2006年7月アーカイブ

「割れた窓」理論

| コメント(0) | トラックバック(0)

これはハーバード大学の心理学教授ジェームズ・ウイルソンによって1969年頃提唱された、犯罪心理学の理論である。
日本では「割れた窓ガラス」の理論として紹介されているようだ。
犯罪心理学において、誰もすまなくなったビルの窓ガラスが割れていたとしても、誰も肝心を持たない状態を放置していると、そこでどんな犯罪が起きようとも、誰も何も感知しなくなり、犯罪が助長されるという考え方である。
ミューヨークにおいて毎年1000人以上の殺人事件が告発されるが、未解決のまま放置されることに対しての警笛を鳴らした考え方として、知られているが、実際に、ニューヨークで、このような窓ガラスの改修に取り掛かったのは、1993年ごろのことといわれている。
すなわち当時のミューヨーク市長が、犯罪都市の汚名返上をするために、ニューヨーク市警に窓ガラスの補修箇所の洗い出しと改修を促したところ、判事は激減した・・という根拠に根ざして、初めて一般化した理論のようである。
コンピュータ社会が、急速に社会に普及し始めた時も、同じ事が始まった。
すなわち、匿名での中傷や誹謗を放置していると、匿名で書いて書き込む本人の意識が過剰に反応して、特定個人を攻撃しているという現象を認知できなくなる・・という位症候群のことを指す場合もある。
このような「割れた窓ガラス」理論は日本の警察でも、路上駐車での取り締まりなどに応用されて効果を上げている・・という。
一見、何の変哲も無い行動の中に、適合性を欠く思考や、運動のことも。この理論に当てはめて考える心理学者もいるようだ。
以前、適応性無意識(ある意味ではひらめき)の必要性を書いた事があったが、適応性無意識も過剰に反応してしまうと、本末転倒となってしまう。
最初のなんとなく・・が正しい、というのが論理的であるためには、正しい思考の判断プロセスを経なくてはならない。
すなわち、どのような行動が、正しい行動に移せるのかは、地道な研究と練習に裏付けられた結果なのである。
割れた窓ガラス理論は、人の行動の模倣から成り立つものではない。
習うよりなれろ。技は盗め・・という考え方の本質を見失ってしまうと、単なる[オウムの返し言葉」「山彦現象」であり、行動や技術の裏づけとはならないものなのだ。

なんとなく・・というひらめきを鍛えるには、本来時間がかかり、10歳くらいまでの思考に、メスが入っていなければ、論理的な思考に結びつかない・・という説もある。
ひらめきとか、感性とかいう言葉を第一感覚で適切に表現できるアスリートは、芸術性を伴った、ある意味ではオーラのある選手になれるのである。

割れたガラスをどのように修復し、或いは、正しく認識させるのか・・という問いに明確に答えることは出来ないが、いずれにしても論理的ナ練習によって生成されると、欧米のコーチは口をそろえる。

日本において、一流アスリートがスポーツ心理学に精通してるケースは稀である。
そういう意味において、東海大学のT氏は稀な存在なのかもしれない・・などと、妙な事を考えてみた。

技は盗むもの?

| コメント(0) | トラックバック(0)

「習うよりなれろ」とか、「技は盗め」とか、古の言葉は趣がある。
一見セコイ言葉のようだが、そこにはいくつかの心理が隠されているような気がする。
習い事は単純なことの繰り返しから始まる。しかし、うまくなりたい一心から、近道を選ぼうとする。
誰にでもある心である。
学問に王道なしは、誰の言葉だったか?
近道は無いのである。

技は盗め・・といっても、達人の技は幾ら観察しても自分の物見は出来ない。
やはり練習が大切である。そして自分のモノになった時は、達人のものとは違う何かを感じる。
真似事だけでは満足できない自分がいるはずだ。
技を盗むには洞察力が必要なのだ、その洞察力なしに単なる真似事では、コピー機のほうが優秀である。
そんなことをある有名クライマーのTさんのブログから拾った。
いまさらとも思うが、彼女のブログは
http://blog.livedoor.jp/heartfulbouldering/archives/cat_10031820.html
力を必要とするときは、力を抜く・・と、大切なこと書いてある。
呼吸と運動のこともさらりと体感で書いている。
優れたクライマーとは、教えられなくても自分で掴む・・それがある意味では才能なのかもしれない。
ロックのYも彼女にかわいがってもらっているようだ・・書き込みもせず、こんなところで、お礼を言うのもおかしいが、大会などであった時は、これからもよろしくお願いいたします・・。
やはり、世界に行くべき人は、自分を持っている。

金沢大学の副学長でもある、文化人類学者 K先生は「文化を持て」と簡単に言ってのけた。
自分を持つということは「文化」を持つことなのかもしれないと、30年もたって、少し解ってきたような気がするのは、自分が凡才なのだからだろう。

トレーニングとは関係の無いことを言っているようだが、心も体も、練習することに変わりは無い。
追い風もあるときは試練を生み、向かい風は必ずしも逆風(試練)とは限らない。
心の持ち方もまた、世界を目指す人には大切な、基本であり、練習課題なのであろう。

モンタナの教え

| コメント(0) | トラックバック(0)

神様の絵

そこには野生の馬がいる
狼もいる

インデアンはいった
ここには神様がいる
それがここの良さだ

都会にも神様はいるのか
その神様はそこで何をしている?

ここでは夕方から
絵を描いている

私達は 夕方までに仕事を終え
そして神の絵を見る
幸せな時間だ

改めてお前に聞く
神は都会にもいるのか

私は
「いると思う、しかし、こんな素晴らしい絵は描けない」といった
インデアンは笑いながらこちらを見て
「そう、モンタナの神は素晴らしい、絵がかけるのだから」
「私は、この神の絵を大切にしたい」

そういって、再び彼は、 夕日が空を真っ赤に染めるのを

そして、その赤が星に変わるまで
ただじっと、 暖かな微笑とともに 見入っていた

私はただ、 神様の絵を 心のアルバムに刻み込もうとしていた

すると彼は再びいった
「無駄な事、ここにいれば毎日見れる。来る日も来る日も、神の絵は全てが美しい。今日だけではない」
私は、はっとして再び夕日を見守った
「そう、神の絵が美しいのは、今日1日だけの事ではない」

心も同じ、楽しく、美しかったのは、あの時だけではない。
苦しい時も、悲しい時も、切ない時もみな同じ。、何時も心は美しい。

インデアンはいった
「そう、心は何時も美しい・・神の絵を見れる人は」

心は何時も美しい・・か
私は、見知らぬインデアンに 全てを見透かされていた

いい言葉をいただいた。 「心は何時も美しい」・・・

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
昔むかしのこと、人は石を投げることを知った。
しかし、それは人や動物を殺(あや)めるためではない

今、川面に石を投げる子供はいなくなった
かつては秋に、鮭が遡上してきたし、うぐいや、カジカ、鱒もたくさんいた。
それは、川面に石を投げる子供がいたからだ・・。

インデイアンはさらに言った
石を河に返す事は、河の恵みを得ることになる・・。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
産卵すべき川底に石がなったら、卵は皆流されてしまう・・。
そんな簡単なことを、文明化した人間は、理解することが出来なくなっている。
高度成長で、道という道は舗装され、河の氾濫を恐れて、堤防を作る。
自然の生きる力を文明が破壊し続けた結果が、災害外を生む。

大学の自然地理学の時間、水野時次先生は「自然との共存を人類は忘れている、文明化とは、道をコンクリリートでふさぐことではない。メコンデルタに麻薬の栽培を仕掛けたのも、アフリカの大地にとうもろこしを植えたのも、自分たちの利益におぼれた人類の仕業だ。こんなことをしていたら、地球は100年も持たずに壊れてしまう。アフリカのサハラ砂漠も、20年後には今の5倍の規模になり、サバンナは消える」
「こんなことも考えないのか、諸君!!」と怒っていた。
熱い先生であった。

インデイアンという考え方(先住民)も、自分たちを中心にして、他者を見るときに与えた言葉である。
何かを考える時に、自分に位置を基準に全てを考えるののが、人間の学問の基本的な考え方である。
正にガリレオの時代の天動説はその典型といえる。

もう少し相対的に考えられないものだろうか?
石をナイフに変え、穀物を刻む
石を矢に変え、遠くの獲物を狙う。
火を操り、煮炊きをする。それはやがて、瞬間熱傷するダイナマイトとなり、人や工作物、樹木や石を破壊する。
矢と火が合体して、ロケットとなり、或いは宇宙の探索に・・或いは、他国との利害を伺う。

全ては、手を自由にしたことから始まった。
今から500万年前、ホビートといわれる最初の人類が、木の上から、地上に降り立った時、こんな500万年後を想像したであろうか?
やがて石に刻まれたも模様はやがて、絵画や彫刻などの芸術を生む。
しかし一方では、石を積み重ねることで、巨大な墳墓や城壁をつくり、利害を生む・・

もう少し、石を掴んだ最初の人類の発想を、想像しては見ないか?
ロイヤル・ロビンスは15年前、そんなことを言っていた様な気がするのは、僕の要らぬ詮索なのだろうか?
モンタナに吹く風は、いつも心地よいとは限らないのだ・・・。

肩の痛みと戦いながら

| コメント(0) | トラックバック(0)

生徒の練習には、ロープクライミングは欠かせない練習である。
特に小学生以下の子供には、最低1日10回のロープクライミングを課している。
当然、技術や体力、体の成長などにともなって、難易度や課題、回数にも相当な開きがあるが。

昨年の8月頃から小さな違和感を右肩に覚えていた。夏休みは子供たちの練習も熱が入る。
昨年から、JOCにも参加する生徒が出てきたので、スタミナつくりに、基本技術の反復練習に、多いときは1日に800回もビレイする日があった。ロックの壁は高さ6mなので、800回といっても合計2400mである。しかし、されど2400mなのである。
体力がなく、よたよたしている頃は、1回の5分くらいかけて、よたよたと登り「疲れた、ばてた・」とひっくり返っていたが、体力がついてくると、1回10秒くらいで登ってしまう。
1時間に100回近く登る子供も出てきた。
スタミナがつくと子供たちは競い合うように登る。子供の成長は早く、中には500手連続で登り続ける小学生もいる。ボルダー練習ではなく、ロープクライミングでの500手である。
正直言って恐ろしい・・。
幼稚園の子供の中には懸垂を6回できる子供もいる。幼稚園クラスだと、開業した当時は1日1回ロープで登るのが目標だったのに・・・。
レッドポイントグレードも、当初は、小学6年(卒業)までに5.10bが目標だったのに、小学2年生で、5・10bを登ってしまう子供も出現してしまって、驚きを隠せない。
なんでもそうだが、毎日の練習環境によって、子供たちの才能は大きく開花する。
どの子も、クライマーを目指しているわけではない。むしろクライミングというスポーツをしている・・と言うより単純に「木登り」感覚で、汗をかくことを楽しんでいる。
100mを12秒で走る子供や、サッカーで県の代表になった子供もいる。
そんな助けになりたいと・・子供たちにクライミングを教えたのだが、右肩は悲鳴を上げる。
オートビレイがなかったら、もっと早く、僕の右肩は壊れてしまっていたかもしれない。
不必要な筋肉をつけないように、バランスと洞察力を磨く練習は続く。
一貫して教えているのは、
限界グレードはあくまで結果でしか過ぎないこと。
考えること、楽しむこと、続けること・・を教える。
君たちが大人になったときに、幾ら練習しても「壊れにくい体つくり」が僕の教える基本である。
サー、もっとゆっくりね。足元をしっかり見て。指で握り過ぎないように。大きく体を伸ばして・・。
と、同じ事を繰り返す。
高度な技術は何も教えないし、真似をすることも教えない。
始めは、物まねから・・とも言うが、運動することによって、失敗を重ねることによって、工夫することによって、技術は磨かれてゆく。
「ねえ、先生ここはどこに足を置くの?」
「考えて、工夫してご覧よ、先生はわからないよ・・」
そんな会話を粘り強く繰り返す。
確実に考える力が増し、動作が合理的になってゆく・・
時間をかけて練習することの大切さ「同じことの繰り返しの中に、真実がある
そう信じて、今日もまた練習が始まる
肩の痛みと戦いながらの・・・・。

雨の日には傘を・・

| コメント(0) | トラックバック(0)

以下の設問に答えなさい、また。その理由を述べよ

1)雨の日には傘を   ①貸す  ②貸さない  ③解らない

2)泣かざれば      ①泣かせて見せる  ②殺してしまう  ③泣くまで待つ

3)神様はサイコロを   ①振る  ②振らない  ③振るときもある

このような、質問が、ある試験に出題されていたなら、如何に答えるのであろうか?
この件については、改めて見解に触れてみる。

大学に入学して間もない頃、歴史学概論の講義の時先生が言った言葉が鮮明に記憶に残っている
「歴史の教科書を捨てなさい」
あんなに歴史が好きで、記憶してきた教科書の記述は、何も事実を伝えてはいない。
もう、過去は捨てて何が真実なのかを新たに考えなさい・・・。
今思うと、先生の言われたことは重い。
かつて聖徳太子像といわれて、1万円札の肖像にもなった人物像は、着衣から考えれも100年以上も未来の衣服であった。あわてた文部科学省は全ての日本史の記述に「伝、聖徳太子像」と記載するようになった。そんな人物像は多々ある。武田信玄像といわれた肖像画の家紋が違いっていた。すなわち武田家の肖像画でもなのに、信玄像と記述されていたわけである。
こんな話はたくさんある。
的史的事実とは、学会が多数決で決めただけのことであって、歴史的事実ではない。
今思うと、歴史学概論の先生はたいしたものだった。しかし、学会では冷や水を飲まされていた・・という。
哲学概論の時間に、先生が「う~NN,ソクラテスは果たして歴史上に存在していたのか・・・?」
と腕を組、講義が止まる・・・沈黙は30分以上に及ぶことがあった。
確かに、ソクラテスは何も文藻を残してはいない(私の知る限り)ソクラテスの弁明なる書物も、プラトンが書いたものである。
宗教を考えた時も同じような疑問が残る「キリストはキリスト教の開祖なのだろうか」
そういったのは12人の使途たちである。仏教においても同じである。仏陀は、結婚していて子供もいたようだし、彼は自分の生き様を「禅」といったが、仏教といったのは、弟子のモッカラナやサーリプッタ??のようでもある。もっと突き詰めれば、仏陀とは「目覚めた人」という意味で、後世の人がつけた名であって、正式名称は謎ということにしておこう。
たとえば、弥生時代に稲作文化が南方より伝播した・・といわれるが、6000年前にすでに稲の種子が日本にあった。記述ではなく、化石としてである。
歴史的事実は、炭素によって証明されるが、それにも限度がある。
宇宙は137億年まえに、誕生したといわれる。地球は太陽の誕生と同時代に誕生した?
46億年前のことである。月は記憶が定かでは無いが、36億年前に隕石の衝突によって、地球から分離した・・という根拠は、月と地球の距離が毎年1m遠くなっているから・・ということである。
歴史とは、人間が考える常識とか論理によって支配されるが、人間の考え出したものが全て正しいとは言いがたい。もう少しあたえられることを幾つ覚えているか・・が、能力の差を生むのではなく、物差しを変えてみる視点も大事だはないかと思う。
大学時代によく読んだ書物に、梅原猛のほんがある。ほとんどの本を読み漁った。地獄の思想、隠された十字架、水底の歌など、その哲学的発想による歴史考察と着眼には、確かに考える楽しさがあった。
しかし、彼の話は歴史的事実ではなく、歴史の哲学的考察において、斬新であったのだ。
歴史的手法においては、フランスのアナール学派の歴史人類学という手法が僕の興味を引いた。
僕のクライミングに対する考え方は、歴史人類学そのものなのである。
人間は、何故石を持ったのか、何故石に刻んだのか、何故石を積んだのか、何故石を投げたのか・・
そこには哲学的趣向、歴史的記述、芸術、遺跡。。戦争や宗教に繋がるそべての要因が隠されている。
ロイヤル・ロビンスが「無心に石を掴み、よじ登る・・事こそクライミングの精神だ」と言ったが、そこには理屈など無い。
石につかまる人・・そのものが全ての真実なのである。
下手であることも、上手であることも、石の前では、無力である。
自分自身の心の位置・・それが重要なのである。
そう・・「登ることが好き」であることが大切なのであって、うまいとか下手は関係ない。
指に刻まれたこそ事実であって、残された軌跡の残像こそが心の真実なのである。
記録とは人類にとって絶対的なものではなく、相対的な価値観なのである、それを一つの物差しで計るのではなく、それぞれの心の時計に刻み、それぞれの長さの物差しで計ることこそ大切な考え方なのである。
クライミングが教えてくれるもの・・それは人類の生きた過去と、これから対面するであろう未来とのあいたのほんの僅かな位置だけなのかもしれない・・などと、訳の解らないことを考えた1日であった。

フリークライミングスクール・ロッククラフト

このアーカイブについて

このページには、2006年7月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2006年6月です。

次のアーカイブは2006年8月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。