2007年1月アーカイブ

「地球は青かった」とは、ユーリー・アレクセィゲッチ・ガガーリンの言葉である。
彼は1961年4月、人類史上初めて、宇宙に行った。
幼い頃の僕を、初めて感動の渦に巻き込んだ言葉であった。
ソビエト共和国連邦とは、僕にとって、東洋の神秘以上の神の国として、心に深く刻まれていた。
僅か1時間と48分の飛行である。小さな操縦席の3方にある、まるで牛乳瓶のそこのような小さな窓から垣間見た地球は、本当に青く輝いていたのだろうか?
そんな疑問をいだいたのは・・何時だったのだろうか。
まだ、小学生の頃だったような気がする。

ある説によるとユーリー(ガガーリン)は「地球は、まるで青いベールを纏った、花嫁のようであった」とも「地球は、薄く青い円光に包まれていた」とも言われている。

彼の父はコルホーズ(国営農場)に勤める、労働者であった。
そんな父を持つ、ユーリーが人類史上初めての偉業を担うことになることへの疑問が必然的にわきあがってきたのは、中学生の頃だったような気がする。
ソビエトは、フルシチョフの時代である、キューバ危機、など様々な問題を定義していた時代、身分の低いユーリーが,ソビエトの栄光を担って、宇宙飛行士第1号に任命されたのであろうか?
少なくとも歴史は、20人の候補者がいたことを証言した。
また、ユーリー以前に二度の発射を試みたが、成功しなかった・・という説。
ほとんど成功が考えられなかったので、当て馬(人体実験)として、生還することのない研究材料としての打ち上げだった・・という説など、真実はすでに闇の中に葬られている。

彼が宇宙飛行士の資格を取得したのには大きな理由があった。それは身長158smとう、稀な(或いは優れた)体格であったからでもあった。
その頃の宇宙船は、小さく、或いは人間が乗る前提での設計ではなかったと考えられる。

「有人飛行成」のニユースは、一気に世界に行き渡った。アメリカの落胆は大きかったといわれる。

その頃、アメリカには、今までのクライミングとはまったく違う発想でのロッククライミングに興じる若者がいた。彼の名をロイヤル・ロビンスという。
ロビンスの家庭は貧しく、父親は破廉恥で、酒に浸っていた。
若き日のロビンスは、学校が終わってから家に帰るのが憂鬱でならなかったようだ。家庭にや愛情に恵まれない不毛の精神を抱えた、どこにでもいる貧しい少年がそこにいたのであった、このことは彼の自叙伝「spirot of tha age」に書かれている(日本語での翻訳版はない)

宇宙の夢をいだき、貧しい暮らしから脱却しようとするソビエトのユーり。
家庭と恵まれない愛情から逃避して、岩を無心に登るロビンス。

二人にとっての真実は、自然といかに向き合うのかということであった。
或いはそれは夢にためでもあったのだろう・・。

1950年代の後半にロビンスはヨセミテ国立公園に聳え立つ、ハーフドームやサラテを視野(クライミングするということを)に入れて、クライミングのあり方を自問自答していた。
新しいスタイル、新しい精神を持って岩に登る・・その考え方を小さな紙に書き留めて、整理していた・・
その書物のタイトルは「ロッククラフト(基本偏)」であった。
今で言うフリークライミングな始まりである。
彼の快挙は、アメリカ全土を席巻したが、ユーりの宇宙への成果に比べると、あまりにも小さく、ごく一部の人にしか迎え入れられなかった。
ヨーロッパでは、アルパインクライミングの全盛時代であり、誰が何時、白い雲(アイガー北壁)を落とすかが、冒険の的であった。詳細はハインリッヒ・ハラー著「the whight supaider」より

ロビンスやマウロ・カウィなどの哲学的思想をもったクライミング(フリークライミング)は単なるサーカスの思想的ナ定義・・と揶揄されていたようである。

有人宇宙飛行は、世界にとって初めてなのか、ソビエトにとって初めての試みなのか・・ユーリーには何も真実は伝わらないままに時が過ぎていた。

初めて宇宙から地球を見たときの印象と「おめでとう、ガガーリン少佐」と連絡が入った時、ユーリーは自分が特進したことに素直に喜びを感じた・・という。

「地球は青かった」という名言が世に伝えられ、自分の名前が永遠に歴史にとどまる・・なんてことは、まったく考えも及ばないことだっただろう。

僅か1時間48分の宇宙飛行を終えた彼には、尾ままでと増そう臓物かない現実が待ち受けていた。
ロシア正教の最高司教との面会・・憶測とも取れるエピソードが残っている
「ガガーリン大佐、宇宙飛行おめでとう。ところで宇宙には神がいただろう」
という司教の問いかけに対して戸惑いながら・・
「ハイ、神はいました」と答えてしまった、ユーリー・・

その後、共産党の最高責任者フルシチョフと面会して
「ガガーリン大佐、おめでとう・・ところで宇宙には神などいないよね」と問われ
「ハイ、神様はいませんでした」と即答してしまったユーリー・・
歴史は彼を翻弄し始める。成果を楽しめたのはほんの一瞬のことであった。地球に帰ると、そこには柔らかな日常などなく、自殺未遂を犯してしまったり、彼の心は大きく傷ついてゆくのであった。
よく1962年、飛行機事故により永眠する・・。

地球は青かった・・
今、地球はダイヤモンドをちりばめたような、輝きを一層増しているのだが・・

続く・・

光りを感じる範囲

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光を感じる範囲

ワー君の進歩には著しいものがある。
1っ昨年には、単語・・それも「わ~」「わわ~」といった類の言葉がほとんど度で会ったが、最近はかなりも明瞭な熟語を話す「向井先生・・さようなら」とか「お疲れ様でした、また、来週」とかはっきりと言葉が理解できるようになってきた。それは僕が進化した訳ではない。
行動においても、身障者独特の甘えを叱咤すると、泣き喚いたり、もっと困らせようとして、さらに過激な悪戯をしたりすることも少なくなってきた。
聞分けがよくなったというのか、学習能力が高まったというのか?
障害者教育は専門ではないので、詳しいことはわからないが、確かに進歩している。
身体の持久力は、飛躍的に向上して、5分もクライミングトレッドミルで練習していると、疲れてへたり込んでしまう・・ということは無くなり、1時間近く壁につかまっていることもできるようになってきた。
バランスボールでの、ジャンプ練習は普通に20分をこなす。
骨格を支える筋肉が飛躍的に強くなった。お尻の筋肉もだいぶ丈夫になってきた。
もう少し顎を引いて歩けないか?とか、
足元を見る動作も教えたいが、感覚が優先しているので、頭の位置を確定する運動は苦手なようだ。
並行感覚も、三半規管で制御しているのではなく、光りの方向で並行を感じているようだ。
視覚的な視野もかなり広がってるようだ。相変わらずフラッシング(強い光り)には敏感に反応する。
稲光は最も楽しい自然現象の様でもある。
視覚障害者特有の、ふらふらした歩みではなく、しっかりと地面をつまむ足の指の感覚は相当強くなった様でもある。はだしで登らせた効果が少しずつ現れているようだ。
聴覚も、補聴器からの様々な音を骨伝導で識別できるようになってきたようだ。以前は補聴器がハウリングしていてもお構いなしだったが・・。
この分だと、今年はもう少し複雑な言葉を話したり、理解できるようになりそうで楽しみだ。
ただ、体力がついた分、悪戯も強力になってきたので、お母さんの対応は大変だと思う。
さて、明日は来るかな?
「先生、明けまして、おめでとう」くらいは聞きたいものだ。

君は知らないね・・
君は生まれてきた時、光りさえ見失っていたのかな?
はじめから持っていなかったから、光りを感じたこともなかったんだね。
4歳の時、はじめた光りを知った時・・・驚いたよね。
光りって・・・柔らかくて、暖かくて、明るくて

君は驚いて、掌を翳したね
それは、掴もうとしたの、食べようとしたの、それとも・・打ち落とそうとしたのかな?
その、悪戯っぽい唇の意味を、僕は未だ知らない。

最近は「い・い・ろ。いいロ(黄色)」と言えるようになって来たね
先生は、少しつまらないよ・・
聞分けがよくなって・・。

まだまだ、わがままな、ヘレン・ケラーでいてください
先生は、頑固者のサリバンに変身しますから・・・ね。

君の、限りなく透明な、青い瞳は
これから何を見るのだろうか・・
僕のクライミングをするしぐさを
君は心の視覚で感じているんだね。

そういえば「大ちゃんの手」大きかったね
君は少し、驚いた魚になっていたね。

君の掌も、やがて夢を追う
君の掌に刻まれた「しわ」が
君の人生を語るときまで、

僕を君の先生でいさせてください・・・・。

クライミングの行方

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少なくとも、クライミングの多様化は、1970年代から始まっている。
ぞれまでの登山は、8000mの初登頂に始まり、未踏の山河へ、そして、ヨーロッパアルプスの未踏ルートからの登攀(クライミング)とヒマラヤのバリエーションルートへの挑戦。
無酸素での8000m挑戦など、人間の欲望はとどまることを知らなかった。
フリークライミングとの出会いは、1977年のことだったと思う。ロイヤル・ロビンスの本を読んだあたりから、日本にもそんな風潮が押し寄せてきた。
岩登り競技会は正に、フリー化の先駆けとなった画期的な出来事だったと思う。
それまでの岩登りの基本である、3点指示という概念をぶち壊すきっかけとなった。
先鋭的を自負するクライマーの一部は、小さな岩にしがみつき、難易度を競い合った。それまではテスト岩といっていた、石登りが、練習の一つではなく目的となっていったのである。
小川山にも、たくさんのルートが開拓された。
しかし、そのクライミングは、ジャミングやカンテのぼりの技術や、ロックスやカムナッツの使用技術に終始して、フエイスはある意味では邪道とまで言われていた。
フエイスクライミングが何故邪道だったのかというと、岩にハンガーを打ち込まないと危険であった・・がためである。
すなわち、フリークライミングは、岩場に痕跡を残さないのがスタイル(礼儀)として。最上と考えられていたからである。
しかし、それでは課題がなくなってゆく・・
多分1980年代の後半くらいから、フリークライミングはフエイスクライミングへと傾いてゆくのである。
一方、豊田の岩場や、御岳などでは、小さな石登りが静かなブームとなって行った。
その頃のボルダーエリアは日曜日といえども「静かな午後」の陽だまりであった。
1982年頃までの小川山も静かな日本のヨセミテと呼ばれていたような気がする。
クライマーと呼ばれる人種はほんの僅かであり、それがクライミングの重要なコンセプトであったようだ。
かく言う私も「その一端を担いたい」と考えていた。
クライミングを人工壁で、コンペとして位置つけたのは一人の男の発想だったと思う。
1980年代も終盤を迎えていた。彼は山梨の自宅を改良して、道場を作っていた。
やがて人工壁が関東に出現したのは1991年のことである。
私は、クライミングの発展にジムの有効性を考えていたが、H氏とは対立していた。
1992年ころから、クライミングジムが入間に出現して、私は驚きを禁じえなかったが・・もし、T氏の発案がなかったら、クライミングはここまで発展していなかったとも考えられる。
「ロープを使わないクライミングコンペを行おうと思う」そういった青年がいた。K氏であるが、その発想に、またまた驚かされた。ボルダーリングセッションの始まりである。

ロッククラフトはそんなドサクサに生まれた。
単純に、小さな頃からクライミングをしていれば、クライミングのレベルは格段に成長する。
さらに、底辺が拡大されれば、もう少し日の目を見ることになるだろう・・と、私は勝手に考えた。
正に、少年野球や草野球の発想である。
夢は、クライミングを人工のフイールドから再構成してみようというものであった。「向井さん、夢はいいのだけれど、収益は?飯が食えなければ、経済じゃないよ」と手厳しい意見も頂戴した。

しかし、夢は確実に実現の方向に向かっている。それは、クライミングを日本に認知させた一人の男の出現に始まった。彼は後日、世界選手権で数度優勝した。しかし、ほとんど新聞には取り上げられなかった。
ルートクライマーとしては世界屈指のクライマーであるY氏の出現は、クライミング界においては欠くことのできない存在である。

時を同じくして、1994年頃、山梨のH氏から電話がった「向井さん、鹿児島からとんでもない青年が状況してきた。怪物だ、地球人ではない!!」そんな話に目も向けず、僕は仕事に埋没していた。
Dとい男は、正にワールドカップで優勝した経験のあるY氏をしても「少なくとも僕は地球人だが、Dチャンは地球人の域を超えている」と言わしめたようである。
この二人に支えられて、世界的なクライマーを目指す人間は後を絶たなかった。
これからは、もっと優れた素材も生まれることだろう・・その予備軍は10代、20代に数人存在する。

一方。コンペをクライミングの全てと考えるクライマーも出現してきた。それまではコンペはクライミングの一部と言う考え方が体制を占めていたのだが・・。

「クライミングは個人的なスポーツであって、他人の評価が問題ではない」そう言った男がいた。
「自分のために戦いを挑む、人に見せるためではない」そう言った男もいる
「勝つために、訓練している」といった男もいる。

クライミングって何なのだろう?

コンペとは少なくとも戦いであり、参加者を喜ばせるものでもない。
しかし、観戦しているものを無視しての大会はありえない。
プロの競技者は、観客を楽しませなくてはならない。
アマチュアは自分のために戦えばよいのだが、それだけでは経済効果は生まれない。
経済効果がなければ「金をだそう」などという、スポンサーは現れない。

少なくとも、クライミングコンペ(大会)にはいくつかの目的がある。
1)日本1を決める大会
2)世界選手権など、国際試合への派遣選手を選考する大会
3)自分の実力を試す大会
4)練成や育成を目的とした大会
5)普及や啓蒙を目的として、見る側や参加する選手が楽しめる大会などがあると思う

現状のクライミングの大会には、この様な考え方が不明確なまま「なんとなく進行している」様子が伺われる。
ロサンゼルスオリンピックに参加して、体操競技で金メダルをとった選手が実は「自費参加」していった・・という例は、各種競技には現存する事実である。
フイギアスケートにおいて選手育成に親が数億円も費やした・・という話もある。
一方、室内スケートリンクは全国で80箇所を割ったという現実もある。
スイミングプールは、全国に5万箇所以上もあり、その経費には莫大な税金が投入されている。
それから考えると、クライミングは好きなものが好きなように経営して、或いは、好きなように大会を運営して、なにもお咎めを受けないのは、或いは幸せなことなのかもしれない。

昨年、一昨年と、国際大会でのボルダーは、観客動員の減少が顕著であるといわれている。
文化の違いか、ボルダーの大会は選手が楽しめれば良いのであって、観客は不在な方向に進んでいるようである。
それではいけないと・・UIAAなどでは、手を買え品を変えて・・デモ、ヨーロッパとアメリカでも事情は異なるようだ。
ヨーロッパでは、国内大会の選考をクリアしたものが参加する。
アメリカ・カナダでは。参加費を捻出できるものが国際大会に参加する・・すなわち、オープン参加なのである・・とっても各国連盟に認可を受けなければ、国際大会に国を代表しては参加できないが・・。

テニスやゴルフには、国を代表して参加する大会や、予選から誰でも参加できる大会がある。
招待状がなければ参加できない大会もあれば、個人でも参加できる大会もある。

ある、オランダのスポーツクラブの責任者がいった言葉が印象に残る。
スポーツ選手に必要なものは
1)人格
2)洞察力
3)スピード
そして、4)技術だと、

観客を満足させて、初めて国際スポーツとして認可される。選手のために大会があるのではなく、選手を応援する観客あってこそ、スポーツなのである。
選手のために運営される大会は、公式なものと呼べるのであろうか?
草野球などは、選手のために運営される大会であるのだが・・。
まだまだ、クライミングは発展途上のスポーツである。
楽しいから参加する、楽しいからジムや岩場に通う、といレベルである。
日本でメジャー(認知される)になるには、まだ100年くらいかかるのかもしれない。
ほんの30年前に始まった、まだ、新たしいスポーツなのである。

カーリングというスポーツも400年の歴史があると言われている、スコットランドが発祥の地で、ルールが統一されたのも1800年代といわれる。

スポーツとしてのクライミングは、まだまだ若い、私の知る限り、フランスで100年以上前のボルダー課題があったとされているが、人工壁での国際大会は1980年代になってからである。
変化と歴史への対応に、水を差すなら正当な水(育てる)を指すべきである。

今年は10月に加須で、ワールドカップが開催される。それは大変なことだ。お金もかかるが多くのことを学習できる機会でもある。
少なくとも、日本でのクライミングの認知度は、高まっている・・といっても、カーリング以下であろう。
まだまだ、黎明期を迎えたばかりの子供である。子供であるから許されるという発言もあろうが、何時までも子供であってはいけないと思う。子供を叱る親(年長者)も必要なのである。わがままな子供の「好き勝手な遊びでしょう・・」で済まされるのなら、公園での木登りが禁止になっているように、クライミングも危険なスポーツといレッテルを貼られたまま、失速しかねない。
そんな危機感も携えて、今年も、クライミングを資するものは、楽しみ方を一人一人に、柔らかく紹介して行きたいものだ。

フリークライミングスクール・ロッククラフト

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