きつい、苦しい、強い、早い。それが練習の4つの要素だとしたら、本当にスポーツって楽しいのだろうか?そう思いながら、きつい、苦しい、強い、そして、より速くを目指して鷺レーニングしていた頃を回顧してみる。・・・・・。
決して不満があったわけではない、しかし、成果が上がっていたわけでもない。
むしろ体の一部を破壊してしまって、いつも故障とリハビリテーションという、敢えてとり入れなくても良い
メニユーが練習課目に無用な負荷を与えていたのも事実であろう、と思われる。
「人より強くなりたい」それはオリンピックの精神「より高く、より速く、より強く」という神話に翻弄されていたのではないか?という疑問をいだいたときに、起因する。
僕のスポーツとのかかわりは、怪我とのかかわりの多さと挫折の多さに依存しているような気もする。
今も、怪我との戦いは続いている、右肩の痛みは24時間絶えることはない。
関節の軟骨が磨り減る・・そんな状況に何故、自分を追い込んでしまったのだろうか?と絶え間なく反省して、絶え間なく訓練を繰り返している毎日でもある。
しかし、今は「人より強くなりたい」とい気持ちはない。
人(選手)より強いコーチなどコーチとしての意味はない。
人に勝てなくなってこそコーチとしての脂質を試されるのであって、コーチは選手の実技実演をする人のことではない。
人、或いは選手のやる気を引き出し、或いは手綱を引いて、少し緩く練習することを示唆することこそコーチの役目と考える。
選手とは常に自分を追い込み、先へ先へと進んで行くもの、言われないと自分を追い込めないなんて、選手としての才能はない。
何時、手綱を放して鞭を入れるのかのタイミングは、乗馬の騎手煮にているような気もする。
緩む時間と、放つタイミングの取り方が、勝利に結びつく。
練習は、基本的に、緩く、ぬるく、楽しく、長く???
追い込むのはほんの一瞬である。
その一瞬の出来栄えが、成果として帰ってくるのである。
常に緊張と苦難をかかえていたのでは、疲れてしまう。いわゆる才能があるのに、燃え尽き症候群に陥ってしまうのである。
最近のアスリートは、緩むことを知っている。
むしろ緩く、ぬるい練習を楽しめないのは、追い詰めないと強くなれないと信じているからなのではないか?と考える。
信じる宗教を変えてみると楽しい事も見えた来る。仏教においても、自力本願、他力本願がある、苦行に喘ぐことが悟りへの近道・・されど、結婚して子供を作って育てるのも、悟り。
煩悩ともてあそぶのも、翻弄されるのも然り、解脱せざるは悟られズ?
さて、晩年の釈迦さまは、涅槃で待てといったとか?
ゆるり・・と、たるんだお腹こそが、悟りの真髄のような気がしたのは、タイで見た黄金の横たわる仏陀の像を見たときだった。青木保の「タイの僧院にて」という文化人類学の書籍とは、違う現実がそこに、横たわっていたのは、私の宗教に対する、偏見のせいなのだろうか?
しかし、
練習は緩い方が、無駄な練習をしなくても良い。
そんなことを考えてしまった11月11日である。
キーボードを打つ指の動きに対しても、肩は小刻みに、痛みを放つ。まるで針を刺しているような痛みである。緩い感覚、温い感覚が、ひらめきや、感性を磨くような気がするが・・・もう少し考えてみよう・・・。

