夢とか理想とかと言う考え方は、どこから来るのか考えてみた。
すると意外と簡単なところからきているような気がしてきた。
夢や理想と現実、宇宙と心、混沌と秩序、宗教と戦争、文化と文明、線と点などなど取り止めの無いことが頭の中を駆け巡った。
相反すること、或いは敵対することは、同じことかもしれない・・などと、またまた頭の中が混乱してきた。
そんな時、人間は死ぬ時、何を持ってゆけばいいのでしょか?という投稿が舞い込んできた。
死ぬ時の持ち物か?5円玉と、三角頭巾?合唱かななどと、俗世間の慣習を考えながら、俗世間での持ち物を考えていると、不思議な思考にたどり着いた。
欲=夢か・・・と言う思考である
欲がなけれな何の生まれない、と考えると不満ばかり言う人は、欲=夢がある人なのかもしれませんね。
子供の真理ってそんなところから育んであげたいものです。
欲は断ち切れないものであることはいうまでもありませんが、良く、生理的な欲求で、食欲、睡眠欲、性欲のことを3欲といいますね。
断ち切れる欲を捨てること、その中で、断食とか、性欲は宗教の修行でも、断ち切ろうと試みますが、現実的には、食欲と睡眠欲は断ち切れる限界がありますが、性欲は現実には断ち切れます。
しかし、妄想の中ではまったく不可能ではないこと考えます。
妄想=心・・と言う考え方も成り立ちそうです。
誰だって、うまくなりたい、強くなりたい、幸せになりたい、と思うし。逆に、哀しいとか、不幸とからは避けたいと思います。
人間はそういうものを持っているから、心があるのだと思います。
人間以外の存在には心があるのでしょうか?
心が無いと考えると寂しくなったり、哀しくなったりします。
だから、あるものと決めてしまった。
しかし、心はいまだに人間のどこにあるのか発見できません。
一説によると、脳のもっとも小さなある部分に、ほんのわずかの電流が流れると、心になるという研究があります。
心とは、宇宙をはいかいするニュートリノ以上に小さな存在で、人間には究明や証明できないものなのかもしれませんね。
だから、大切なものなんです。
存在でもっとも大きなものが宇宙だとすると、もっとも小さいものが心でこの二つの存在究明が人間の英知の源なのでしょうか?
大きいとか小さいとか・・たったそれだけのことですが、もっと深く考えてみたいものです。
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夢と欲・・
スポーツにかかわらず、人間は何かに取り付かれることがある。
子供たちを見ていると、無心でがむしゃらに登って、疲れてしまって「グーグー」眠る子供
登れなくて、悔しくて、まるで狂ったように泣き続けるが、決して壁から降りようとしない子供
次から次へと、自分で問題を出して、どのように解決(登る)のかを延々と繰り返す子供
同じ失敗を何度も何度も繰り返スことを「楽しい」と考える子供
自分の考えではなく、与えられることをただ無心に繰り返す子供、
果たしテ、本当に考えていないのか、本当は考えているのか、大人にはまったく判断がつかない場合もある。
いった、どんな欲望から、そんな行動をとるのか、皆目見当がつかない。
子供の目線で考えようなんて、偉そうなことをいっても、自分の目線は子供の目線から離れている。
自分だってかつては子供だったのに、自分の幼いときの行動や欲望が、いまだに理解出来ないことも多い。まして、他人の心など読めないのが普通であって、想像すること自体に意味がないのではないか・・と考えてしまうことも時々ある。
さて、昨日は、練習のプログラムについて、考え・・悩んでしまった。
12歳以下の子供には、書いてはいないが一定のプログラムを与えて、しかし、柔軟に、その日の体調や
集中力のあるなし、遊びとして、楽しむことを教えている。
基本的に汗をかくことの楽しさ、出来ないことを達成した時の喜びを感じる子供であってほしいと思う。
練習にノルマを持つ子供もいる。決められたことを、決められたように達成したら練習はやめる。と言うパターンである。
「今日は、調子がいいから、もう少し難しい課題を挑戦してみよう」とか
「もう2本登ってみよう」などと、オプションの練習にはまったく対応しない。
小学2年で、ノルマ型の子供もいるのだ。
一方、親の喜ぶ姿を見せたくて、そのために練習する子供もいる。
反対もいるが・・。
ノルマ型の子供は、進学塾に通っている子供に多いし、親の喜ぶ姿を見るために、練習する子供は、代償を求める。子供は「純粋ではなく、或いは狡知的なのかも知れないと、ふと思うこともある。
こう考えることが、自分の思考の偏見なのかもしれないと、考え直してみるが、人間50年も生きているとなかなか自分の考え方を曲げられないようになってきている。
はた・・と考える。
自分の考え方を曲げないのは子供も同じではないか?
いい矢、子供こそ自己主張の塊なのかもしれない・・と思って、勝手にさせると意外とうまく行く。
しかし、勝手は勝ってではない。自由が、無法ではないように・・ルールがあるのである。
子供と一口に言っても、3歳から17歳まで、人格を認めて、それぞれの思考の生成状態に応じての対応はは、森羅万象といってもいいくらい違うのである。
そんな子供たちの思考に、一定のプログラムを作成して、練習メニューを与える・・。
それって、本当にそれで良いのか・・と言う疑問が常に僕の脳裏の傍らに渦巻く。
綿密な練習メニューを作成して、その達成率を考慮してログ(記録)をとり、反省事項を書き込んで、メニューを再点検する。
そんなことが、子供たちの将来に、自由で発想の優れたアスリートになる必要条件になのだろうか?と言う疑問が、再び脳裏をかすめるのである。
「いいかい、向井さん、こんな大きなゲレンデの一部にポールをはって、同じことを繰り返すのなら、ここまで来て練習する必要があるのだろうか」
「ここには、こんな大きなゲレンデがある、何本リフトがあるのかさえ把握できないくらいに斜面がある。もし小さなキャンバスしかないのなら、その中で何を描こうか考えることも大事だが、こんなに大きなキャンパスがあるのなら、もっと大きな絵を描いてみたらいかがなものだろうか?」
20数年前のフランスでの出来事である。熱弁を振るうフランスナショナルチームのコーチの口調は、物静かであったが、熱意はひしひしと伝わってきた。
決められた練習はあるが、与えられた環境の中で、いかに工夫して、メニューを作成するかは、大切なことでも在るが、強制ではなく相対的ナ思考を必要するものではないのだろうか。
メニューを作成して、プログラムの達成率を考慮して、メニューを再構成する。
料理なら、レシピ通り作るとおいしいものが食べられるって考えてしまうこと自体が、僕の偏見なのか?
結論から言うと
ま、そろそろ、メニューも必要な時期なのだろうと考えていたので、本人と相談の上に、作成してみようと考える。
僕には夢がある。それは君たちが世界へ羽ばたいてほしいとい夢でもある。
しかし、疎それは単に僕の欲(君たちを教えました)のなせる業なのかもしれない・・とも考える。
夢と欲のハザマで、苦悶は続く。
今年の6月に戴せるな友人を亡くした。画家のHさんである、彼は体制に迎合することなく、たった1本の線を書くことへのこだわりを半世紀ほど続けた。
「向井さん、絵ってたった1本の線を引くことから始まるんだよ」
「毎日毎日、たった1本の線を千回引いたとしても、彼女の・・或いはリンゴの輪郭に勝る、1ッポンの線は引けないものなのだよ。しかし、そのこだわりが、絵を芸術に高め・・あるいは、歴史に残す結果になっただけで、本当の画家は、子供と一緒で、儲かるとか、有名になるって考えていないかもしれないよ。
・・・・私の詭弁かもしれないけれど・・」
そんな話を、もう聞くことが出来ない・・彼の死から100日が過ぎようとしている。
夢を追い、欲を捨てた、一人の画家の死に様(或いは生き様に)もう一度触れることが出来る、人間の思考、或いは心の存在に、感謝したい気持ちでいっぱいである。

