が学生時代、湯浅研究室には「びんたが生徒の頬を打ち」「灰皿が飛ぶ、本が飛ぶ」という伝説がった。
古希を迎えた先生は「まったくそんな記憶がありません」とひょうひょうというが、それは伝説ではなく事実であった。
毎日殴られていたわけではないが、毎日誰かが殴られていたように記憶している。
灰皿は常に飛んでいた。灰皿が研究室の窓ガラスにあったって「ガッシャーン」と割れる音がすると、先生の感情は理性を失って、いわゆる切れている・・という印象に変わった。
一番殴られたのは大学4年生の12月19日のことである。
先生の自宅に卒業論文を持っていって、見て頂いていた時のことだった。突然・・
「学生の分際で、学説を批判するとは何事だ!!」と20数回往復ビンタを授かった。
あの頃のボクはいたって冷静で、先生のビンタの数を「1回、2回・・20・・回・・」と数える余裕がッた。
確かに先生は記憶にないと言い張るが、ボクの頬には、兄時の完熟がしっかりと残っている。
学生時代、先生と会うことを日課にしていたが、殴られる、灰皿が飛ぶ・・かな、と想像するだけで、足が向かなかったのも事実であるが、足を向けなったがために、ボクの下宿に乗り込んできて、出したお茶を一気に飲み干した後「きさま・・?!」と茶碗を投げつけられた記憶がある。
近所の人は何があったか・・さぞ驚いたことだろう。2件先には、やはり付属高校の先生が居て「昨日は先生が来ていたの?」といわれた。
それほど先生は愛の鞭ガ好きだったのである。
しかし、よく殴られていたのは、僕達の時代まで出会ったようである。後輩や研究生に「伝説ですよね」とよく聞かれたのだから・・
それほど僕達は出来の悪い学生であったのだ。
その中の末席にボクの名前が載っていること自体、感謝すべきことなのである。
7月28日は名古屋で先生の古希を祝う会が盛大に行われた。
ボクは肝臓の病気で入院していたので,参加できなかったが、往年の先生のあのビンタや灰皿投げの技術、大切な法律の書籍を避けてどうでも良い本を選んで投げる、あのパフォーマンスはボクの瞼に焼き付いて未だに離れない。
自分が教師になったら決して生徒を殴らない教師になろう・・という誓いは、先生の行動から教わったが、
殴りたくなるような生徒に出会えない・・というのも現実である。
愛情の表現は単なる優しさばかりではあるまい。
叱咤、激励、気合・・など、精神に刺激を与えることは大切なことでもアル。
今思えば、ボクは幸せだっと思う。
大学生にもなって、先生に毎日(大げさせあるが)殴られる生徒って、そうはいまい。
批判精神は未だに心に焼きついたままである。青年こそ教師とか逆風こそ順風とか、先生が僕(私達教え子)に残した言葉はいまだに座右の銘となっている。
心に響く言葉は話しての思いもよらぬところで、相手の心にとどまるものだ。
幾ら話し合った居るようでも、心が通じ合わないと大きな誤解を招く。政治家の身体検査問題や満員電車などで席を譲る譲らないということで殺人事件につながる昨今である。
おそらく先生の演説は公にはこれが最後であろうと思う。増して、教え子達を集めての演説は最高に楽しいひと時であったと想像する。
先生の最後のレッスンに参加できなかったが
先生の声は、今でも僕の心を叱咤し激励してくれる心のビンタとして、何時までも消えない傷として、命ある限り心の中に残る教えなのであろうと思う
最後の講演で先生は言った「生徒に一流も二流もなく、全てがの子供達はかけがえのない存在である。まして、生き方において一流も二流もない。人は皆平等なのだ」と
先生とは30年位前に最後の約束をしている。
その日はしだい近づいてきているような気がする。
何を約束したか・・そんな些細な話を先生は覚えては居ないだろうが、生徒は深く心に刻んでいるものなのだ、ということもここに書き残しておきたいものだ。
岩を登る精神をロッククラフトでは教えている
ロッククラフトの精神は、そんな先生の血の記憶からとうとうと流れる、心の記憶となって永遠に受け継がれてゆけば幸いと・・考えている。