2006年9月アーカイブ

夢と欲

| コメント(0) | トラックバック(0)

夢とか理想とかと言う考え方は、どこから来るのか考えてみた。
すると意外と簡単なところからきているような気がしてきた。
夢や理想と現実、宇宙と心、混沌と秩序、宗教と戦争、文化と文明、線と点などなど取り止めの無いことが頭の中を駆け巡った。
相反すること、或いは敵対することは、同じことかもしれない・・などと、またまた頭の中が混乱してきた。

そんな時、人間は死ぬ時、何を持ってゆけばいいのでしょか?という投稿が舞い込んできた。
死ぬ時の持ち物か?5円玉と、三角頭巾?合唱かななどと、俗世間の慣習を考えながら、俗世間での持ち物を考えていると、不思議な思考にたどり着いた。

欲=夢か・・・と言う思考である

欲がなけれな何の生まれない、と考えると不満ばかり言う人は、欲=夢がある人なのかもしれませんね。
子供の真理ってそんなところから育んであげたいものです。
欲は断ち切れないものであることはいうまでもありませんが、良く、生理的な欲求で、食欲、睡眠欲、性欲のことを3欲といいますね。
断ち切れる欲を捨てること、その中で、断食とか、性欲は宗教の修行でも、断ち切ろうと試みますが、現実的には、食欲と睡眠欲は断ち切れる限界がありますが、性欲は現実には断ち切れます。
しかし、妄想の中ではまったく不可能ではないこと考えます。
妄想=心・・と言う考え方も成り立ちそうです。

誰だって、うまくなりたい、強くなりたい、幸せになりたい、と思うし。逆に、哀しいとか、不幸とからは避けたいと思います。
人間はそういうものを持っているから、心があるのだと思います。
人間以外の存在には心があるのでしょうか?

心が無いと考えると寂しくなったり、哀しくなったりします。
だから、あるものと決めてしまった。
しかし、心はいまだに人間のどこにあるのか発見できません。
一説によると、脳のもっとも小さなある部分に、ほんのわずかの電流が流れると、心になるという研究があります。

心とは、宇宙をはいかいするニュートリノ以上に小さな存在で、人間には究明や証明できないものなのかもしれませんね。

だから、大切なものなんです。
存在でもっとも大きなものが宇宙だとすると、もっとも小さいものが心でこの二つの存在究明が人間の英知の源なのでしょうか?
大きいとか小さいとか・・たったそれだけのことですが、もっと深く考えてみたいものです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
夢と欲・・
スポーツにかかわらず、人間は何かに取り付かれることがある。
子供たちを見ていると、無心でがむしゃらに登って、疲れてしまって「グーグー」眠る子供
登れなくて、悔しくて、まるで狂ったように泣き続けるが、決して壁から降りようとしない子供
次から次へと、自分で問題を出して、どのように解決(登る)のかを延々と繰り返す子供
同じ失敗を何度も何度も繰り返スことを「楽しい」と考える子供

自分の考えではなく、与えられることをただ無心に繰り返す子供、
果たしテ、本当に考えていないのか、本当は考えているのか、大人にはまったく判断がつかない場合もある。

いった、どんな欲望から、そんな行動をとるのか、皆目見当がつかない。
子供の目線で考えようなんて、偉そうなことをいっても、自分の目線は子供の目線から離れている。
自分だってかつては子供だったのに、自分の幼いときの行動や欲望が、いまだに理解出来ないことも多い。まして、他人の心など読めないのが普通であって、想像すること自体に意味がないのではないか・・と考えてしまうことも時々ある。

さて、昨日は、練習のプログラムについて、考え・・悩んでしまった。
12歳以下の子供には、書いてはいないが一定のプログラムを与えて、しかし、柔軟に、その日の体調や
集中力のあるなし、遊びとして、楽しむことを教えている。
基本的に汗をかくことの楽しさ、出来ないことを達成した時の喜びを感じる子供であってほしいと思う。
練習にノルマを持つ子供もいる。決められたことを、決められたように達成したら練習はやめる。と言うパターンである。
「今日は、調子がいいから、もう少し難しい課題を挑戦してみよう」とか
「もう2本登ってみよう」などと、オプションの練習にはまったく対応しない。

小学2年で、ノルマ型の子供もいるのだ。
一方、親の喜ぶ姿を見せたくて、そのために練習する子供もいる。
反対もいるが・・。

ノルマ型の子供は、進学塾に通っている子供に多いし、親の喜ぶ姿を見るために、練習する子供は、代償を求める。子供は「純粋ではなく、或いは狡知的なのかも知れないと、ふと思うこともある。
こう考えることが、自分の思考の偏見なのかもしれないと、考え直してみるが、人間50年も生きているとなかなか自分の考え方を曲げられないようになってきている。

はた・・と考える。
自分の考え方を曲げないのは子供も同じではないか?
いい矢、子供こそ自己主張の塊なのかもしれない・・と思って、勝手にさせると意外とうまく行く。
しかし、勝手は勝ってではない。自由が、無法ではないように・・ルールがあるのである。

子供と一口に言っても、3歳から17歳まで、人格を認めて、それぞれの思考の生成状態に応じての対応はは、森羅万象といってもいいくらい違うのである。

そんな子供たちの思考に、一定のプログラムを作成して、練習メニューを与える・・。
それって、本当にそれで良いのか・・と言う疑問が常に僕の脳裏の傍らに渦巻く。
綿密な練習メニューを作成して、その達成率を考慮してログ(記録)をとり、反省事項を書き込んで、メニューを再点検する。
そんなことが、子供たちの将来に、自由で発想の優れたアスリートになる必要条件になのだろうか?と言う疑問が、再び脳裏をかすめるのである。

「いいかい、向井さん、こんな大きなゲレンデの一部にポールをはって、同じことを繰り返すのなら、ここまで来て練習する必要があるのだろうか」
「ここには、こんな大きなゲレンデがある、何本リフトがあるのかさえ把握できないくらいに斜面がある。もし小さなキャンバスしかないのなら、その中で何を描こうか考えることも大事だが、こんなに大きなキャンパスがあるのなら、もっと大きな絵を描いてみたらいかがなものだろうか?」

20数年前のフランスでの出来事である。熱弁を振るうフランスナショナルチームのコーチの口調は、物静かであったが、熱意はひしひしと伝わってきた。

決められた練習はあるが、与えられた環境の中で、いかに工夫して、メニューを作成するかは、大切なことでも在るが、強制ではなく相対的ナ思考を必要するものではないのだろうか。

メニューを作成して、プログラムの達成率を考慮して、メニューを再構成する。
料理なら、レシピ通り作るとおいしいものが食べられるって考えてしまうこと自体が、僕の偏見なのか?

結論から言うと
ま、そろそろ、メニューも必要な時期なのだろうと考えていたので、本人と相談の上に、作成してみようと考える。

僕には夢がある。それは君たちが世界へ羽ばたいてほしいとい夢でもある。
しかし、疎それは単に僕の欲(君たちを教えました)のなせる業なのかもしれない・・とも考える。

夢と欲のハザマで、苦悶は続く。

今年の6月に戴せるな友人を亡くした。画家のHさんである、彼は体制に迎合することなく、たった1本の線を書くことへのこだわりを半世紀ほど続けた。
「向井さん、絵ってたった1本の線を引くことから始まるんだよ」
「毎日毎日、たった1本の線を千回引いたとしても、彼女の・・或いはリンゴの輪郭に勝る、1ッポンの線は引けないものなのだよ。しかし、そのこだわりが、絵を芸術に高め・・あるいは、歴史に残す結果になっただけで、本当の画家は、子供と一緒で、儲かるとか、有名になるって考えていないかもしれないよ。
・・・・私の詭弁かもしれないけれど・・」

そんな話を、もう聞くことが出来ない・・彼の死から100日が過ぎようとしている。

夢を追い、欲を捨てた、一人の画家の死に様(或いは生き様に)もう一度触れることが出来る、人間の思考、或いは心の存在に、感謝したい気持ちでいっぱいである。

自民党総裁という地位

| コメント(0) | トラックバック(0)

それは僅かの例外を除いて、総理大臣になれるということでもある。
今回の総裁選挙には僅かな期待をしていた。自民党内部でバランス感覚が働いて、意外と接線になるのではないか・・という期待である。
小泉総裁の時は、民意が反映して抵抗勢力が機能しなくなった。逆風が圧倒的ナ順風に変わったのである。正に台風一過である。そこにはマスコミの力も大きかったと言わざるを得ない。
「自民党をぶっ壊す」という過激な言葉が、マスコミを通して、世の中に氾濫していた。確かに何かを破壊しなくては先に進めない背景があったような気がするが、単に自民党の派閥政治を破壊したとしても、経済は立ち直ってはいない。むしろ極化したのではないかと思われるほど、庶民の経済格差は広がっている。国の負債総額も500兆円を超えるということらしい。
今回の総裁選挙は。アジア外交と、経済の建て直しが重要な課題と思われる。痛みを分かち合うのは、生活に窮している、一般庶民ばかりではなく、国民全体でのリカバリーをいかに政策に反映させるのかがかぎとなる。
そういう意味では、豪腕的に見られる麻生氏の存在は大きいと考えていた。もっと大きな風が吹いて、200票位は取ってほしかった。
知的で温和な谷垣氏は、政策や考え方としては、大学の教授的で、理解しやすいが、外交や内政の大きな変革を敵対敵として行うにはインパクトに欠ける。
僕はむしろ安倍氏ではでは無いほうがよいのではないか・・と考えていた。
しかし、政治家も仕事である現在、どこに付けば儲かるのか・・というような判断は免れないような気もする。国民とて同じだ。生活が楽になれば、何も問題を起こしたいとは思わないし。静かに暮らしていたいと思うのが常である。

大勢としては安倍氏の圧勝で、彼は500以上の集票をもくろんでいた・・という説もあるが、本人の意の中は本人しかわからないものである・。

むしろ、もう少し接線なら、組閣人事も楽になったような気もする。彼の緊張感は次第に高まっている。あえてバランスなど考えず、サプライズもなく、実務的に自分の考え方に賛同する、同じ意志をもって、内外の国政に安倍流を貫ける人事を期待したい。
しかし、支持が多いということは、船頭も多いということにもなる。
指導者として、ある意味では非情になって、国政に対応できる人選を貫いてほしいと思うが、いかがなものか、安倍氏の手腕に期待したい。

チャンスを生かす原理

| コメント(0) | トラックバック(0)

1 チャンスを生かす

かつて物理学において、宇宙は必然の産物か、はたまた偶然に生成されたものなのかを議論したしだいがったと記憶している。20世紀最大の物理学者アインシュタインは「神様はサイコロを振らない」と、その無意味な論争に終止符を打ったといわれている。
すなわち、宇宙は偶然に出来たのではなく、論理的に生成されたわけである。
しかし、今また宇宙の存在(または生成)には様々な疑問が提議されている。
同じことが、人類の誕生にも言える。今から2億2000万年前のこと、最初の哺乳類が誕生した。
この頃は、いわゆる「ブルームの冬」以後、単細胞が活動するために、極小に再生成され、活動範囲を大幅に広げたことにも由来すると言われている。
ちなみにブルームの冬とは、今から2億5000万年前、古代大陸パンケアが大移動して、1000万年以上も太陽光線を遮断した時期の事で、生物の進化に、隕石の衝突以上の革新的な変化をもたらすきっかけとなった時期のことである。今では中学校の教科書にも載っているらしいが・・?

宇宙が偶然に生成されたか否かは、問題の本質ではない。むしろ偶然(チャンス)を生かす訓練、または準備をいかに重ねていたのか・・ということが重要なのである。
宇宙物理学者、小柴氏は、50年位前から、オリオン星雲で生成されたニュートリノを捕獲しようと考えていた、すなわち、偶然がもたらした発見ではなく、必然を生かした準備を怠らなかったから、なしえた成果なのであります。

チャンス(偶然)とは、たゆまぬ準備の上になりたつ必然なのであり、宇宙が偶然生成されたのか否かという問題ではないのです。

アインシュタインが言う「神はサイコロを振らない」という言葉は、言葉を置き換えるなら、研究成果は偶然ではないが、偶然のように人が錯覚するだけのこと・・なのである。と、同じくノーベル物理学賞を受けた、江崎玲於奈氏は申しておりました。

クライミングにおいても同じことが言えます。
偶然に登れて、大会で勝ったのではなく、勝つための練習を一番積んだものにチャンス(偶然)はもたらされるのであります。
必然と偶然とは、物事の両極ではなく、同じ振り子の中にあるものなのであります。
良い練習とは、そのような要素の上に成り立つものであることが重要なのであります。

昔、エベレストに上りたければ、エベレストに登るための練習を積まなければならない。それがサミッターに成れるか否かの分岐点なのだと、私の先生は言っていました。
練習とは、コーチに強いられるものではなく、自分で作成して、準備しなければならないものでもあります。「高校受験に失敗したのは、教えた予備校の先生が悪いのではなく、自分の努力が足りなかった」のであります。

思考回路の変化は常に、破壊と生成を繰り返さなければなしえないと「バカの壁」などの著者 養老猛さんも言っておりました。

良い練習とは、チャンスを生かす必然性を兼ね備えているもので、単に高度何度の技術習得のみが、練習の目的では無いことを、皆さんには理解していただきたいと考えて、こんなことを書いてしまいました。

チャンスを生かす原理・・お分かりいただけましたか?

なんとなくでいいのです。そのなんとなくが重要なのです。

急がば回れ

| コメント(0) | トラックバック(0)

1980年代のアメリカでの出来事だったと思う。体操での東欧の躍進に対抗すべく、アメリカは幼児期からの選手強化を試みた。成果は現れたが、身長が低い、女性においては生理がこないなどの、障害(?)を持つ選手が増えてきた。確かに、オリンピックではメダルを獲得したが、果たしてメダルのために障害を強いる結果になったことへの疑問は広まって行ったと言う。
同じ頃、日本でも、女子のマラソン選手の躍進は目覚しいものがあった。体脂肪を極度に落とした若い選手が次から次へと記録を塗り替えていった。
たまたは体育大学にいた妻から、新体操や、マラソンなどの選手の中には生理不順または、生理がないなどの選手が居ることを聞いて驚いたことを覚えている。
一般的に成長期には、発毛などの身体的ナ特徴が現れるが、最近では高校生の男子のなかにも、発毛のない生徒がいる。

いろんな配慮から、オリンピックや世界選手権などには年齢制限が施されたわけである。

ある国の国立クラシック・バレー団は、あえて、12歳以下でつま先で立つという基本を急がないという結論を出した。その背景には、膝から足の指にかけての障害を持つ子供が多すぎる現状の打破だったという。

体を壊してまでも先端技術を、若年層に強いることへの懸念の表れなのであろうが、中々の英断でもある。私がクライミングを始めた頃、先生は「怪我をするのは才能が無いからだ」と言い切っていた。
すなわち「過酷な練習を強いて、誰よりも練習し、しかも体が壊れないものだけが、世界へ通じるのだ」・・と、20歳頃の自分は理解していた。

しかし、小学生の頃、野球選手になりたくて毎日、200球の投球練習をして、右ひじを壊し
野球が出来なくなった自分。
そんな腕で毎日1000回の素振りをして、剣道に打ち込もうとしてさらに追い討ちをかけてしまった自分が、大学生の頃、見え隠れしていた。

ロックに来るお客さんの中には、かけっこが早くて、小学5年、6年と2年連続で、ジュニアオリンピックにでて、100mの決勝を走った経験のある人が居る。自己ベストは中学1年の11.2だった。
過激な練習をすればもっと足が速くなると信じて、名門の陸上部で高校生と練習していたという。
しかし、膝に違和感を覚えながらも練習を休めない自分が居た・・ともいう。
あまりにも痛いので、病院に行くとオスグット症候群だといわれた。「走るのをやめなさい」というアドバイスは無視して・・しかし結果は、中学2年の自己ベストを破れないまま、高校を卒業したという。
彼はいう「子供の頃って、何にもわからないから夢中で練習しすぎてしまうんですよね。あの時、もう少し休んだら・・って言う先生が居たら、もっと早く走れたかもしれない・・という。
こんな話はたくさんある。

クライミングにおいての、ジュニアの大会に年齢の上限があるように、シニアの大会にも、年齢の下限を設定する配慮も必要なことなのかもしれない。
小学生の剣道の全国大会は、武道館で行われているが、あくまで練成であって、小学生日本1を決定する大会ではない。
力を発揮することも、勝者を決めることも、大会では重要な考え方だが。あえてたった一人の勝者を決めず、一定レベルを登れたら、皆「優秀選手賞」って言う大会も面白いかもしれない。
底辺の拡大には、格差を見せ付けるより、楽しむことを教える要素も必要かと思うが・・いかがなものでしょうか・・。

初めての西日本への旅であった。まったく違う環境で、しかも未知の壁、予選ルートの難易度が5.12a
クラスとなると、順位は予測がつかないが、目標は20位前後で、問題点の発見が今回の大会参加の大きな意味であった。彼女にとっての2006年は多難な時期であったと思う。
ユース選手権、加須カップでの連続失敗、急遽舞い込んだ初めての海外遠征、JOCに向けての練習スケジュールも、変更に変更が重なり、オンサイトトレーニングや、未熟な技術の反復練習より、スピードとスタミナトレーニングに終始した上半期であったといえる。
思わぬ収穫は、JOCアンダーユースでの初優勝くらいで、勝った負けたといえる段階まできているわけではない。今年は、500手、800手の課題の制覇、レスト姿勢、回復力、洞察力、ひらめきなど、思考回路と、運動回路の連結が主な練習の中身であった。
そもそもジャパンカップは参加する前提などなかったのだが、欠点の確認に生かせたようなものである。
案の定結果は28人ちゅう27位と3度目の失敗に終わった。
しかし、これは単なる順位における失敗であって、収穫も大きい上半期であったと思う。
3月のユース選手権には対応できなかった、レスト姿勢と、回復を促すシェイキングは、かなりの成果を上げてきたと思われる。時間切れはあっても、ほとんどパンプアップしてしまっての墜落はしなくなってきた。
ユースカップ参加が決まって、急遽、スピード競技対応の練習を4週間取り組んで、ある意味では、JOCでの結果を捨てると思える練習プログラムに組み替えてみたが、それが思わぬ成果を生んだ。
肩関節の使い方と、前腕部のパンプアップがかなり軽減され、手数の長いロープクライミング練習が、スタミナを生んだ。
6月までまったく対応できなかった、手のクロスから、ガストンへのムーブが多少フットホールドなしでも対応できるようになってきたこと、確信部とみなされるムーブ手前で、3手下がって、ムーブを洞察力とひらめきを組み合わせた思考で、再構成する考え方も少しは理解してきたような気がすること。
女性特有の、カチ系ホールドの保持力より、パーミング系のホールドの捉え方の練習が、思った以上の成果を生んだこと。など、様々な成果があったと考える
ジャパンカップは結果は27位であったが、必要以上にスローな展開でも、スタミナが途切れることなく続いたこと。
確信とは言いがたいが、自分が最初に描いた動作選択(ひらめき)を信じて、最後まであきらめずに挑戦できたこと(本人曰くフットホールドを見逃していたらしい)など、ビデヲを見ていて「良い失敗だったと確信してしまった。
本来私は、ジャパンカップとか日本選手権は、15歳以下で出場する大会とは考えてない。
16歳以上での参加が望ましいと考える。その理由は、成長期の子供の体が受けるダメージと障害(心体共に)を受けた時の大きさとの対比効果である。
成長期には心身の成長を最優先したいものである。

12歳の体は大きな変革期を迎えている。この時期の失敗は「」になる失敗でなくてはならない。
そういう意味において、3月のユース選手権から、幸運なJOCでのカテゴリー優勝を除いて、問題点を見出せ、本人がそれを、一部自覚したことは、かえって喜ぶべき経験であったと考える。

まだまだ全てにおいて未熟な12歳である。シニアの大会で勝てるまでには5年以上の時間が必要である。
勝つこと以上に積まなければならない経験と、練習は有り余るほどある。
もう少し踵の使い方と、股関節、肩関節の育成というか、心身の成長をまって、基本練習に終始したいものであるが。いかがなものか?
来週は、納涼ボルダーである。群馬のウオールストリートは素敵な課題を用意してくれる。
しっかりとマナー宜しく、賞味したいものだ。

フリークライミングスクール・ロッククラフト

このアーカイブについて

このページには、2006年9月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2006年8月です。

次のアーカイブは2006年10月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。