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    楽しそう~一番小さい生徒は、3歳です.フエイスブックしています。よろしかったら

    Yasunori Mukaiさんの写真
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    「ロッククラフト」でアクセスしてください。

    fueisu

凄い生徒!

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この頑張りには、頭が下がります。
「世界を目指そうよ」:って言ったら、屈託なく笑っていた。今日はおばあちゃんも孫が登る姿を初めて見て、かんどうしていたな~

ロッククラフトさんの写真
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こんな話しを、小学5年生に話しました


僕が教えた「人生に必要な11の教え」

昨日、偶然ですが、不登校の生徒に、人生とは・・を語りました。
1)50回の練習で成功した人は、50回分の練習した成果した持たない。
君がもし1000回の練習をして成功したなら[彼の20倍も、その問題を解いた、ということになるんだ」...
失敗は君の人生を磨く、砥石のようなものだ。恐れてはいけない。

2)どうしてもできない問題があったら、捨てなさい。今の君にはできないのだから。その問題を捨てて新たな問題に取り組むことも、重要な選択だ。

3)「あきらめる」ってことは、投げ出すことではない。「明らかに見極める」ってことだ。そういう選択は、大事だ。人生は一度しか死ねないからね。

4)誰の人生も、レールの上を歩けない。踏み出す一歩は、すべて「前人未到」ナンダ。君は、世界で君しか歩めない道を行くんだ。小さな困難におびえず、生まれたことに感謝しなさい。

5)君をほめてくれる人の多くは、君の人生に何の影響も及ぼさない。練習はいつも、いじめられることばかりだが、「お願いします(いじめてください)」で始まり「(いじめてくれて)ありがとうございます」って挨拶で終わる。人生も同じだ。「試練を与えてくれる、人に感謝しなさい」

6)人を信じてだまされる。それを不幸とは考えないことだ。ここに良い道と悪い道があったなら、お金を払っても、悪路を選びなさい。悪路は(試練)は必ず、君を豊かにする。

7)先生の先生はね「青年とは教師なのだ。若者や小さな子供たちから学ぶことが、教育の本質なのだ」と教えてくれた。だから僕は、君から学んでいるんだよ、教え方をね(笑) 

8)母親ってね、いつまでたっても母親なんだよ。絶対に君を裏切らないんだ。そして、君がもし、お母さんに、わがまま言って困らせるのは、お母さんが大好きだからだろう。いいね、わがまま言えるお母さんがいて、だから君がいるんだ。大人になったら、大切にしようね(笑)

最後に・・ロッククラフトは、こんなことを教えてくれる。

その1  苦しくなったら声を出せ
その2  人と自然の調和を考える
その3  一見無駄と思える繰り返しの中に、真実がある。

・・・・・・・・・・・・・・・・ビル・ゲイツも自分の言葉で、話ができたら、豊かになれるんだが・・(笑)

僕が野球少年だったころ

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    この野球ボールは、僕が野球少年だったころの思い出のボールです。当時、小学6年生だった僕は、チームの投手に任命され、あこがれのマウンドにやっと立てるようになりました。おそらく昭和43年ころのことです。当時は、巨人の星が大ブームで、僕も自分の才能を顧みず、地獄の投球練習をしていました。毎日このボールを200球投げていたのです。おかげで、最後の公式戦の2週間前には肘が動かなくなっていましたが「気持ちがたるんでいるんだ」と自分に言い聞かせてそれでも、ノルマの投球数は守り続けていました。案の定、僕の肘は、関節がまったく曲がらなくなり、医者は僕に「野球はやめなさい」と告げました。僕は診察室のベットで涙が止まらなかったことを、今でも鮮明に覚えています。その夜、監督が僕のうちに来て「最後の試合だ。思い残すことなく、投げたらどうだ。私は、ムカイに負かす」と笑いながら言ってくれました。僕は、涙が出るほどうれしくて、また、泣きました。しかし、キャッチャーまでボールは届きません・・・。しかし、2週間後には、包帯を投げ捨てて、最後の投球をしました。7回7失点。今、思い返せば、僕の最初の公式試合は、引退試合でもありましたね。このボールの傷は、僕が付けたのではありません。うちの生徒が付けたものです。そしてこのボールには、読売巨人軍 高橋一三と書いてありました。僕のあこがれのピッチャーでした。父の友人(隣に住んでいました)が、高橋の奥さんの叔父でしたので、サインボールをもらったのです。
    そんなことはお構いなしに、子供たちは、そのボールを、駐車場で投げて遊んでいます。「そんな高橋?  しらねえよ~」って・・・

    Yasunori Mukaiさんの写真

 いまは、上高地も外国人ばかりですね。観光客は8月に来るけど、1970年代は登山家予備軍と、大学山岳部が多数いましたね。夏合宿は小梨平のキャンプ場にほぼ2か月滞在していました。

河童橋ではナンパしていましたね。河童橋から飛び込んだこともあります。当時のことは時効ですかね(笑) 上高地小梨平 向井様・・で葉書が来ました(笑笑)懐かしいですね。アルプス観光の料理長のo山さんには、いつもカレーをごちそうになっていました。それほど保高には通っていたのです。当時付き合っていた遠距離恋愛の彼女も、札幌から会いに来ましたね(笑) 彼女の21歳の誕生日をここでしました。青春していました。
夢は「エベレストの未踏の尾根(南稜線)からの登頂でした。・・・それから、ほぼ20年後の1994年に、夢のエベレスト南稜(サウスピラー)からの登頂を、仲間が果たすのですが、僕は力がなく、遠くで見ていました。
さらに20年が過ぎて、さらにおっちゃんになりましたが、今でも夢はおっています。アンナプルナ南峰(7219M)の未踏の岩壁からの登頂、夢ですかね?  
それとも「夢は、思い続ければ,叶う」のですかね・・(笑)  
今の自分には、十分な体力と技術、判断力が備わっていると思うのですが、チャンスがないですね。チャンスも、うかがっていれば、訪ねてくるのかも・・ですかね・・コラムでした。


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創業記念日に一言

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おっと、今日は14回目の創業記念日だった。よくもまあこの看板倒れなかったなあ~と、歓喜深い
看板は、僕の友達の寄贈。後ろの写真は小山田大ちゃん。どちらも僕じゃないよ~
皆さん、ありがとう・・感謝です

ロッククラフトをロビンスから譲り受けて20年も過ぎた。よくも僕ごときに、ロッククラフトを引き継がせたな~と、ロビンスの偉大さにも感謝である。来年は僕が湯浅先生からと登山学を教わって40年目を迎える。長い事は必ずしも良いころでもないが、積み重ねる事の重要さを痛感する。
...
苦しくなったら声を出せ。
自然と人との調和を考える。
一見無駄と思えることの繰り返しが真実を生む 
                  
 改めて、創業の精神でもあり、両師匠の教えを、かみ締めてみる
 
 
看板2.jpg 
 

自己責任の行くへ

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今回の御嶽山の噴火事故は、さまざまな問題が浮き彫りにされた。登山は、たとえ裏山であっても、未知の、あるいは未踏の岩壁からの登山であっても、自己責任が原則である。格好ツアーのような安易な考え方で、まして、専門のガイド【登山ガイド】が同行していない集団登山を、山岳事故発生を引率者の指導責任と考える事事態が考え方の間違えである。

日本は世界有数の火山国である。110箇所以上の活火山があり、そのうち60箇所くらいは近年噴火を繰り返している。北海道の雌阿寒岳、富士山などを含み、火山に死火山とか休火山と言う概念は存在しない。ただ学校で習う機上の空論である。

栃木にも那須岳があり、常に小規模ではあるが火山性ガスを噴出している。しかし、ほぼ9合目あたりまでロープーウエイがあり、8月になると、ハイヒールやTシャツ1枚で登山をしている人を多数見かける。

其れは筑波山においても同じ事である。火山ではないが、軽装でネクタイに背広姿で登ってくる人を見かける。

僕が、お客さんを山に連れて行ってたときは、火山である事、どんな危険が待ち受けているのか、さらに其れは予測不可能の場合もある事、ヘルメット、クライミングロープなど救助動議一式をもってお客さんを連れてゆく、ザックの中には寝袋、簡易テント、ストーブ、食器類などの携帯は常識の範囲内でもある。

低山である時の危険性は、標高が低い事の危険性も教える。例えば、樹林帯の中だと日没が早い、尾根が明確ではない。秋には枯葉が積もって、登山道を見失う事が在る・・事などなどを説明する。むしろ、2000mを越える山には無い危険性を理解してもらう事に勤める。

朝焼けの焼岳は美しいが、登山道の近くを高温の温水がぶくぶくと音を立てている。大正年間に噴火して、何時噴火してもおかしくない状況が其処にあるのだが、近年登山許可が降りたようだ。

浅間山は、現状、頂上2キロくらい手前から入山禁止のたて看板があるのだが、そこから引き返す人は少ない。むしろ頂上に向って楽しそうに歩いている人を見かける。そういう人に限って「自己責任ですから」と言い切るが、有事には気軽に防災ヘリ出動を安易に要請する。

ドクターヘリを有するある医科大学の関係者が「年間400回以上の要請があり。採算が取れるようになりました」と僕に説明してくれた。どこから補助金が出ているのかは創造に任せたい。

ここにも、自己責任は発生しない。

御岳の噴火の責任所在に対して、現地の観光課や協会には苦情の電話が鳴りっぱなしだと聞いた。何故地震計が無かったのか、神社がその日に限って休みだったのは何故だ、噴火する可能性を隠していたんだろうとか・・数え上げたらきりが無い。

助ける側も大変である。正に命懸けである。今回は自衛隊のヘリ以外は映像に入ってこない、県警や防災ヘリでは危険な状態なのだろうと想定する。自衛隊員も、おそらく死を覚悟して救助に当たっていると思う。

登山の危険性は、ハイキング、裏山でも変わらず存在する。

又、今回の噴火で、登山の教本に火山を歩く時の危険性を説明している本が無いのは何故だと、聞かれた。何故なのだろう・・・出版社には検討していただきたいと思う。

写真はエベレスト、ウエスタンクーム ウエスタンクーム.jpg

 

僕を鍛えた山々

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穂高の6月を見たのは初めてだった。澄み渡るくうきと懐かしい風景。しかも1970年代から1994年まで、未踏の岩壁ばかりを目指していた仲間(先輩)たちとの語らいは20時間を越えた。ヒマラヤ鉄の時代を魁、あらゆる困難を乗り越えて、僕たちは6月2日の上高地へとたどり着いた。湯浅先生とは「学生時代」を何度も熱唱した。僕たちの学び舎は「ここ」だったのかもしれない。穂高周辺に素材する岩壁は.四季を通して、僕たちを鍛えた。「ここの岩壁を本番」と考えたものは一人も居ない。「全てのルート(岩壁......)を走破する事は、世界への足がかりにしか過ぎない」ルートは其処に存在するから登るのではなく、其処をよじった結果が、道(ルート)となる。500m以上の岩壁がこれほどの広大な敷地にm広hがるのも、穂高ならではの練習場であった。結果は先生に報告するも公表する事はしない僕たちが其処に居た。 僕たちは登山家湯浅道男にあこがれて、湯浅道男に指導された。野呂和久は行った「僕は愛知学院山岳部に入学したのだ」と辻美行は「憧れの人に、教えていただく幸せは無常のものである」と・・・「先公と」所かまわず言い切る伊東賢治は、間違いなく僕たちの偉大な兄貴である。17歳で先生とであって、50年間、おそらく人生のほとんどを先生にささげた優秀な登山家でも在る。この席に2年前にエベレストでなくなった尾崎隆が居ないのは、はなはだ残念な事でもあるが・・・
人の心の中にはそれぞれが持つ「業」があり、僕たちはそれぞれの思想を「行」の中に見出そうとしてきた。                   もう先生に師からレルことも何のかもしれない。「貴様は、まだそんなことも解らないのか」と叱咤されることも在るのかもしれない。僕たちは、ある意味においては宗教としての湯浅イズムを海外の登山活動にぶつけてきた。3代目のOB会長門坂功は言った「この旅は先生との最後の山旅だと思っている。我々は、湯浅先生から卒業品kればなら無い・・特に向井は」と名指しされた。僕には、先生は偉大すぎて「先生から卒業する」などと言う考えを描いた事など無かったが、門坂先輩に言葉に、しばし耳を傾けている自分が居た。先輩は続けて「自分の道を行けさ・・」と笑った。
確かに、僕は「人間・湯浅道男」をブログなどで書き綴っているのだし、先生の教えの真理を追求し続けている輩に過ぎないのだが、湯浅論もそろそろ最終章に向けて準備をしなくてはいけない時期に来ているのかも知れない・・と思った。    いずれにしても、偉大な先輩たちである
そして、20年前にエベレスト遠征を終えたあと、次の目標に決めた山・・・先生は[死ぬからやめておけ」と笑いながら言っていた

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そして、次なる目標のはコレだ

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器を用意してあげなさい

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それにしても錦織圭は凄い。世界を目指すために歩んできた道すがらには、さまざまな困難が直面し、孤独にないた日々も会ったと思う。
僕もい世界を目指して海外遠征に何度も挑戦し、そして挫折したのが23歳であった。その苦しみは、はかりしてないものがある。20年前にフリークライミングで世界を目指した青年にも同じ事があったと思う。偶然にも錦織を支援した財団のお兄さんとは縁在ったが、はかなくも崩れてしまった。20年前の事である。
彼は、相田みつをの言葉が座右の銘タしいが僕も同じだ。
来年、僕はクライミングを初めて40年目を迎える。其れは20年前に描いた夢への挑戦でもある。挫折する事も人生だし。夢を追うことも人生だと考える。

以下は、あるコラムであるが、大きな器を与える事の重要性を、語句は考えル。指導者は、子供たちに、大きな器を与える人であった、無図からの名声のために仕事をしてはならないと思う。


錦織圭の父「中卒だっていいと思った」 超一流アスリートの育て方〈週刊朝日〉
dot. 9月18日(木)16時5分配信

 錦織(にしこり)圭選手(24)が躍動した。13歳で単身米国に渡って10年超。全米オープン男子シングルスの決勝の舞台で、敗れはしたが、天才少年が超一流のアスリートに成長したことを、世界中に示した。彼の才能に誰が、いつ気づいたのか。それは、どのように育てられ、伸ばされてきたのか。

 生まれたのは島根県松江市。父の清志さんは森林土木関係の技術者、母はピアノ講師。大学時代、テニス同好会に所属していた清志さんが軽い気持ちで贈ったおもちゃのラケットで遊び始めたのが5歳。ほどなく市内の「グリーンテニススクール」に通い始めると、コーチの柏井正樹さん(54)はその非凡さに目をみはったという。

「まだ体も小さく、体力もなかったが、『もう少し長く』『ちょっと高く』『もっと低く』などと、ボールの軌道に対して指示を出すと、すぐにそのとおりの表現ができた。ボールコントロールが抜群でこれはすごいな、と」

 幼いながらに、気持ちの切り替えのうまさも際立っていた。

「圭はスイッチを持っているんです。コートの外では本当に穏やかで優しい子。それが試合になり、『絶対に勝つぞ』というスイッチが入ると、ものすごい集中力と負けん気が顔を出す」

 負けず嫌いは、テニス以外でも健在で、例えばテレビゲームでは勝つまでやりたがった。才能と勝利へのこだわりが上手に噛み合い、島根はもちろん、国内でも知られる存在となっていったという。

 2001年、小学6年のときには全国選抜ジュニア選手権、全国小学生選手権、全日本ジュニア(12歳以下)で優勝。史上5人目となる全国3冠を達成した。当時、錦織選手とダブルスを組んでいた松江市北消防署の的野貴介さん(25)は、

「当時から別格だった。スイングスピードも速くてショットが正確。試合ではいつもミスをする僕に淡々と付き合ってくれたという感じ。大人でしたね」

 家族も柏井さんも、錦織選手を試合以外でも積極的に外へ出した。松岡修造さんが主宰する合宿「修造チャレンジ」に参加すると高校生に勝った。海外遠征の話があれば行かせた。錦織選手が中学生になったころ、女子テニスの第一人者として活躍した杉山愛さんの母、芙沙子さんは、清志さんにこんな言葉をかけている。

「この子には、大きな器を用意してあげてください」

 杉山さんが言う。

「才能がずば抜けていることは母を含め、誰もが認めていた。ご両親はどう育てようか、迷っておられたと思うので、背中を押す一言になったのではないでしょうか」

 そして錦織選手はソニー創業者の実弟で、元副社長の盛田正明さん(87)が私財を投じて創立したテニスファンドの選抜審査を受け、強化選手に選ばれる。金銭的な援助を受け、米フロリダ州のテニスアカデミーへの留学が決まった。中学2年生、13歳のときだ。このときのことを清志さんはAERAの取材に、こう答えている。

「義務教育の途中でっていう不安はありました。でも、(中略)中卒だっていいと思ったし、リスクもある一方でテニスでトップになるには大チャンスだと思いました」

 長男の才能を誰よりも信じ、全力で応援していたことがよくわかる言葉だ。さらに、どんどん外へ出ることが「当たり前」になっていたせいか、コーチの柏井さんも、

「留学も、今生の別れという感じはなかった。大学生が地元を離れて東京の大学へ行く感覚でしょうか。楽しんでこいよと、明るく送り出しました」

 テニスファンドの強化選手として米留学をしたのは錦織選手含め、これまでに17人いる。留学後は毎年、ランキング目標を達成できなければ、支援を打ち切るという厳しい条件がつく。プロになるまで支援が続いたのは、錦織選手ら2人だけだ。

 語学の壁、厳しいトレーニング、トップレベルの選手たちとの競争......。そんななかで錦織選手が親しんだのは、「にんげんだもの」のフレーズでおなじみの詩人・相田みつをの詩である「一生燃焼 一生感動 一生不悟」。相田みつをの長男で相田みつを美術館(東京都千代田区)の館長・相田一人さんは、

「厳しい環境下で、日本語の力に励まされてきたのではないでしょうか」

 前出の盛田さんも、

「それはそれは大変だったと思います。泣きたいこと、つらいことは、たくさんあったはず。けれど、圭は強くなりたいという執念を持ち続ける力があった。それも立派な才能です。マイペースで周囲に惑わされない性格もよかった」

 海外で磨かれた錦織選手の才能。国内で進学していたら、ここまでは到達できなかったというのが大勢の見方だ。国体少年男子ダブルスで優勝している元衆院議員の杉村太蔵さんも、そんな一人。

「皆さんピンときてないかもしれませんが、今回の快挙はサッカーに例えると、W杯で日本がブラジルに勝ち、アルゼンチンに勝ち、決勝でドイツと戦ったようなもの。彼のような選手を育てるためには、やはり留学させるのが一番でしょう。でも、お金がかかる。多くの選手にチャンスを与えるために、安倍政権にも支援の枠組みを作ってもらいたい」

 錦織選手のような存在がもたらす経済効果は大きい。11年1月からスポンサー契約を結び、ロゴがテレビの大画面で大映しになったユニクロ。その宣伝効果は計り知れず、「歴史的偉業」として即日、1億円のボーナスを決定した。

 身に着けていたグッズの売り上げも目覚ましく、各地のラケットショップでは、錦織選手が使用する米国製のウイルソンのラケット「STeam95」(税込み3万7800円)がほぼ完売状態。試合中、錦織選手が左手に着けていた時計はタグ・ホイヤー製。今年9月1日、錦織選手がデザイン監修をした第2弾の「アクアレーサー Air??K2 日本限定モデル」を発売したところ、なんと29万7千円(税込み)もするが、国内窓口には問い合わせが殺到しているという。

 錦織選手は、決勝後の会見で語っている。

「僕はもう、そんなに若くない。だから自分にもっとプレッシャーをかけないと」

 まだ24歳。されど、もう24歳。超一流になるための道筋を示し、日本に活気を与えてくれたことに感謝しつつ、さらなる高みを目指したチャレンジを応援したい。

※週刊朝日  2014年9月26日号より抜粋

彼はロイヤル・ロビンス。ヨセミテなどでフリークライミングの概念『ロッククラフト』を1970年代の前半に定義した、いわゆるフリークライミングの開祖見たいな人である。僕ような者にロッククラフトのスクーリングを任せてもらえるとは、まったく考えていなかった。
1982年に僕たち(パートナーは檜谷清)がフリークライミングスクールを立ち上げる時、檜谷が「ロッククラフト」にしたいが、勝手に名乗ったらロビンスにしかられるかな、といった経緯もある。そこでスクール名は『リバテイ クライミングスクール」とした。もう一つの自由である。教える自由ではなく創造する自由を教える事で、二人の意見は一致した。彼とは、人工壁の導入においては師考え方が分かれてしまったが、リバテイクライミングスクールの理論は僕が構築したと思っている。しかし、檜谷がいなければ、どうなっていたか解らない。僕がフリークライミングスクールを創設する準備に取り掛かっている頃、檜谷は、そんな思いを胸に抱きながらの自らのクライミングの成長にすべてを費やしていたのだ。彼との出会いは1977年の秋になる。中央アルプス宝...剣岳側壁の天狗岩でおこなわれた、第1回岩登り競技会での圧倒的な優勝であった。その頃は、フリークライミングという言葉はあってもその実態が掴めない時代でもあった。僕はその年の11月におこなわれた、第1回東海学生岩登り競技会で優勝した。レベルの違いこそあれ、優勝は優勝だ(笑)
その翌年、日本山岳教会主催?の岩登り競技会が三重県の御在所岳党内壁でおこなわれた、数々の議論を生んだが、一部壁をチッピング(削り落とす)てルートが造られた。檜谷清は相変わらず強いというより華麗で美しく、観客を魅了死、あるいはクライミングの行為に芸術性を見出していたようにも思う。僕は、大会直前に持病の腰痛が悪化して、棄権した。
そのとき、ヨセミテから鈴木を名乗るクライマーが訪れた。選考会が終わり、鈴木にデモをお願いしたら、いいよってことで決勝ルートにチャレンジしたのだが、優勝タイム6分の半分くらい、しかも僕たちは今で言う、レッドポイントで試合に参加していたのに、彼はオンサイト(厳密に言うと、ルートは見ていない)にもかかわらず、3分30秒くらいで50mの壁を駆け抜けた。初めて人が風を見たような、不思議な興奮が僕たちの体に興奮と、動悸をもたらしたのは明らかだった。その頃日本では、日本初の5.9と言う難易度のルートが初登され話題となっていた。僕の友人の廣瀬憲文である。彼も転生クライマーであった。廣瀬は必要に僕にフリークライミングのスクール設立をせまり、その講師には檜谷を押してきたのだった。
この話は、・・・・・・・・続く

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久々に「ほぼ日記」

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最近、身の回りに大変な事が頻発して、フエイスブックに軽い書き込みしかしていませんでしたが、すこし整理が付きそうなので、またまた、コラムやトレーニングの方法論、フリークライミングの日本上陸の歴史などを書いてゆこうと思います。

フエイスブックの「ロッククラフト」には、クライミング関係の思ったこと近況を書いています

同じく[yasunori mukai]には、個人的な出来事などを状況によって友達のみに公開しています。よろしかったらそちらのほうもお楽しみ下さいね

今日の僕.jpg

最近は、フリークライミングやロッククライミングを前提の体験が多い。以前は、ボルダーリングをしたいと限定での体験が多かったが・・ロッククライミング、フリークライミング、スポーツクライミング、の指導はおまかせ下さい。ボルダー体験もしておりますが・・
 
違いのわからない方は、ぜひロッククラフトで体験コースを受講してみてください
なんとなく、理解できると思いますよ(笑)
園児  1080円(4歳以下は体験無料)
小学生 1800円
大人  3240円  です。
体験.jpg
 

昨日、アララバートで

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「昨日、アラハバードで・・」

多くの困難を抱えながら、ひたすら沐浴する人が居る。
ありえない困難の最中、その様な行(ぎょう)を、もしかしたら4500年の間続けているのかもしれない。
あらゆるものに生命が宿り、あらゆる事象さえも神とみなす宗教を我々はヒンドゥと言うが、この言葉は、サンスクリット語で「インダスの東側」と言う意味である。インドにはヒンドゥという宗教名称は存在しない。
インダス河というと、多くの人は、インドの西側を流れる大河をイメージするが、インドを流れるのは、その総面積の5%くらいで、ほとんどはパキスタンなどを流れている。
河は聖なる水の源を指し、信仰の対象となる。河は恵みをもたらす神名のである。
我々が言う仏教やバラモン教、ジャイナ教などもヒンドゥ(正しくはインド国教)の宗派の一つにしか過ぎないのだ。即ち、ヨーガも座禅も沐浴もインド国教の修行の方法の一つにしか過ぎないのであ...。インドネシアのジャワ島にある世界最大の仏教遺跡も、インド人にとっては、ム図からの国教の遺跡の一つと言うことになるのだ。視点を変えれば、見方も変わるのだ。
ガンジス河もインドではガンガーといわれ、河ではなく、神であり聖水である。ガンジス河の上部はアラクナンダー川と呼ばれ、ヒマラヤ(雪の住みか)から運んできた聖水(あるいはミネラル)を受け止め、人々に信仰と言う名の沐浴を促したのである。
豊富なミネラルを含む水は、当然体に良い。同じように呼吸を整えるヨーガも良い。瞑想にふける座禅も精神のよりどころとなる。
その宗教には多数の神が居るのだが、その中でもビシュヌ(世界の秩序をつかさどる)、ブラフマー(宇宙の創造主)、シヴァ(破滅)は3大神と呼ばれるが、シヴァの9番目の化身が釈迦と言われている。

西洋人が言うアラハバートは、いったいどこにあるのだろうか?
そんな疑問が、僕の脳裏を駆け巡っている。

視点を変えれば、災いも神。インドの教えは、余りに深く悲しい。・・・しかし悲しみも活路を生む。
逆風こそ順風。試練は、越えられるものにしか与えられない。因果。業。全ては、Enptiness is form 逆も秦なり・・って考えるなら Foem is enptinessってことなのだろうか?

写真は12年に一度のアラババートでの沐浴祭。参加者は、3000万人とも1億人とも言われる。凄すぎる
この話を描き終えるには、1200字の原稿用紙で、2000枚くらいになりそうですね(笑)・・読む人居ないかもね
 
注釈 タイトルの昨日とは、インド国宗教成立の頃、今から4500年前頃をさします。46億年の地球時間で考えるなら、其れは1秒の1/1000にも満たない時間かもしれなィ ::と言う事で「4昨日と言う表現を使いました」とさ あらっはバード.jpg
                                                           続きは、そのうち書きます

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